第6話 開かない扉
夏季休暇が終わった。
濃紺の上着に袖を通し、胸元へ王立証務学院の銀色の徽章を留める。
白い立ち襟のシャツ。
膝下まである濃紺のスカート。
腰のベルトには、記録帳と採取用の小袋。
鏡の前に立つと、久しぶりに見る学院生の自分が映っていた。
ラテの赤い首輪は、机の上の木箱にしまってある。
持っていくか迷ったけれど、置いていくことにした。
「行ってきます」
返事はない。
それでも私は、いつもの癖で部屋へ声をかけた。
◇
王立証務学院は、王都の北側に建つ石造りの建物だ。
証明官や物証鑑定士を目指す者が、法律、現場保存、聞き取り、痕跡の調べ方を学ぶ。
門をくぐった直後、周囲からいくつかの視線を感じた。
「クゼ・ミラだ」
「例の証明官の娘か」
「夏季休暇中にも事件へ関わったらしい」
声を潜めているつもりなのだろう。
けれど、十分に聞こえている。
「父親が有名だと、学生でも現場に入れてもらえるんだな」
背後から、わざと聞こえる声がした。
振り返ると、同じ一年生の男子生徒が立っていた。
「私は父の指示で現場へ入ったわけではありません」
「そういうことにしているのか?」
「入学試験の選考からも、父は外れています」
「証明できるのか」
父の名前がなければ、私はここにいない。
そう言いたいらしい。
腹は立った。
けれど、言い争っても何も証明できない。
「そう思うなら、実習で確かめればいいわ」
それだけを告げ、教室へ向かった。
◇
休暇明け最初の授業は、中止になった。
教壇に立った証明官が、集まった生徒たちを見渡す。
「西区の訴願所へ、盗難の届け出があった」
教室がざわつく。
「宝石商の屋敷から、亡くなった妻の形見である首飾りが盗まれた。現場はすでに保存されている」
机の上へ、事件の概要が書かれた紙が配られた。
「本日は現場観察の実習へ変更する」
「犯人は分かっているのですか」
一人の生徒が尋ねた。
「疑われている者はいる」
屋敷で働く若い使用人。
彼女の部屋から、宝石箱の鍵と首飾りを包んでいた布が発見された。
さらに、母親の薬代による借金もあったという。
「十分では?」
別の生徒が言った。
「鍵も布も動機もある」
証明官は答えなかった。
代わりに、生徒たちへ告げる。
「証拠があることと、その証拠が何を示しているかは別だ。現場で確かめろ」
◇
宝石商の屋敷へ到着すると、若い使用人が応接室に立たされていた。
目を赤く腫らし、両手を胸元で握っている。
「私は盗んでいません」
向かいに立つ宝石商が、机を強く叩いた。
「なら、なぜお前の部屋から鍵が出てきた!」
「分かりません。今朝まで見たこともありませんでした」
「首飾りを包んでいた布もあったのだぞ!」
「誰かが置いたんです!」
「誰が、そんなことをする!」
使用人は答えられなかった。
机には、発見された証拠が並べられている。
細い銀色の鍵。
紺色の布。
借金の督促状。
泥のついた革靴。
その隣には、宝石商の息子が立っていた。
「父上。怒鳴っても首飾りは戻りません」
穏やかな声だった。
「まずは学院の方々に調べてもらいましょう」
取り乱す父親を支える、冷静な息子。
屋敷の者たちも、彼を頼るような目で見ていた。
「昨夜、あなたはどこにいましたか」
私が使用人へ尋ねる。
「厨房です。夕食の片づけが終わったあとは、自室へ戻りました」
「主人の寝室には?」
「入っていません」
「この靴は、あなたのもの?」
「はい。でも、三日前から履いていません」
使用人がスカートの裾を少し上げる。
右足首には、白い布が巻かれていた。
「足を痛めています。昨夜も室内履きを使っていました」
現場に残っていた靴跡は、まっすぐ歩いていた。
足を引きずった跡もない。
歩幅も、目の前の使用人より広かった。
私は次に、紺色の布を手に取った。
甘い花の香りがする。
「香油を使っていますか」
「いいえ」
使用人は首を横へ振る。
「そんな高価なものは買えません」
証拠は彼女を指している。
けれど、どれも不自然だった。
分かりやすすぎる。
「本当に盗んでいないの?」
使用人の前へ立ち、その目を見る。
「誓って、盗んでいません」
震えている。
泣いている。
それでも、目は逸らさなかった。
私は待った。
聴取室の灯りが消えるのを。
黒い水面が広がるのを。
無数の鏡が現れるのを。
けれど――何も起きなかった。
《審黒の間》は開かない。
この使用人が無実だから?
違う。
開かなかったことは、無実の証明にはならない。
証拠が足りないだけかもしれない。
私は使用人から離れ、宝石商を見た。
「宝石箱を確認させてください」
◇
宝石箱は、主人の寝室に置かれていた。
黒い木で作られた、小さな箱。
蓋にも錠前にも、壊された跡はない。
「錠前には油を使っていますか」
「月に一度、黒油を差している」
宝石商が答える。
「古い錠前だからな」
鍵穴を覗く。
内側には、青黒い油が残っていた。
私は、使用人の部屋から見つかった鍵を受け取る。
銀色の鍵は、不自然なほどきれいだった。
溝の奥には、白い磨き粉が残っている。
「この鍵は、最近磨かれていますね」
宝石商の息子が答えた。
「屋敷の銀製品は、休暇前にすべて磨かせました。鍵もその時に」
私は白い布で、鍵の溝を拭った。
ついたのは白い粉だけ。
黒い油は、一滴もつかなかった。
「この鍵は使われていません」
宝石商が眉をひそめる。
「何を言っている」
「この鍵を宝石箱へ差し込んだなら、溝に黒油が付着するはずです」
私は鍵穴と鍵を並べて見せた。
「それだけではありません。鍵の溝に残った磨き粉も、差し込めば削れているはずです」
けれど、磨き粉は溝の奥まで残っている。
この鍵は、磨かれてから一度も錠前へ差し込まれていない。
「では……なぜ、その鍵が使用人の部屋にあった?」
「宝石箱を開けるためではありません」
私は応接室にいる使用人を思い浮かべた。
「彼女を犯人に見せるために置かれたのです」
室内が静まり返った。
鍵。
包み布。
靴。
借金。
証拠が多すぎるのではない。
誰かが、証拠を揃えすぎたのだ。




