第9話 家族を守るため
「この型から、三本目の鍵を作ったのですね」
「違う!」
宝石商の息子の声が、部屋の中へ響いた。
青灰色の蝋には、予備鍵の形がはっきりと残っている。
先端の細かな欠け。
左右で異なる溝の深さ。
持ち手の付け根にある、小さな歪み。
偶然似た形になったとは考えにくい。
「こんなものは知らない」
息子は木箱を指さした。
「誰かが私の部屋へ置いたんだ」
使用人が口にした言葉と同じだった。
自分の部屋から証拠が見つかった途端、彼もまた、誰かに置かれたのだと訴えている。
「誰が置いたのですか」
私が尋ねる。
「知らない」
「いつ置かれたのでしょう」
「だから、知らないと言っている!」
「この木箱は、どこにありましたか」
指導役の証明官が、捜索した警備兵へ確認する。
「机の一番下です。書類の束の下に置かれていました」
「引き出しに鍵は?」
「掛かっていました」
警備兵が答えた。
息子の表情が強張る。
「鍵は、本人が持っていたものを使用しました」
誰でも自由に開けられる場所ではない。
鍵の掛かった引き出し。
その奥に隠されていた、小さな木箱。
「それでも、誰かが置いたと言いますか」
「合鍵を持っていればできる!」
息子はすぐに答えた。
「この屋敷には、鍵を作れる人間がいるのですか」
「知らない!」
「あなたの机の合鍵を、誰かが作ったと?」
「私を陥れたい者なら、それくらいするだろう!」
「誰に恨まれているのですか」
「商売をしていれば敵はできる!」
言葉が次々と出てくる。
けれど、具体的な名前は一つも出てこない。
父親が、信じられないものを見るように息子を見つめていた。
「本当に、お前はこの木箱を知らないのか」
「知りません」
「私の目を見て答えろ」
息子は、父親へ顔を向けた。
「知りません」
はっきりと答えた。
その声には迷いがない。
少なくとも、迷っているようには聞こえない。
けれど。
机の引き出しを開けた鍵は、息子が持っていた。
木箱は書類の下へ隠されていた。
そして、その中には宝石箱の予備鍵から取った型がある。
これだけで犯人だと断定することはできない。
誰かが置いた可能性を、完全に否定する証拠はない。
だからこそ、次を調べる必要があった。
「ほかの引き出しも確認してください」
「まだ調べる気か!」
息子が声を荒らげる。
「当然だ」
答えたのは、父親だった。
息子が振り返る。
「父上」
「何もないのなら、困ることはないはずだ」
「私を信じないのですか」
「信じたいから調べる」
宝石商の声は低かった。
「疑いを残したまま、お前を信じたふりなどできん」
息子の顔が歪んだ。
警備兵が、隣の引き出しを開く。
中に入っていたのは、店の取引記録だった。
宝石の仕入れ。
加工職人への支払い。
貴族から受けた注文。
どれも整然とまとめられている。
「店の帳簿を、なぜ自室へ?」
証明官が尋ねる。
「私は後継者です。帳簿の確認も仕事のうちだ」
「当主の許可は?」
「もちろん得ている」
宝石商が帳簿を受け取り、表紙を確認する。
「これは店へ置いていたものではない」
「写しです」
息子は答えた。
「商売の勉強のため、自分で作った」
確かに、帳簿の表紙には店の正式な印がない。
息子が個人的に書き写したものでも、不自然ではなかった。
けれど、私は一番新しい頁で目を止めた。
宝石の仕入れに使われる予定だった金額。
その横に、小さな印がついている。
「この印は何ですか」
「取引が終わった印だ」
「仕入れた宝石は、どこにありますか」
「店の倉庫だろう」
宝石商が頁を覗き込み、眉をひそめた。
「この取引は、まだ終わっていない」
「何を言っているのです」
「仕入れ先から、品物は届いていない。支払いも来月の予定だ」
息子の目が、帳簿へ向いた。
「記入を間違えただけです」
「金額まで?」
「別の取引と混同した」
「どの取引ですか」
「今すぐには思い出せない」
また、覚えていない。
また、間違えた。
偶然や失敗だけで説明しようとする。
「店の正式な帳簿を確認しましょう」
証明官が告げた。
◇
正式な帳簿は、一階の書斎に保管されていた。
店で働く者が運んできた帳簿と、息子の部屋から見つかった写しを机へ並べる。
最初の数頁は、まったく同じだった。
日付。
取引先。
仕入れた宝石。
支払った金額。
けれど、三週間前の記録から数字が変わっている。
正式な帳簿では、宝石の仕入れに使うため、金貨百二十枚が店の金庫へ残されていた。
息子の帳簿では、その金がすでに支払われたことになっている。
「金庫を確認してください」
宝石商が、店の者へ命じた。
待っている間、息子は何も言わなかった。
腕を組み。
壁へ視線を向け。
誰とも目を合わせようとしない。
やがて、顔色を失った店の者が戻ってきた。
「金が……ありません」
「いくらだ」
「金貨百二十枚です」
正式な帳簿では、残っているはずの金。
息子の帳簿では、すでに使われたことになっていた金。
その額が、金庫から消えている。
「お前が持ち出したのか」
宝石商が息子へ詰め寄る。
「違います」
「金庫の鍵を扱えるのは、私とお前だけだ!」
「店の者が盗んだのかもしれない」
「また、誰かのせいにするのか!」
宝石商の怒声に、息子が一歩下がる。
「私は、店のために動いていたんです!」
初めて、息子の口から違う言葉が出た。
知らない。
覚えていない。
誰かが置いた。
それまでの否定とは違う。
「店のため?」
宝石商が聞き返す。
「新しい仕入れ先を見つけたんです」
息子は早口で続けた。
「南方から希少な宝石を運ぶ商人です。今のうちに契約すれば、王都のどの店よりも安く仕入れられると言っていた」
「聞いていないぞ」
「話せば反対するでしょう!」
「当然だ! どこの誰とも分からない相手へ、店の金を渡したのか!」
「成功すれば、店はもっと大きくなった!」
「品物は届いたのか」
息子は答えなかった。
「届いたのか!」
「……商人とは、連絡が取れなくなりました」
宝石商の身体が揺れた。
近くにいた店の者が、慌てて支える。
「金貨百二十枚を……すべて失ったのか」
「取り戻せます」
「どうやって!」
「別の取引で利益を出せばいい」
「そのために、妻の首飾りを盗んだのか」
「盗んでいません!」
息子は叫んだ。
「あれは、この家のものです!」
「妻のものだ!」
「母はもう亡くなっています!」
その言葉が、部屋を冷たくした。
宝石商の顔から、怒りが消える。
代わりに浮かんだのは、深い悲しみだった。
「だから、何だ」
「使わずに箱へしまっておくだけなら、店を救うために使った方がいい!」
「救う?」
宝石商が震える声で尋ねる。
「お前が勝手に失った金を埋めることが、店を救うことなのか」
「私は後継者です!」
息子は拳を握った。
「この店を大きくする責任がある! 父上が守ることしか考えないから、私が動かなければならなかった!」
守ることしか考えない。
それを責めるように言った。
けれど、店を守ることも。
亡くなった妻の形見を守ることも。
宝石商にとっては、大切なことだったはずだ。
「首飾りはどこですか」
私が尋ねる。
息子は黙った。
「まだ屋敷にありますか」
「……」
「売ったのですか」
「売ってはいない」
「では、どこへ?」
「一時的に預けただけです」
「誰に」
「金を貸す者です」
「首飾りを担保にしたのですね」
「取り戻すつもりだった!」
息子が私を睨む。
「期限までに金を返せば、首飾りは戻る。何も失われない!」
「その期限は?」
「十日後だ」
「返す金はあるのですか」
「これから作る!」
「どうやって?」
「店の取引で――」
「店の金を勝手に使い、失ったあなたが?」
息子の言葉が止まる。
机の上には、二冊の帳簿が開かれている。
一冊は、実際に起きたことを残した帳簿。
もう一冊は、息子が金の消失を隠すために作った帳簿。
「首飾りを預けた証拠はありますか」
証明官が尋ねた。
「ない」
「預かり証は?」
「捨てた」
「どこへ」
「覚えていない」
「取引した相手の名前は?」
「言えない」
「なぜ」
「口外しない約束だ」
「盗品を扱う相手だからでは?」
「盗品ではない!」
息子が机を叩いた。
「あれは家のものだ! いずれ私が継ぐ店のものだ!」
「今は、あなたのものではありません」
私が言う。
「父上のものなら、いずれ私のものになる!」
「いずれ自分のものになるなら、今盗んでもいいの?」
「盗んでいない!」
「持ち主へ黙って持ち出し、金を借りるために使った」
「店のためだ!」
「そして、使用人を犯人にしようとした」
息子の顔が強張る。
若い使用人は、少し離れた場所で警備兵に付き添われている。
もう拘束はされていなかった。
けれど、彼女の目には恐怖が残っていた。
あと少し遅ければ。
作られた証拠が見抜かれなければ。
彼女は盗人として裁かれていたかもしれない。
「この人が罪人になっても、構わなかったの?」
「証拠を置いたのが私だと決まったわけではない」
「鍵の型が、あなたの部屋から見つかりました」
「誰かが置いた!」
「帳簿も?」
「それとこれは別だ!」
「手袋についた黒油も?」
「別の錠前でついた!」
「紺色の布についた香油は?」
「以前触れた時に移った!」
「使用人の靴で作られた足跡は?」
「知らない!」
息子の声が大きくなる。
「全部を私がやったという証拠はない!」
「では、あなたの部屋をもう一度調べてもいいですね」
「何を探すつもりだ」
「首飾りを預けた相手につながるものです」
「そんなものはない」
「捨てたのですものね」
「そうだ!」
「どこへ捨てたかは覚えていない」
「何度言わせる!」
証明官が、息子の部屋から運ばれてきた書類へ目を通している。
その手が、一枚の封筒で止まった。
「これは?」
差出人の名はない。
封もされていなかった。
中から出てきたのは、短い手紙だった。
証明官が内容を読み上げる。
「青石七粒の首飾りを、金貨八十枚の担保として預かる。期限までに返済がなければ、品物の所有権はこちらへ移る」
宝石商が息を呑んだ。
「青石七粒……」
盗まれた首飾りと同じだった。
手紙には、受け渡しの場所と時刻も書かれている。
昨日の深夜。
王都西側の古い倉庫。
息子は、もう何も言わなかった。
「この手紙も、誰かが置いたのですか」
私が尋ねる。
沈黙。
「答えてください」
「……私は」
息子の唇が震えた。
「私は、父上を守ろうとしたんだ」
宝石商が目を見開く。
「店を失えば、父上には何も残らない」
「店を失わせかけたのは、お前だ」
「だから取り戻そうとした!」
息子は必死に叫んだ。
「首飾りを使えば、金を用意できる。取引を成功させれば、全部元に戻せる。誰にも迷惑は掛からないはずだった!」
「使用人は?」
私が尋ねる。
「……」
「彼女は、迷惑を掛けられていないの?」
「一時的に疑われるだけだ」
若い使用人が、息を呑んだ。
「首飾りを取り戻せば、あとで誤解だったことにできる」
「盗人として裁かれたあとで?」
「そこまでにはならない!」
「なぜ、そう言い切れるの?」
「私が何とかするつもりだった!」
「どうやって?」
「それは……」
息子は答えられない。
何とかする。
取り戻す。
元へ戻す。
まだ起きていない未来を使い、自分が今したことを正しいものへ変えようとしている。
「借金のある使用人なら、疑われても仕方がないと思ったの?」
「金に困っていたのは事実だ」
「だから、罪を着せてもいい?」
「私は家族を守るために――」
「罪のない人を差し出した」
「違う!」
息子の顔に、怒りが浮かんだ。
「私は父上のためにやった! 店のためだ! 家族のためだったんだ!」
何度も同じ言葉を繰り返す。
家族のため。
父親のため。
店のため。
その言葉で、自分のしたことを覆い隠そうとしている。
けれど。
父親は傷ついている。
母親の形見は奪われた。
使用人は、罪人にされかけた。
守られた者など、一人もいない。
それでも息子は、家族を守ろうとした人間の顔をしていた。
私は、その顔を見つめた。
まだ、《審黒の間》は開かない。
証拠が、足りないのではない。
息子はまだ、首飾りを持ち出したことしか認めていない。
鍵を作り。
足跡を作り。
証拠を使用人の部屋へ置いたことからは、逃げ続けている。
「家族のためだった」
息子は、もう一度言った。
それは告白ではなかった。
自分を守るために被った、新しい仮面だった。




