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第三章:大樹と美月

駅前の目抜き通りにあるイタリアンレストラン『フィオーレ』は、この街を訪れる観光客にとっての聖地だった。

 テラス席のテーブル越しに、大樹だいきは向かい側に座る美月みづきへと微笑みかけた。

「……本当に、ここに来れて良かったね」

 美月が嬉しそうにワイングラスを傾ける。

 大樹にとって、今日は絶対に失敗できない日だった。一ヶ月間、一度も右手の指を動かさず、この日のために「魔法」を温存してきたのだから。

 だが、アクシデントは唐突に訪れた。

「あ、」

 美月が小さく声を上げた。彼女の白いブラウスの袖が、運ばれてきたメインディッシュの皿に触れ、ソースがべったりと付着したのだ。

「……ショック。お気に入りだったのに」

 美月の顔が瞬時に曇る。せっかくの最高潮のムードが、わずかな不注意で冷え切ろうとしていた。

 大樹は、美月の曇った顔と対峙し——一秒の迷いもなく、テーブルの下で小指を親指で三回タップした。

 一回、二回、三回。

 サーッと、テラスの空気が一瞬だけ真空になった。

 温度も音も欠落した無機質な風が吹き抜け、景色が「三十分前」へと巻き戻る。

 

 まだ料理が運ばれてくる前の時間。美月が「本当に、ここに来れて良かったね」と微笑んでいた、あの完璧な瞬間に。

「……本当に、ここに来れて良かったね」

 美月が、三十分前と全く同じ角度で首をかしげ、全く同じ声のトーンで言った。

 大樹は悦びに浸った。向かい合って座る彼女は気づいていない。今、自分が一ヶ月の権利を使い果たして、彼女の「失敗」を葬り去ったことに。

 今度は、大樹は美月の袖が皿に触れる前に、優しく彼女の腕を引いた。

「美月、袖、気をつけて。……ほら、汚れたら大変だろ?」

「あ、本当。ありがとう、大樹くんってば気が利くね」

 美月は無邪気に笑った。

 大樹はその笑顔を見て、神にでもなったような万能感を感じていた。彼は知らない。向かい合う彼女の笑顔の下にある心が、一度目の三十分間で感じていた「ショック」も、それを取り繕おうとした「努力」も、すべて大樹によって殺された「ダミー」であることに。

 テーブル越しに対峙しているようで、大樹は美月という人間とは一秒も向き合っていない。彼はただ、自分が編集した都合のいい映像を眺めているだけだった。

 完璧なディナーを終え、大樹は意気揚々と店を出た。

 そんな彼らのすぐ横を、一人の青年が肩を落として通り過ぎる。

 カフェで遥と対峙し、その気まずさを抱えたまま、魔法を使わずに夜道を歩く蒼太だ。

 大樹は、蒼太の暗い表情を鼻で笑った。

(……あんなツラして歩くなんて、センスがないよな)

 大樹は美月の手を強く握り、次の「正解」へと向かって歩き出した。

 その直後、足元のゴミ箱の横で、一匹の雑種犬がパタンと尻尾を振った。

 犬だけが、大樹が捨て去った「美月が悲しんでいた三十分間」の匂いを、まだその鼻先に感じていた。

最後までお読みいただきありがとうございます!

今回は「大樹と美月」、魔法を使い切ったよそ者たちの視点でした。

失敗に向き合った蒼太たちと、失敗を魔法で消した大樹たち。

一ヶ月に一度の権利の使い方が、少しずつこの街の人々の輪郭を浮き彫りにしていきます。

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