彼女は確かにここにいた 11
みあと付き合い始めてから定期的に通うようになった美容院で、髪を短く切った。いつも担当してくれるのは二つか三つか年上の女性で、事情を尋ねられたので答えると、素敵だと高い声で言われた。
履歴書を書いたり面接の予定を入れたりと日中は大抵就活に時間を費やして、バイトのシフトも大幅に減らした。それでも生活費やみあとのデート代も稼がなくてはならないから、就活とバイトとでいっぱいいっぱいの日々が続いた。
深夜の電話や突然の逢瀬を、ときどき恋しく思う。そのたびに自分に一時の我慢なのだと言い聞かせた。
電話に出られずに謝りのメールを送ると、みあはいつも恨み言一つ言わず、頑張ってねというメッセージをくれた。たまに会えたときには俺が書いた小説を借りたがり、お勧めの小説を知りたがった。直接的なことばにはしないけれど、その態度でみあも寂しがっていてくれることを肌で感じて、なんとか頑張って少しでも早く就職をしなければならないとそのたびに尻を叩かれる思いがした。
年が明けた。年末は家族で過ごすのだというみあとは別々で、年を越してから一緒に初詣に出かけた。普段人がいない地元の神社に参拝客の行列ができていた。人々の熱気で寒さを感じないほどだった。
「さっきからずっといい匂いするなーって思ってたらあそこにベビーカステラのお店がある」
みあが俺の腕に掴まってぴょんと背伸びをする。ベージュのチェスターコートに首にはそれよりワントーン暗い色をしたスヌードを巻いている。長いコートの裾からちらりと見えるスカートとショートブーツの間のタイツの部分の足が寒そうだけれど、彼女はいつも通り天真爛漫で溌剌としている。
「お参りが終わったら買ってこうか」
「うん!」
「でもこの後カフェ行くんじゃなかったの?」
「それとこれとは別」
「ケーキが美味しいお店なんじゃなかったっけ?」
「大丈夫。ベビーカステラを食べてもあたしはちゃんとケーキも食べられるから」
いよいよ自分たちに参拝の番がやってきて、お賽銭を入れて二礼二拍手をする。手を合わせ、目を瞑って願うのは就職とみあとの関係のことだった。目を開けると隣でみあがまだ熱心に願っていた。一足先に最後の一礼をして、後ろの家族連れに場所を譲る。みあが礼を済ませたところで声を掛けて軽く手を挙げると、人込みのなかを抜けてやってきた。
「何をそんなに熱心に願い事してたの?」
「んー。内緒」
「なんで」
「だってこういうのって口に出したら叶わなくなるんじゃなかったっけ?」
それ以上は聞かずに、胸の内で同じような願い事をしていることを願った。
ベビーカステラを二人で分け合ってから神社を出ると急に寒さが身に染みて、急ぎ足でカフェに向かった。みあはいつもどおりたっぷりと時間を掛けて何を食べるか決めたあと、宣言通りケーキをぺろりと平らげた。俺もいつものように運ばれてきたケーキとみあとの写真を撮ってから、自分の分を食べた。紅茶を飲むと冷えた身体が芯から温められた。
人混みに揉まれた疲労と身体が温まったことで仄かな眠気を感じるほどの寛ぎを感じた。
「ミツくん、眠そう」
みあがマグカップに口を寄せながら小さく笑った。
「……疲れてそうだね」
「そんなことないよ」
実際そのことば通りだった。年末年始まで積極的に採用活動を行っている企業は少なかったし、少なくとも面接が設定されることは無かった。だからこの一週間程度はせいぜいこれから受けようと思っている企業について調べたり、履歴書を書いたりすることがほとんどだった。顔に疲れが出ているとするなら、きっとそれは慢性的なものだろう。働きたいと思っているにも関わらずなかなか仕事が決まらないと、焦るし精神的に疲れてくる。
一刻も早く決めて就活を終わらせたいという気持ちと、以前のような失敗を繰り返したくないという恐怖心の板挟みになっている。こうしてみあといる今も数日後に再開される就活の日々を思うと胃が重たい。せめて休みの間だけは、みあといるときは楽しいことを考えていたい。
「もし一人暮らし始めることになったらどこに部屋借りると便利かな?」
一寸先が闇なら十寸先ぐらいには少しばかりの光はあるかもしれない。
「え?」
中身の少なくなったマグカップを持ち上げようとしていた手を止めて、みあが不思議そうな顔をした。
「いや、仕事場がどこになるかによるけどさ、でもどこだったら俺の職場とみあの大学と両方に通いやすくなるかなーと思って」
「私の……大学?」
「そう。泊ってったときとか、いつか一緒に暮らすってときのことを考えるとさ」
「……確かに、そうだね」
マグカップに両手を添えて俯く。いつもこうだ。みあは未来の話をすると途端に口数が少なくなる。まだ学生なのだから将来のことが具体的に思い描けないのは仕方がないとしても、ここまで極端だと不安になってくる。まるで二人の未来など、期待されていないようで。
「みあはどうしたいとかないの?」
みあはぎくりとした顔をして、絞り出すように声を出した。
「うーん……、私はよくわかんないや。みつくんといられればそれでいいよ」
いつもだったら甘く響く恋人のことばも、今はなかなか就職先が決まらない自分の不甲斐なさを責められているようで、無性に腹が立った。
「この話をしだすといつもそうだよね」
自分でも自分の声の冷たさに驚いた。みあが身構えるのがわかる。それなのに感情がことばへと姿を変えて、止まらなくなる。
「将来の話をするといつも適当なこと言ってはぐらかす。もうこの際だからはっきり言ってよ。俺とは先のことは考えられないって」
「そんなこと思ってないよ……」
「だったら何なんだよ、その態度。俺は二人の将来のことまで考えて今頑張ってんのに……」
「それはわかってる」
それはわかってるよ、とみあは蚊の鳴くような声で繰り返した。
「正直みあのことがよくわからなくなるときがある。今回だけじゃない。みあは自分の話をしようとしないし。誰にでも話したくないことぐらいあるからってあんまり聞かずにいたけど、でも俺ってみあのこと知らなさすぎじゃない? 何でこんなに秘密主義でいるんだろうって思うときあるよ。もしかして他に本命でもいて、俺はキープされてんのかなとか本気でそこまで考えたりする」
吐き捨てるようにそう言ってみあの顔を見たことで、自分が今まで彼女から目を反らして話していたことに気が付いた。丸みを帯びた優しい顔がカッと一瞬で赤くなる。
「そんなことするわけないじゃん! わかってないのはみつくんのほうだよ!」
よく通る声が空気を伝わってカフェ中に届く。暖かい店内で身体を緩ませていた人々の間に微かな緊張が走って、各方面から視線が向けられるのを感じた。みあが口元に手を当てる。目元に涙が滲んでいるのを見て、伝票を持って席を立った。
店員の様子を伺うような視線を浴び、少し遅れてみあが付いてくるのを感じながら店を出た。
基幹都市のベッドタウンのこの町は、三が日ともなると境内の活気が嘘のように静けさに包まれる。風は冷たいけれど日の光は新年を祝うかのように暖かい午後。横に並ぶこともなく無言で歩く、二人。
昔から他人との間に波風を立てるのが苦手で、言いたいことがあっても我慢するほうだった。自分から喧嘩を吹っかけておいて、終わらせ方が分からない。さっきはごめん、と言い出せないような引っ掛かりも感じる。みあはこのままずっと黙っているつもりだろうか。せっかく久しぶりに会えたのに。人混みの中ではぐれないように繋いだ手。どこからか漂うベビーカステラの匂い。ロングコートから覗くタイツの脚。本殿の前で両手を合わせて真剣に願い事をする横顔。さっきまでの楽しさと、今日を楽しみに乗り越えてきたいくつかの日々を思うと虚しくなる。
このまま歩いて、どこに辿り着くのだろう。生まれてから今までずっと暮らしてきた町なのに、急に知らないことばを話す外国へ迷い混んだ気分だ。少し前に若い男女が並んで歩いている。カップルだろうか、夫婦だろうか。今の俺とみあは何も知らない通行人が見たら、どんな関係だと想像されるのだろうか。
しばらくするとどうやら駅のほうに向かって歩いているらしいということに気づく。少なくともみあを彼女が分かる場所までは連れて行かないといけないとは思っているらしい。
「ねえ、みつくん」
駅前のロータリーへ続く細い抜け道の途中で背後からみあの声がした。勝手に動いていたような足を止めて、振り返る。ビルの隙間のこの道は、日当たりも悪い。温まっていたはずの身体がブルっと震えた。
「私ね、本当はずっと寂しかったの。ミツくんが就活頑張ってることはわかってるし、それが私とのことを思ってのことだってこともわかってる。だけどやっぱり寂しくて。ずっと楽しみにしてたツイッターもブログもずっと更新されてないし……」
みあは逃げまいと覚悟を決めたかのように、真っ直ぐに俺の目を見ている。
「みつくんと付き合う前はね、ひとりぼっちの夜とかどうしようもなく寂しいときにみつくんのツイッターとブログを見てたの。書いてあること、ネガティブなことが多かったけど」
彼女の口から微かに漏れた笑い声に、愛情が籠っていることはわかっていた。
「でも自分が落ち込んでるときって、ポジティブなことを言われて無理矢理前を向かされるより、一緒に深いところまで落ちてきてくれるようなことばのほうが必要だし、信用できるの。ミツくんが書く感想は基本的に悲観的で、でもだからこそ信じられた。この人のことばには嘘が無いんだろうなって。感情に余計な飾りつけをしたりしないんだろうなって。だからね、私、初めてみつくんと会う前からきっとみつくんのことがすきだったんだよ」
通りが静かすぎて、遠くで初詣客たちのざわめきが聞こえる。
「その気持ちは今も変わらない。それどころか会うたびにみつくんのことがすきになってる。今だって私のことを思って一生懸命頑張ってくれてるんだって思うと、……もうことばにならないほど嬉しくて、ああ、この人のことがすきだなぁってじんわり感じる」
みあの目に涙が溜まって、そして勢いよく溢れた。ぶつけるようにして渡されることばたちにたじろいで、何かを言うことも手を伸ばすこともできずにいた。
「だけどね、私は正直未来のことなんて全然わかんなくて。……本音を言うなら、先のことなんてどうでもいいから、今、ずっとそばにいてほしい」
「でも……」
「わかってる」
みあが静かに首を横に振った。
「ごめんね。今はみつくんを怒らせるようなことしか言えないと思うから、今日は帰るね」
呆気に取られている俺を置いて、手の甲で涙を拭ったみあが歩き出す。
「送ってくよ」
「ありがと。でも良いよ、ここで」
そう言い残して去っていく。ブーツの足音が消えるまで、その場所を一歩たりとも動けなかった。




