第10話 作られた犯人
「私は父上を守ろうとしたんだ」
宝石商の息子は、もう一度そう言った。
「店を失えば、父上には何も残らない。だから、私が何とかするしかなかった」
机の上には、二冊の帳簿が開かれている。
一冊は、実際に起きたことを記した正式な帳簿。
もう一冊は、失われた金貨百二十枚を隠すために書き換えられた帳簿。
その隣には、首飾りを担保として預けたことを示す手紙が置かれていた。
息子が店の金を勝手に使い、すべて失ったこと。
穴を埋めるため、亡くなった母親の首飾りを持ち出したこと。
そこまでは、もう明らかになっている。
けれど、息子はまだ認めていない。
使用人の部屋へ鍵を置いたこと。
首飾りを包んでいた布を置いたこと。
彼女の靴を使い、偽の足跡を残したこと。
自分の罪を、別の人間へ押しつけようとしたことだけは否定し続けていた。
「首飾りを持ち出したことと、使用人へ罪を着せたことは別だ」
息子は言った。
「私は首飾りを一時的に借りただけだ。彼女の部屋に証拠を置いたのは、別の誰かかもしれない」
「誰が、そんなことをするのですか」
私が尋ねる。
「知らない」
「あなた以外に、首飾りがなくなったことを隠したい人がいるの?」
「店を潰したい者ならいる」
「その人物は、あなたが首飾りを持ち出したことを知っていた?」
「私の行動を見張っていたのかもしれない」
「そして、あなたを守るためではなく、使用人を犯人に見せる証拠を用意した?」
「私まで疑われるようにするためだ!」
息子は机を叩いた。
「使用人が捕まったあと、証拠が偽物だと分かれば、次は私が疑われる。最初から、それが狙いだったんだ!」
どんな証拠を示されても、新しい誰かを作り出す。
姿も。
名前も。
目的も分からない敵。
その者が、すべてを仕組んだのだと言い張る。
否定するための言葉は、尽きることがなかった。
「あなたは先ほど、首飾りを取り戻せば使用人への疑いも誤解だったことにできると言いました」
「それは……」
「使用人が疑われることを、最初から知っていたのでは?」
「証拠が見つかったあとに考えただけだ」
「彼女が疑われても、あとで何とかすると」
「そうだ」
「何もしていない人が、どうしてそんなことを考えるの?」
息子の唇が止まった。
ほんの短い沈黙。
けれど、今まで途切れることなく言い訳を続けていた彼にとって、その沈黙は長すぎた。
「混乱していたんだ」
「何に?」
「父上に首飾りのことを知られたからだ!」
また、別の言葉へ逃げる。
私は机に並べられた証拠へ目を向けた。
使われていない予備鍵。
手で押しつけて作られた靴跡。
甘い香油の染みついた包み布。
鍵の型が残された青灰色の蝋。
一つずつ見れば、小さな不自然さにすぎない。
けれど、すべてが同じ目的のために置かれている。
若い使用人を、盗人に見せるために。
「もう一度、発見されたものを確認させてください」
私は証明官へ頼んだ。
証明官は小さく頷き、警備兵へ指示を出す。
使用人の部屋から回収された品が、改めて机の上へ並べられた。
銀色の予備鍵。
紺色の包み布。
泥のついた革靴。
借金の督促状。
「借金の紙まで証拠として並べる必要がありますか」
私が尋ねると、宝石商が顔を上げた。
「金に困っていた証拠だろう」
「借金がある人は、全員盗人なのですか」
「そういう意味ではない」
「でも、これを置いた者は、そのように思わせたかった」
母親の薬代。
それは使用人が盗みを働いた証拠ではない。
彼女が苦しい生活を送っていたことを示しているだけだ。
けれど犯人は、それを動機として利用した。
困っている者なら、盗んでも不思議ではない。
周囲がそう決めつけると知っていたから。
「この督促状は、どこにありましたか」
「机の上です」
使用人が答えた。
警備兵に囲まれていた時よりは落ち着いている。
けれど、その声にはまだ怯えが残っていた。
「普段から置いていたの?」
「いいえ」
「では、どこに?」
「引き出しの一番奥へしまっていました」
「誰にも見られないように?」
使用人は俯いた。
「母の薬代を払えないことを、知られたくありませんでした」
「その引き出しに鍵は?」
「ありません」
「屋敷の人なら、誰でも開けられた?」
「はい」
息子が小さく鼻を鳴らす。
「それなら、誰でも置けただろう」
「誰でも置くことはできます」
私は息子を見る。
「でも、彼女に借金があることを知っていなければ、これを証拠として使おうとは思わない」
息子の視線が、わずかに動いた。
「使用人の借金について知っていた人は?」
証明官が尋ねる。
「私は知りませんでした」
宝石商が答えた。
「使用人の私事には、口を出さないことにしている」
「屋敷のほかの者は?」
「治療師と、給金を管理している者は知っています」
使用人が迷いながら続ける。
「それから……若旦那様には、一度だけ相談しました」
全員の視線が、息子へ向いた。
「いつですか」
「一か月ほど前です」
「何を相談したの?」
「給金を前借りできないかと」
使用人の手が震えた。
「母の薬が変わり、今までよりお金が必要になりました。旦那様へ直接お願いする勇気がなくて、若旦那様なら取り次いでくださるかもしれないと」
「私は断った」
息子が早口で言った。
「店の決まりを曲げることはできないと伝えただけだ」
「借金の額も聞きましたか」
「覚えていない」
「督促状を見たのでは?」
「見ていない!」
使用人が息子の顔を見る。
「見せました」
小さな声だった。
「金額を確認したいと言われて、手紙をお渡ししました」
「一か月も前のことだ。覚えていないだけだ!」
「では、使用人が金に困っていたことは知っていたのですね」
息子は答えなかった。
犯人は、彼女の弱みを偶然見つけたわけではない。
相談された。
助けを求められた。
その時に知った事情を、罪を着せるために利用した。
「ほかの証拠も調べます」
私は紺色の布へ手を伸ばした。
甘い花の香り。
息子が使っている香油と同じ香り。
それだけなら、以前に首飾りへ触れた時に移った可能性もある。
けれど、この布にはもう一つ、気になるものがあった。
端の部分に、短い緑色の繊維が絡んでいる。
「証明官」
私は布を光へかざした。
「これを見てください」
証明官が細い器具で、繊維を取り上げる。
「羊毛だろう」
「この屋敷で、同じ色の布を使っているものはありますか」
宝石商が周囲を見回した。
「緑色の衣服は多い。これだけでは分からん」
「衣服ではないかもしれません」
私は、息子が外した革手袋へ目を向けた。
「手袋の内側を確認してもいいですか」
「また私を疑うのか」
「確認するだけです」
証明官が手袋を持ち上げ、内側へ指を入れた。
薄い革の内側には、柔らかな緑色の布が縫いつけられている。
右手の親指付近。
縫い目がわずかに裂け、細い繊維が外へ出ていた。
「同じ色だ」
宝石商が呟く。
証明官が、布に絡んだ繊維と手袋の裏地を並べる。
色だけではない。
糸の太さ。
撚り方。
ところどころに混じった黄色い毛。
どれも、よく似ている。
「同じ布から出た可能性があります」
証明官は慎重に言った。
断定はしない。
それでも、息子の顔から余裕が消えていく。
「以前、首飾りへ触れた時についたんだ!」
「この布は、首飾りを包むために使われていたものです」
私は言った。
「以前触ったという首飾りは、その時もこの布に包まれていたの?」
「そうかもしれない」
「覚えていないの?」
「何年も前のことだ!」
「この手袋は、何年も前から使っているのですか」
息子が黙った。
手袋は新しい。
革には傷も少なく、使い込まれた様子もない。
「いつ買ったものですか」
「……先月だ」
「では、何年も前に首飾りへ触れた時、裏地の繊維が布へつくことはありません」
「最近も触れた!」
「先ほどは、最後に触れた時期を覚えていないと言いました」
「思い出したんだ!」
「いつ?」
「先週だ!」
「なぜ?」
「母の命日が近かったから、見たくなった!」
宝石商の表情が変わった。
「妻の命日は、冬だ」
息子の口が開いたまま止まる。
「今は夏だぞ」
嘘を重ねるほど、逃げ道が狭くなっていく。
「この布を使って首飾りを包み、屋敷から持ち出した」
私は、証拠を一つずつ確かめるように言葉へする。
「その時、あなたの手袋の繊維と香油が布へ移った」
「違う」
「首飾りを預けたあと、布だけを持ち帰った」
「違う!」
「そして、使用人の部屋へ置いた」
「違うと言っている!」
息子の声が震えている。
「靴も確認させてください」
私は泥のついた革靴を持ち上げた。
使用人が普段履いていたもの。
けれど、三日前に足を痛めてからは使っていなかった。
底だけが泥で汚れている。
側面も。
内側も乾いたまま。
誰かが手に持ち、地面へ押しつけたと考えれば説明できる。
「履き口の内側に、黒い汚れがあります」
前に調べた時には、泥ではないとしか分からなかった。
私は白い布で、その部分を軽く拭う。
青黒い汚れが、布へ移った。
宝石箱の鍵穴。
息子の右手の手袋。
そして、使用人の靴。
同じような黒い油。
「靴を運んだ時、手袋についた油が移ったのでしょう」
「同じ油とは限らない!」
「その通りです」
私は認めた。
「似た油は、ほかにもあります」
「なら証拠にはならない!」
「一つだけなら」
私は靴の履き口をよく見る。
油のそばに、短い緑色の繊維が挟まっていた。
紺色の布から見つかったものと、同じ色。
息子の手袋の裏地と、よく似た繊維。
「この靴にも、あなたの手袋と同じ繊維がついています」
息子の顔色が変わった。
「使用人が盗んだのかもしれない!」
「何を?」
「私の手袋を使ったんだ!」
「彼女があなたの手袋を使い、自分の靴を手に持って足跡を作り、自分の部屋へ鍵と布を置いたと?」
「私を犯人にするためだ!」
「そのあと、自分が盗人として捕まるために?」
息子は答えられなかった。
若い使用人が、息を詰まらせる。
ずっと俯いていた顔を上げ、息子を見つめた。
「どうしてですか」
震える声だった。
「私は、あなたに助けてほしいとお願いしただけです」
「……」
「前借りが無理なら仕方がないと思いました。断られたことを恨んでもいません」
息子は使用人を見ようとしなかった。
「それなのに、どうして私を選んだのですか」
「まだ、私がやったと決まったわけではない」
「私に借金があると知っていたからですか」
「違う」
「誰も、私の言葉を信じないと思ったから?」
「違う!」
「使用人だから?」
息子は叫び返せなかった。
使用人の目から、涙がこぼれた。
「私にも家族がいます」
その一言が、部屋へ静かに落ちた。
「あなたが守ろうとした家族だけが、家族ではありません」
息子の肩が、わずかに揺れる。
「私が盗人として捕まったら、母は一人になります。薬も買えません」
「あとで誤解だったことにするつもりだった!」
息子が、とうとう叫んだ。
誰も言葉を返さなかった。
彼自身も、自分が何を口にしたのか気づいたのだろう。
顔が強張る。
「今、何と言った」
証明官が尋ねる。
「……」
「あとで誤解だったことにするつもりだった、と言ったな」
「違う。今のは――」
「彼女が疑われることを、最初から知っていたのですね」
「私は……」
「鍵を置いたのですか」
「違う」
「包み布を置いた?」
「違う!」
「靴を使って、偽の足跡を作った?」
「違う!」
否定する声だけが、どんどん大きくなる。
けれど、その言葉の下から真実が見えていた。
鍵の型。
手袋の黒い油。
裏地から抜けた緑色の繊維。
紺色の布。
使用人の靴。
借金の督促状。
すべてを一つにつなげたのは、息子自身だった。
「何のために、証拠を置いたのですか」
私が尋ねる。
「置いていない!」
「首飾りがなくなった理由を、父親へ知られないため?」
「違う!」
「店の金を失ったことを隠すため?」
「私は店を守ろうとした!」
「自分が後継者から外されないため?」
「違う!」
「失敗したと知られるのが怖かったから?」
「黙れ!」
息子が私を睨んだ。
その目には、怒りよりも恐怖があった。
「私は、この店を継ぐ人間だ!」
「だから、使用人を犠牲にしていいの?」
「犠牲になどしていない!」
「盗人として捕まるところでした」
「あとで助けるつもりだった!」
「先ほど、証拠を置いていないと言いました」
「それは……」
「何もしていないのに、どうやって助けるつもりだったの?」
息子の唇が震えた。
もう、言葉だけでは逃げられない。
「私は……少し疑いを向けただけだ」
ついに、声が小さくなった。
「少し?」
「時間が必要だった」
息子は父親を見る。
「首飾りを取り戻すまでの時間が」
「その間、彼女を犯人にするつもりだったのか」
宝石商の声は、怒りを失っていた。
残っているのは、深い落胆だけだった。
「捕まっても、すぐに罪が決まるわけではありません」
息子は必死に続ける。
「十日だけです。十日あれば金を作り、首飾りを取り戻せる。そうすれば、すべて元に戻せる」
「元に?」
使用人が呟いた。
「私が盗人だと疑われたことも、元に戻るのですか」
「金で償う!」
「母が、私を信じられずに苦しむ時間も?」
「それは……」
「屋敷の人たちが、私を見る目も?」
「だから、あとで説明すると――」
「私が怖かったことも?」
息子は答えられない。
証拠を置いた時、彼は使用人の恐怖を考えなかった。
母親の薬を買えなくなることも。
罪人として扱われる苦しみも。
すべて、あとで元へ戻せるものだと思っていた。
「私は家族を守ろうとしただけだ」
息子は、また同じ言葉を口にした。
「店を守ることが、父上を守ることになる。母の首飾りだって、店を失えば意味がない。私は、家族の未来を守ろうとしたんだ」
家族のため。
父親のため。
店のため。
その言葉を重ねるたび、自分がしたことから遠ざかっていく。
「守ったのではありません」
私の声は、静かだった。
「何?」
「あなたが守ろうとしたのは、家族ではない」
「私の何が分かる!」
「失敗した自分を、父親に見られたくなかっただけ」
「違う!」
「後継者ではないと言われるのが怖かった」
「違う!」
「だから、あなたを信じて相談した人を犯人にした」
「私は家族のために――」
「彼女にも家族がいると知っていたのに」
息子の声が止まる。
「あなたは家族を守ったのではない」
机の上の証拠が、夕日の中に並んでいる。
声を持たないものたちが、何が起きたのかを示している。
「家族という言葉を、自分を守るために使ったのです」
息子の顔が歪んだ。
「黙れ……」
私は待った。
黒い水面が広がるのを。
無数の鏡が現れるのを。
けれど、何も起きない。
まだ足りないのだろうか。
いいえ。
証拠は揃っている。
息子自身も、使用人へ疑いを向けるため証拠を置いたことを認めた。
では、何が――
『あなたが望むなら』
声が聞こえた。
ラテの首輪に触れた時と同じ声。
耳ではなく、私の内側へ響く。
『残されたものは、すでに真実を示した』
部屋の灯りが揺れた。
窓から差し込んでいた夕日が消えていく。
石壁が。
机が。
証明官が。
警備兵が。
泣いている使用人が。
傷ついた顔で息子を見つめる宝石商が。
すべてが黒い闇へ呑まれていった。
『それでもなお、罪人が美しい言葉の陰へ隠れるのなら』
最後に残ったのは、私と息子だけだった。
◇
足元へ、黒い水面が広がる。
無数の鏡が、闇の中へ浮かび上がった。
「何だ……ここは」
息子が怯えた声を出す。
私は水面に映った自分を見る。
王立証務学院の濃紺の制服が、足元から闇へ溶けていく。
代わりに現れたのは、夜そのものを織り上げたような黒いドレス。
胸元から裾へ伸びる銀糸が、鏡の亀裂のように輝いていた。
両手は、肘まで届く黒い手袋に覆われる。
長い裾が水面を撫で、静かな波紋を広げていく。
闇の奥から、白い仮面が現れた。
ダリオが被っていたものとは違う。
苦しげな被害者の顔ではない。
穏やかに微笑む顔。
家族を思い。
父親を支え。
自分を犠牲にして店を守ろうとする、献身的な息子の顔。
白い仮面は、ゆっくりと息子の顔へ重なった。
「私は、家族を守ろうとした」
仮面の奥から、優しい声が聞こえる。
私は黒いドレスの裾を揺らし、一歩前へ出た。
「また、仮面を被るのね」




