第一章:蒼太と遥
この街には、時折、妙な風が吹く。
湿り気も匂いもないその無機質な風は、街のどこかで誰かが「過去をやり直した」合図だ。
月に一度、30分間だけ時間を巻き戻せる権利。
人々はその魔法に縋り、失敗を消去し、傷のない綺麗な「正解」だけを並べて生きようとする。
やり直して、無傷な嘘を生きるか。
それとも、取り返しのつかない傷を負った「今」に向き合うか。
魔法の風が吹く街で、僕たちは選択を迫られる。
「……美味しくない?」
蒼太は、向かい合わせに座る遥の表情をうかがった。
金曜日の午後七時。古い煉瓦造りの建物を改装したカフェ『刻』。
遥の目の前には、厚焼きのパンケーキが鎮座している。たっぷりのメープルシロップと、溶けかけたバター。
「美味しいよ。……ただ、思ってたのと少し違っただけ」
遥はフォークの先で、パンケーキの端を小さく削った。
窓の外、街灯の下を『赤いコートを着た女』が足早に通りを横切っていく。
少し離れたカウンター席では、『蝶ネクタイの男』が新聞を広げ、カップに角砂糖を落とした。カチャン、という硬質な音が響く。
「思ってたのと違うって。これ、前にも食べたじゃん」
蒼太は、何気なく、しかし決定的な一言を口にした。
瞬間、遥の動きが止まった。
「……何それ。前に食べたなら、今の私の感想は無意味だって言いたいの?」
「いや、そんな意味じゃないよ。ただ、初めてじゃないんだから、味の想像はついてたんじゃないかなって思っただけで」
「そういうところが、嫌い」
遥は顔を上げ、蒼太の目を真っ直ぐに見据えた。
「蒼太はいつもそうやって、『前もそうだった』とか『また同じだ』とか言うよね。一回経験したことは、二回目からは記号にすぎないって思ってるの? 私の今の気持ちまで、勝手に過去に分類しないでよ」
蒼太は言葉を失った。
この街の住人にとって、「前と同じ」という言葉は禁句に近い。
一ヶ月に一度、誰にでも平等に与えられる「三十分間」のやり直し。人々は失敗を消し、都合の悪い言葉を無かったことにし、完璧な答えを導き出すためにその魔法を使う。
結果として、街には誰かがやり直した『正解の繰り返しの時間』が溢れている。人々は既視感を恐れ、自分の今この瞬間の感情が、誰かが都合よくやり直した後の「二回目」ではないかと、常に疑心暗鬼になりながら生きているのだ。
そんな街で「前にも」という指摘は、相手の「今」の鮮度と存在を根底から否定する、最も残酷な響きを持っていた。知っていたはずなのに、蒼太は無神経にそれを踏み抜いてしまった。
密閉されたカフェの中に、サーッと冷たい風が吹き抜けた。
テーブルの上、遥のコーヒーの液面が、音もなく小さな波紋を描く。
蒼太は、ただ目の前の彼女の機嫌を直す言葉を探すことで頭がいっぱいだった。
「とにかく、そんなに不服そうな顔しないでくれよ。せっかくの金曜なんだから」
窓の外では、『赤いコートを着た女』が足早に通りを横切っていく。
カウンター席では、『蝶ネクタイの男』が新聞を広げ、カップに角砂糖を落とした。カチャン、という音が店内に響く。
蒼太は言い返そうとして、唇を噛んだ。
何を言っても裏目に出る。遥の瞳には、隠しきれない失望が溜まっていく。
今、テーブルの上で、親指で小指を三回タップすれば。
そうすれば、この冷え切った空気も、今の自分の致命的な失言も、すべてを無かったことにできる。
一ヶ月に一度、自分だけに許された「三十分間」のコンティニュー。
今すぐ時間を戻して、パンケーキが運ばれてくる前の二人に戻ればいい。そこで「前と同じ」なんて言わなければいい。もっと別の、彼女が喜ぶ正解を差し出せばいい。
自分さえ魔法を使えば、遥は不愉快な思いをしたことすら気づかずに、笑顔で店を出られるのだ。
「……ねえ、蒼太」
遥が、静かに口を開いた。彼女は、テーブルの上に置かれた蒼太の右手をじっと見つめている。
「今、頭の中で考えてるでしょ。この気まずい空気を、私の怒った顔を、なかったことにしようって」
蒼太の指先が、ぴくりと跳ねた。
遥に見透かされている。彼女が拒絶しているのは、蒼太の失言そのものよりも、蒼太がその失敗を魔法で綺麗に塗りつぶそうとすることだった。
「あんなふうに、無責任に時間を消すのは簡単だよ。でもね、私はそんな時間の欠片の上で、蒼太と笑いたくない。……嘘のあなたと、向き合いたくないの」
遥の瞳から、ついに一粒の涙がこぼれ、テーブルの上で弾けた。
やり直して、無傷な二人になるか。
このまま、取り返しのつかない傷を負った「今」を生きるか。
蒼太は遥を見つめ、一回、二回と、ゆっくり小指をタップし――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
果たして、蒼太は三回目のタップをしたのか。
それとも、この取り返しのつかない「今」を選んだのか。
次回、視点を変えて「その後の時間」が描かれます。
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明日、第2話を更新予定です。




