第二章:遥と不格好な障子
本物の夜風は、ちゃんと湿った土の匂いがした。
カフェ『刻』を出て、蒼太と駅の改札で別れてからもう十分以上が経っているのに、遥の心臓の奥はまだ微かにざわついていた。
結局、蒼太は三回目をタップしなかった。
親指が小指に触れ、二回目のタップを終えた後。彼の指先は空中でわずかに迷うように震え、やがて、諦めたようにテーブルの上に伏せられたのだ。
『……ごめん。本当に、最悪な一言だった』
気まずい沈黙を破ってそう頭を下げた蒼太の顔は、今まで見たどんな彼よりも情けなく、ひどく不器用に見えた。魔法を使って用意された、傷のない「正解」を差し出されるよりも、よっぽど人間らしくて。
その後の二人の会話はぎこちなく、コーヒーの味はすっかり落ちてしまっていたけれど、あの不格好な時間は間違いなく「本物」だった。
ふと、路地の入り口にあるゴミ箱の横で、ガサリと音がした。
街のローカルである、片耳の垂れた雑種犬だ。観光客が落としていったクレープの包み紙を熱心に嗅いでいた犬は、遥の足音に気づくと、一度だけ尻尾をパタンと振り、またすぐに鼻先を地面に戻した。
その時だった。
鼓膜がわずかに圧迫されるような感覚とともに、路地の空気が一瞬だけ真空になった。
温度も、匂いも、音すらも欠落した無機質な風が吹き抜ける。
遥の少し前を歩いていた三人組の観光客は、楽しげな会話を途切れさせることすらなく、そのまま歩き去っていく。彼らにとって今のこの時間は「初めての瞬間」であり、街のどこかで誰かが都合よく過去を巻き戻したことなど知る由もない。彼らはただ、失われた三十分前と全く同じ歩幅で、全く同じ冗談を言い合い、無自覚に時間をなぞっているだけなのだ。自分の人生が、誰かの編集したテープの一部に組み込まれているとも知らずに。
足元にいる雑種犬だけが、風が吹いた瞬間、ピクッと残った片耳を立てて空を睨んだ。しかし、短く鼻を鳴らすと、すぐに何事もなかったかのように包み紙の匂いを嗅ぎ直す。
遥は犬の横を通り過ぎた。
犬にとっても、誰かが書き換えた時間など知ったことではないのだ。過去への後悔も、未来への不安もない。ただ今、目の前にある地面の匂いと、自分の空腹だけが、疑いようのない現実なのだから。
路地を抜け、少し古びたアーケード街に入ると、遥の実家である『蓮時計店』の看板が見えてくる。
デジタル時計やスマートウォッチが溢れるこの時代に、手巻きや自動巻きの機械式時計ばかりを専門に扱うその店は、この「いつでも時間を巻き戻せる街」において、ひどく皮肉な存在だった。
店の裏口に回り、引き戸に手をかける。
すりガラスの向こうには、奥の居間で灯るオレンジ色の明かりと、不格好に継ぎ接ぎされた和紙の障子が見えた。
あれは遥がまだ二歳だった頃の痕だ。買ってもらったばかりの赤い三輪車にまたがり、家の中を暴走して、そのまま障子に派手に突っ込んで破いてしまったのだ。
普通なら、あるいはこの街の人間なら、すぐに魔法を使って「三輪車に乗る前の時間」に巻き戻し、障子も無傷のままにするだろう。だが、祖父の蓮は違った。泣きじゃくる遥の頭を撫でた後、わざわざ違う柄の和紙を上からペタペタと貼り付けて直したのだ。
『傷も残しておけば、いつか柄になる』
そう言って笑っていた祖父の皺くちゃな顔を思い出し、遥は自然と頬を緩ませた。
あの障子を見るたびに思う。誰かの魔法で真っ白に修復された綺麗な時間なんて、少しも愛おしくないのだと。
「ただいま」
引き戸を開けると、幾千もの時計が刻む秒針の音と、古い真鍮と油の匂いが、遥を温かく包み込んだ。
店と居間を繋ぐ作業場では、作業机に向かって背中を丸めた祖父の蓮が、細いピンセットを動かしていた。彼は振り返ることもなく、低くしゃがれた声で言った。
「……今の風で、今日は五回目だ」
遥は小さく息を呑んだ。
魔法の風が吹いた事実を、まるで夕立の回数でも数えるかのように口にする人間は、この街で蓮くらいのものだ。
「駅前の交差点で一回。昼過ぎにどこかの喫茶店で一回。夕方に二回。そして、今しがた吹いたやつで五回。……どいつもこいつも、ずいぶんと自分の人生をやり直したがる」
蓮は右目に嵌めていたキズミ(ルーペ)を外し、ようやく椅子を回転させて遥の方を向いた。
深く刻まれた顔の皺と、白く混じった無精髭。その鋭い眼光が、遥の顔を上から下まで、まるで壊れた時計の内部を点検するように舐め回す。
「どうした、そんなひどい顔をして」
「……ひどい顔って、孫に向かってひどくない?」
遥が苦笑いで誤魔化そうとすると、蓮は鼻で笑って立ち上がった。
「事実だろうが。だが――」
蓮は、作業机の上に転がっていた、分解されたままの古い懐中時計の歯車を指で弾いた。チリッ、と小さな金属音が鳴る。
「魔法で真っ白に漂白された『ダミーの顔』よりは、ずっとマシだ。お前は今日、一度も時間を消してない。自分の足で、傷をつけながらここまで帰ってきた。そういう顔だ」
その言葉に、遥の胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
蒼太が三回目をタップしなかったことへの安堵。それでも残ってしまった気まずさと、彼を傷つけてしまったかもしれないという後悔。そのすべてが「傷」として顔に出てしまっていることを、この祖父だけは正確に読み取ってくれる。
「おじいちゃん」
「ん?」
「……障子、また破いてもいい?」
不器用な強がりを込めてそう言うと、蓮は肩を揺らして笑った。
「やめておけ。もう直すための気の利いた和紙がない」
蓮はそう言って、机の上の小さなオイルランプを吹き消した。
「飯は食ったのか。まだなら、裏の商店街で買ってきたコロッケがある」
「……食べる。すごくお腹空いてる」
「だろうな。無駄な時間をやり直さなかった分、腹も減るってもんだ」
蓮はそれ以上何も聞かず、足を引きずりながら台所へと向かっていった。
遥は、壁一面に掛けられた振り子時計が一斉に時を刻む音を聞きながら、ゆっくりと靴を脱いだ。
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は遥と、時計職人の祖父のお話でした。
次回は視点が変わり、街で魔法を使う「よそ者」たちの様子を描いていきます。




