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第4話 被害者の仮面



「俺は被害者だ!」


 ダリオは荒い息を吐きながら叫んだ。


「俺の方が傷つけられたんだ!」


 聴取室に、男の声が響いた。


 誰も、すぐには答えなかった。


 机の上には、ダリオが残したものが並んでいる。


 革靴。


 深緑色の外套。


 銀色の鈴。


 煤のついた皿。


 ラテの首輪から千切れた、赤い革片。


 どれほど言葉を重ねても、証拠は消えない。


 それでもダリオは、自分を傷つけられた側だと言い張っている。


「仕事を奪われた!」


 ダリオは、縄を掛けられた両手で机を叩いた。


「金もなくなった。妻は出ていった。息子にも会えない! 俺には何も残っていない!」


「だから、ラテを傷つけたの?」


 私が尋ねると、ダリオの顔が引きつった。


「俺は傷つけていない!」


「証拠があります」


「全部、作られたものだ!」


「では、どうして父を恨んでいるのですか」


「あいつが俺を追い詰めたからだ!」


「その父を苦しめるために、ラテを選んだのではないの?」


「知らない!」


「父本人ではなく、何も知らないラテを」


「黙れ!」


「抵抗できないから」


「黙れと言っている!」


 ダリオの顔が赤く染まる。


 けれど、その怒りの奥にあるものが見えた。


 恐れ。


 証拠に追い詰められ、逃げ道を失いかけている者の顔。


「ラテは、あなたに何をしたの?」


「知らない!」


「あなたのお金を奪った?」


「黙れ!」


「仕事を失わせた?」


「やめろ!」


「家族を連れていった?」


「違う!」


「では、なぜラテだったの?」


 ダリオは答えなかった。


 唇だけが、何度も動いている。


 新しい言い訳を探している。


 靴跡も。


 外套の糸も。


 赤い革片も。


 鈴も。


 煤も。


 すべてがダリオを指している。


 それでもなお、彼は自分を被害者だと言い続ける。


 自分だけが苦しめられたのだと。


 私は膝の上で、ラテの首輪を握った。


 指が震えていた。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 ただ、真実を見届けるための震えだった。


 その瞬間だった。


『あなたが望むなら』


 声が聞こえた。


 ラテの首輪に触れた時と同じ声。


 女とも男とも分からない。


 耳からではなく、私の内側へ直接響いてくる。


『残されたものは、すでに真実を示した』


 聴取室の灯りが、一つずつ消えていく。


 石壁が闇に溶けた。


 証明官の姿が消える。


 警備兵も。


 レオンも。


 机の上に並べられた証拠さえ、黒い闇へ呑まれていった。


『それでもなお、罪人が仮面を被るのなら』


 最後に残ったのは、私とダリオだけだった。


          ◇


 足元には、黒い水面が広がっていた。


 水のように波打っている。


 けれど、足は沈まない。


 上を見ても、天井はない。


 下を見ても、底は見えない。


 闇の中に、無数の鏡だけが浮かんでいた。


 どの鏡にも、ダリオの姿が映っている。


「何だ、ここは」


 ダリオが周囲を見回す。


 両手の縄は消えていた。


 それでも、逃げることはできない。


 走っても。


 叫んでも。


 闇の景色は何一つ変わらなかった。


「お前、何をした!」


「分かりません」


 本当に分からなかった。


 けれど、この場所の名だけは知っていた。


 誰かに教えられたわけではない。


 ずっと昔から、私の中に眠っていた言葉のように浮かんでくる。


「ここは、《審黒の間》」


 その名を口にした時、足元の水面が揺れた。


 そこに映った自分の姿を見て、私は息を止める。


 聴取室で着ていた服は消えていた。


 代わりに私の身体を包んでいたのは、夜の闇を織り上げたような黒いドレスだった。


 細い銀糸が胸元から裾へ走り、砕けた鏡の亀裂のような模様を描いている。


 肩から落ちる黒い布は薄い影のように揺れ、長い裾は水面へ溶けながら、私の足元に静かな波紋を広げていた。


 両手は、肘まで届く黒い手袋に覆われている。


 けれど、その手の中には、ラテの赤い首輪だけが残っていた。


 なぜ、この姿になったのかは分からない。


 それなのに、不思議と恐ろしくはなかった。


 初めて身にまとったはずなのに、長い間忘れていたものを取り戻したような感覚があった。


 この場所では。


 これが、私の本来の姿なのだと分かった。


「何だ、その格好は……」


 ダリオが、怯えた目で私を見る。


 私は答えなかった。


 私がその姿になった理由よりも、ここへ呼ばれた理由の方が大切だった。


 その時。


 闇の奥から、白いものが現れた。


 仮面だった。


 頬には涙が流れ、口元は苦しげに歪んでいる。


 すべてを奪われた者の顔。


 誰にも理解されず、見捨てられた被害者の顔。


 白い仮面は宙を滑り、ダリオの顔へ重なった。


「そうだ」


 仮面の奥から、弱々しい声が聞こえる。


「俺は奪われた」


 周囲の鏡に、影が映り始めた。


 役所から追い出されるダリオ。


 荷物を外へ投げ出されるダリオ。


 妻に背を向けられるダリオ。


 一人で酒を飲むダリオ。


「仕事も、金も、家族も」


 鏡の中で、父らしき影が立っている。


 顔は見えない。


 ただ証拠を差し出し、ダリオの犯した罪を示している。


 けれど、ダリオの鏡の中では、その影は巨大な怪物のように歪められていた。


「あの男が、全部奪った」


「違う」


 私が言うと、一枚の鏡に細い亀裂が走った。


「何が違う!」


「父は、あなたの罪を明らかにしただけ」


「そのせいで、俺はすべてを失った!」


「あなたが罪を犯さなければ、失わなかったものです」


「俺だけじゃない!」


 仮面の口元が、大きく歪んだ。


「みんなやっていた!」


「みんなやっていた? あなたがやった事実は消えない」


「俺は命令された!」


「命令された? なら、従ったあなたの意思はどこにあるの?」


「断れば仕事を失っていた!」


「だから、ほかの人から奪うことを選んだ」


「生きるためだった!」


 一枚の鏡が光った。


 税を納めるため、少ない金を数える老人。


 病気の子供を抱え、空の財布を見る女。


 食事を減らし、家族へ分け与える男。


 ダリオが帳簿から消した金。


 その向こうにいた人々。


「知らなかった!」


「知らなかった?」


 私は、鏡に映る人々へ目を向けた。


「知らないふりをしたのは、あなた」


「俺は、そんな奴らを見たことがない!」


「見なければ、傷つけていないことになるの?」


「黙れ!」


「見なさい。これが、あなたが見ないふりをしてきた現実」


 鏡の中で、人々の暮らしが壊れていく。


 誰も、ダリオを責める言葉を口にしない。


 ただ、奪われたものを抱え、明日をどう生きるか悩んでいる。


「あなたが壊したのは、帳簿じゃない。人の生活よ」


「俺は被害者だ!」


 白い仮面が、さらに厚くなる。


「妻は俺を見捨てた! 息子を連れていった! 俺が苦しんでいるのに、誰も助けなかった!」


 別の鏡が光った。


 荷物をまとめる妻。


 その腕を掴むダリオ。


 怯えて泣く子供。


 扉を塞ぎ、外へ出さないと怒鳴るダリオ。


「見るな!」


 ダリオが叫ぶ。


「俺を捨てた女が悪い!」


「あなたから逃げたのではないの?」


「違う!」


「息子を守るために」


「違う!」


「あなたは、自分から離れようとした妻を脅した」


「俺の家族だ!」


「家族なら、怖がらせてもいいの?」


「黙れ!」


 鏡に映る光景は止まらない。


 ダリオが見ないふりをしてきたもの。


 自分に都合のいい言葉で塗りつぶしてきたもの。


 そのすべてが形になり、彼を取り囲んでいた。


「俺は追い詰められていた」


 ダリオの声が震える。


「誰も俺を助けなかった。だから仕方がなかった」


「ラテは、あなたに何も奪っていない」


 ダリオの動きが止まった。


「仕事も、家族も、誇りも。ラテは、あなたから何一つ奪っていない」


「……あの男の家の猫だった」


「それだけ?」


「家族が大切にしている猫だった」


「それだけなのね」


 闇の中に、鈴の音が響いた。


 ちりん。


 一枚の鏡へ、昨夜の庭が映し出される。


 西の塀。


 雨に濡れた土。


 塀の向こうで、銀色の鈴を揺らすダリオ。


 煤のついた皿に置かれた魚。


 鈴の音に気づき、近づいてくるラテ。


「やめろ」


 ダリオが後ずさる。


 ラテは警戒しながらも、魚の匂いへ鼻を近づけた。


 何も知らずに。


 ただ、音に興味を引かれて。


 ダリオの手が伸びる。


 赤い首輪を掴む。


「見るな!」


 ラテが身をよじった。


 前脚で、ダリオの手を引っかく。


 ダリオの顔が怒りに歪む。


『畜生のくせに』


 鏡の中から、声が聞こえた。


 首輪を強く引き、ラテを地面へ押さえつける。


「違う」


 ダリオが首を振る。


「俺は、あの男へ思い知らせたかっただけだ」


「父を恨んだのなら、父を選べばよかった。でも、あなたが選んだのは抵抗できない命。何も知らない猫。ただ家族に愛されていただけの、小さな命」


「……やめろ……」


「あなたは復讐をしたかったんじゃない。自分の弱さを、誰かにぶつけたかっただけ」


 鏡の中で、ダリオはラテを地面へ押さえつけていた。


 その顔に浮かんでいるのは、怒りでも悲しみでもない。


 抵抗できない相手を支配することへの、歪んだ快楽。


「違う! 俺は……俺は……!」


「弱いものを選んだ時点で、それは復讐ではない」


 私はダリオへ一歩近づいた。


 黒いドレスの裾が水面を滑り、銀色の波紋が広がっていく。


「快楽よ」


 白い仮面に、細い亀裂が入った。


「違う……」


「あなたが押さえつけたのは猫じゃない。自分より弱いもの、すべてよ」


 鏡の中に、怯える妻と子供が映る。


 金を奪われた人々が映る。


 そして、動かなくなったラテが映った。


「俺は……そんな人間じゃない」


「あなたは父を恨んでいたんじゃない」


 仮面の亀裂が広がっていく。


「自分の弱さを恨んでいた」


「やめろ……」


「その弱さを罪に変えたのは、誰でもない。あなた自身」


 白い仮面が、大きく軋んだ。


「あなたが守り続けた被害者の顔は、ただの嘘だった」


「違う……俺は被害者だ……!」


「いいえ」


 私の声に応えるように、闇がわずかに揺れる。


「あなたは被害者ではない。被害者の仮面を被った加害者」


 ダリオが、両手で仮面を押さえた。


「やめろ!」


「あなたが守り続けた仮面。その下にあるものを、今ここで晒す」


 無数の鏡が、一斉にダリオへ向いた。


「逃げても、言い訳しても、鏡はあなたを映す」


 仮面の亀裂から、ラテを見下ろして笑っていた顔が覗く。


 私は、黒い手袋に覆われた片手を上げた。


 鏡のすべてが、白い仮面へ光を注ぐ。


「――《真貌しんぼう剥離はくり》」


 白い仮面が砕けた。


 鏡が砕ける音が、闇の中へ静かに落ちた。


 白い仮面は、もうダリオの顔を覆っていなかった。


 砕けた破片が黒い水面へ沈み、幾重もの波紋を広げていく。


 ダリオは、その場に膝をついていた。


 肩が震えている。


 息が乱れている。


 逃げ道を探すように周囲を見回す。


 けれど、どこにも出口はなかった。


 あるのは、無数の鏡だけ。


 そのすべてが、ダリオの本当の顔を映していた。


 弱さ。


 卑怯さ。


 罪。


 そして――自分より弱いものを選んだ時に浮かべていた、あの笑み。


「……やめろ。見せるな……」


 ダリオが鏡へ背を向ける。


 けれど、背後にも鏡がある。


 右を向いても。


 左を向いても。


 目を閉じても。


 自分の真貌から逃れることはできない。


 私は一歩、彼へ近づいた。


「ダリオ・ベルク」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 怒りをぶつける声ではない。


 ただ、変えることのできない事実を告げる声。


「あなたが被っていた仮面は、もう砕けました」


「違う……俺は……俺は被害者だ……!」


「あなたは被害者の顔を借りただけ。本当は――自分より弱いものを選んだ加害者」


「違う! 俺は追い詰められて……!」


「追い詰められたから、弱い命を選んだの?」


 ダリオの呼吸が止まる。


 一枚の鏡に、生きていた頃のラテが映った。


 窓辺で眠り。


 私の本の上へ乗り。


 何も知らず、ただ家族に愛されていた小さな命。


「ラテは、あなたから何も奪っていない」


「……やめろ……」


「仕事も、家族も、誇りも。ラテは、あなたから何一つ奪っていない」


 鏡の中で、ラテが私を見上げる。


 いつものように、尻尾をゆっくりと揺らしている。


「奪ったのは、あなたの手」


 ラテの姿が、鏡の中から静かに消えていく。


「あなたが奪ったものは、帳簿の数字じゃない」


 闇が深く沈んだ。


「生きていた命よ」


 鏡に映るものが、一つずつ消えていく。


 人々の暮らし。


 怯える妻。


 泣いている子供。


 動かなくなったラテ。


 最後に残ったのは、ダリオ自身の姿だけだった。


 言い訳も。


 怒りも。


 被害者の顔も失い。


 ただ、自分が犯した罪の前に膝をつく男の姿。


「これが、あなたの真貌」


 ダリオは何も答えられなかった。


「その仮面は砕けた。もう二度と、あなたを守らない」


 鏡に、最後の亀裂が走る。


 闇の向こうから、白い光が差し込んだ。


 砕けた鏡の破片が、次々と光へ呑まれていく。


 ダリオの足元から、黒い水面が消えていった。


 逃げ込んでいた闇も。


 身を隠していた言い訳も。


 被害者を装うための顔も。


 もう、どこにも残っていない。


「帰りなさい」


 私は、仮面を失ったダリオを見つめた。


「あなた本来の姿で」


 ダリオの身体が闇へ沈んだのではない。


 彼を守っていた闇の方が、消えていった。


 そして《審黒の間》は、静かに閉じた。


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