第3話 逃げ続ける男
ダリオ・ベルクの住居が調べられたのは、その日の夕方だった。
レオンが裁判所へ報告し、正式な捜索の許可を取った。
立ち会ったのは、裁判所から派遣された証明官と二人の警備兵。
私も西区まで同行したけれど、長屋の中へ入ることは許されなかった。
「ミラ様はこちらでお待ちください」
レオンに案内されたのは、長屋の向かいにある小さな食堂だった。
窓際の席から、ダリオの部屋が見える。
「私が見つけたものなのに」
「だからこそ、入るべきではありません」
「どうして?」
「捜索に事件の関係者が立ち会えば、証拠を持ち込んだのではないかと疑われる可能性があります」
「何にも触らないわ」
「触らなかったことを、あとから証明するのは難しいでしょう」
レオンは、いつもの落ち着いた声で続けた。
「相手の罪を明らかにするためには、こちらも疑われる行動を避けなければなりません」
言っていることは分かる。
それでも、窓の向こうで扉が開かれるのを黙って見ているしかないのは、ひどくもどかしかった。
「見つかったものは、全部教えて」
「お伝えできる範囲で」
「また、その言い方」
「すべてお話しすると約束して、守れなかった場合に叱られますので」
「最初から守る気がないのね」
「ミラ様を危険から遠ざける気はあります」
レオンはそう言い残し、長屋へ向かった。
私は一人、食堂の窓から捜索を見守った。
警備兵が扉の前を固める。
証明官が隣室の老婆へ話を聞き、地面に落ちていた赤い革片の位置を確認する。
そのあと、ダリオの部屋へ入っていった。
私は膝の上に置いた包みへ触れた。
中には、ラテの赤い首輪がある。
何度触れても、あの日に見た光景は戻ってこなかった。
大きな手。
泥のついた革靴。
深緑色の外套。
そして、ラテを見下ろして笑っていた男。
あれが本当に、首輪に残された記憶だったのか。
それとも、悲しみの中で私が見た幻だったのか。
今でも分からない。
だからこそ、首輪から見えたものだけを信じるわけにはいかなかった。
誰の目にも見える証拠が必要だった。
しばらくして、証明官が長屋から出てきた。
手には、布で包まれた革靴がある。
次に運び出されたのは、深緑色の古い外套。
左の袖口が裂けている。
小さな銀色の鈴。
黒い煤のこびりついた皿。
どれも、私たちが外から見つけたものだった。
けれど、正式に回収される姿を目にすると、胸の奥へ冷たいものが広がっていく。
あの部屋に、すべてがあった。
偶然ではない。
そう思い始めた時、レオンが食堂へ戻ってきた。
「確認が終わりました」
表情から結果を読み取ることはできない。
けれど、その声はいつもより低かった。
「靴は?」
「庭に残された足跡と比較されました」
レオンが向かいの椅子へ座る。
「靴底にある四角い溝。外側だけが削れた右の踵。中央へ打たれた補修用の鋲。すべて、庭の蝋型と一致しています」
「同じ靴なのね」
「同じものである可能性は、極めて高いでしょう」
「外套は?」
「塀に残されていた糸と、同じ布です。織り方も、混じっている黒毛も一致しました」
「裂けた袖口とも?」
「糸が失われている位置も合っています」
私は膝の上で両手を握った。
「赤い革片は?」
「首輪の欠けた部分と、切れ目が繋がりました」
レオンが、私の抱えている包みへ視線を落とす。
「染料の色と、革の厚さも同じです」
ラテの首輪から千切れた一片。
それがダリオの外套に付着し、長屋まで運ばれた。
「皿の煤は?」
「ラテの口元と前脚についていた黒い粉と、よく似ています。どちらにも魚の脂が混じっていました」
鈴で気を引き、魚を使ってラテを塀際へ呼び寄せた。
魚は、煤のついた皿に置かれていた。
ラテが食べた時、口と前脚に煤が移った。
「鈴は?」
「紐の結び目から、薄茶色の毛が見つかりました」
息が止まりそうになった。
「ラテの?」
「今の段階では、同じ色の猫の毛としか言えません」
レオンは断定しなかった。
「ですが、庭で見つかった毛と太さや長さが近く、ダリオが鈴を使って猫と接触した可能性を示すものにはなります」
一つだけなら、偶然と言えたかもしれない。
似た靴を履く人間はいる。
古い外套を持っている人間もいる。
鈴を腰につける者もいる。
魚を食べる者など、町中にいる。
けれど、すべてが一人の周囲に集まっている。
庭に残された靴跡。
塀に引っかかった外套の糸。
首輪から千切れ、外套についていった赤い革。
ラテの毛に残った煤と魚の脂。
鈴の紐に絡んだ猫の毛。
夜明け前に、泥だらけで帰った姿を見た者もいる。
「ダリオは?」
「酒場で見つかりました」
「捕まえたの?」
「事情を聞くため、裁判所へ連れていかれています」
私は立ち上がった。
「私も行く」
「ミラ様」
「ラテの首輪から見たことを話せるのは、私だけよ」
「それは証拠として扱われません」
「分かっている」
私の声が強くなる。
「だから、首輪から見えたものだけで責めるつもりはない。でも、証拠を見つけたのは私よ。あの人が何を言うのか、聞かせて」
レオンは黙って私を見る。
怒っているわけではない。
私が感情だけで動いていないか、確かめているようだった。
「会って、どうされるおつもりですか」
「確かめる」
「何をです」
「なぜ、ラテだったのか」
父への恨みがあったとしても。
何かを奪われたと思っていたとしても。
ダリオが選んだのは、父ではなかった。
抵抗できない小さな命だった。
「それから、自分が何をしたのか、本当に分かっているのか」
「分かっていなかった場合は?」
「証拠を見せる」
「それでも認めなかった場合は?」
私はすぐには答えられなかった。
怒鳴りつけたい。
ラテがどれだけ大切だったか、思い知らせたい。
同じ痛みを味わわせたい。
心の奥に、そんな感情がないとは言えない。
けれど、そのために会うのではない。
「逃げられないところまで、確かめる」
レオンはしばらく黙っていた。
「私のそばを離れないでください」
「連れていってくれるの?」
「止めた場合、別の方法で入ろうとされそうですので」
「そんなことは――」
「しないと言い切れますか」
「……努力はするわ」
「その返答を聞いて、同行を決めました」
◇
ダリオが連れてこられたのは、裁判所の奥にある聴取室だった。
石造りの狭い部屋。
中央には机が一つあり、その両側に椅子が置かれている。
壁際には、立ち会う者のための席が並んでいた。
私はレオンとともに、そこへ座った。
ダリオの両手には縄が掛けられていた。
まだ罪人として裁かれたわけではない。
逃走や暴力を防ぐための拘束だと説明された。
机の向こうには、年配の証明官が座っている。
机の上には、ダリオの部屋から回収されたものが並んでいた。
革靴。
深緑色の古い外套。
銀色の鈴。
煤のついた皿。
赤い革片。
ダリオはそれらを一度見たあと、椅子の背へ身体を預けた。
怯えている様子はない。
むしろ、不機嫌そうだった。
「ダリオ・ベルク」
証明官が口を開く。
「昨夜は、どこにいた」
「家だ」
「隣人は、あなたが夜明け前に帰ってきたと証言している」
「年寄りの勘違いだ」
「夜、外出する姿も見られている」
「酒を買いに行っただけだ」
「酒場では、夜の鐘が一度鳴る前に店を出ている。その後、戻ってはいない」
「別の店へ行った」
「どの店だ」
「覚えていない」
ダリオは、証明官と目を合わせようとしなかった。
右足が小さく揺れている。
縄を掛けられた両手の親指が、何度も擦れ合っていた。
落ち着いているように見せている。
けれど、身体は違うことを語っていた。
「この靴は、あなたのものだな」
証明官が革靴を示す。
「俺の部屋から持ってきたんだろう。見れば分かる」
「この靴と同じ跡が、ある屋敷の庭から見つかった」
「同じ形の靴くらい、いくらでもある」
「溝の形だけではない。右の踵の削れ方と、靴底へ打たれた補修鋲の位置も一致している」
蝋で取られた靴跡が、机へ置かれる。
ダリオの目が、一瞬だけ鋲の跡へ向いた。
すぐに顔を背ける。
「誰かが俺の靴を盗んだんだ」
「昨夜、あなたがこの靴を履いて出ていくところを見た者がいる」
「見間違いだ」
「夜明け前に帰ってきた時も、同じ靴を履いていた」
「俺を嫌っている婆さんの言うことだ。信用できるものか」
証明官は表情を変えなかった。
次に、深緑色の外套を広げる。
「屋敷の塀から、この糸が見つかった」
薄い紙に挟まれた緑色の糸。
「外套の左袖から失われた糸と、織り方が一致している」
「そんな布は、昔の役人なら誰でも持っている」
「現役の者は、すでに新しい外套へ替わっている」
「古着屋へ流れたものかもしれない」
「あなたは職を離れた際、この外套を紛失したと届け出ている」
「あとで見つかったんだ」
「なぜ返さなかった」
「忘れていた」
言い訳が次々と出てくる。
一つを否定されるたび、別の言葉へ逃げる。
考え込む様子すらない。
嘘をつくことに慣れているのだと思った。
「左袖は、いつ破れた」
「知らない」
「隣人は、昨夜出ていく時には破れていなかったと証言している」
「俺の服なんて、いちいち見ているはずがない」
「今朝、帰宅した時には破れていた」
「どこかへ引っかけたんだろう」
「どこへ」
「覚えていない」
証明官は、赤い革片を机へ置いた。
「これは、あなたの住居の前で見つかった」
「ゴミだ」
「あなたの外套から落ちたところを、隣人が見ている」
「婆さんが置いたんだ」
「何のために」
「俺を困らせるためだろう」
「この革片は、屋敷で死んでいた猫の首輪から欠けた部分と繋がった」
私は膝の上の包みを強く握った。
「色と厚みだけではない。切れ目の凹凸が一致している」
「誰かが俺の外套につけた」
「誰が」
「知らない」
「誰かがつけたと言うなら、その人物はどうやってラテの首輪の革片を手に入れた?
「俺を犯人にするためだ!」
ダリオの声が大きくなる。
警備兵が一歩、前へ出た。
ダリオは警備兵を睨んだあと、椅子の背へ戻る。
「裁判所の人間なら、それくらい簡単にできるだろう」
証明官の目が細くなる。
「裁判所が、あなたを罪人に仕立てようとしていると?」
「一度やったんだ。二度目も同じだ」
「あなたは過去の裁判で、証拠に基づいて有罪となった」
「証拠なんて、作ろうと思えば作れる」
「では、この鈴も作られたものか」
銀色の鈴が机へ置かれた。
小さく鳴る。
ちりん。
その音を聞いた瞬間、ラテが西の庭へ走っていく姿を思い出した。
「知らない鈴だ」
ダリオが言う。
「あなたが腰につけていたものだ」
「拾った」
「いつ」
「昨日だ」
「どこで」
「道端だ」
「その鈴をつけたまま、夜に外出した姿が目撃されている」
「だから何だ」
「屋敷の西側で、同じような鈴の音を聞いた者がいる」
「鈴なんて、どれも同じ音だ」
「紐の結び目から、猫の毛が見つかった」
ダリオの右足が止まる。
証明官が、薄茶色の毛を挟んだ紙を示した。
「屋敷で死んでいた猫と、色や太さが近い」
「猫なんて町中にいる」
「この皿は?」
煤のついた皿が置かれる。
「あなたの部屋の外にあったものだ」
「俺の皿だ」
「魚を食べた跡が残っている」
「それがどうした」
「猫の口元と前脚から、同じような煤と魚の脂が見つかった」
「同じ魚を食べただけだろう」
「猫が、あなたの皿にあった魚を食べた可能性は?」
「知らない」
「猫が勝手に近づいたのか」
「そうだ!」
ダリオが答えた直後、室内が静まり返った。
証明官は何も言わず、ダリオを見た。
ダリオの口元が引きつる。
「今、猫が近づいたと言ったな」
「町の猫の話だ」
「どの猫だ」
「知らない」
「知らない猫が、あなたの皿の魚へ近づいたのか」
「そうだ」
「いつだ」
「覚えていない」
「昨夜か」
「違う!」
「では、なぜ昨夜ではないと分かる」
ダリオの顔が歪んだ。
「俺の言葉を、都合よく使うな!」
ダリオが机を蹴った。
鈴が跳ね、また小さく鳴る。
ちりん。
「俺は何もしていない!」
証明官は声を荒らげなかった。
「屋敷の庭に、あなたの靴跡が残っていた」
「似た靴だ!」
「塀には、あなたの外套から千切れた糸があった」
「同じ布だ!」
「猫の首輪から欠けた革が、あなたの外套についていた」
「誰かがつけた!」
「猫の毛が、あなたの鈴に絡んでいた」
「偶然だ!」
「猫の毛には、あなたの皿と同じ煤がついていた」
「知らない!」
証明官は、一つずつ証拠を並べた。
「あなたは昨夜、深緑色の外套を着て外出した」
「……」
「鈴を持っていた」
「……」
「夜明け前、泥だらけの靴で帰宅した」
「……」
「帰宅した時、外套の袖は破れ、猫の首輪から欠けた革がついていた」
「仕組まれたんだ」
ダリオの声が低くなる。
「誰かが俺を陥れようとしている」
「誰が」
「裁判所だ」
「なぜ」
「あの男の命令だろう」
初めて、ダリオが父の存在を口にした。
名前は言わなかった。
けれど、誰を指しているのかは分かった。
「俺の人生を壊した男だ」
ダリオの目が、私へ向けられた。
首輪から見えた顔。
けれど、あの時とは違う。
ラテを見下ろしていた時、男は笑っていた。
今は、傷つけられた人間の顔をしている。
「お前の父親だ」
ダリオが言った。
レオンの身体が、わずかに動く。
「お前の父親が、また俺を罪人にしようとしている」
「父は、今ここにはいません」
「いなくても命令は出せる」
「父が、ラテの首輪をあなたの外套へつけたと言うの?」
「部下にやらせたんだ!」
ダリオはレオンを睨んだ。
「こいつは、あの男の犬だろう!」
「昨夜、私は別の任務に就いていた」
「仲間はいくらでもいる!」
「父が、あなたに何をしたのですか」
私は尋ねた。
レオンがこちらを見る。
口を挟まないよう、事前に言われていた。
けれど証明官は止めなかった。
ダリオの顔が歪む。
「あいつは、俺から全部奪った」
「何を?」
「仕事だ。金だ。家族だ」
「父が奪ったのですか」
「そうだ!」
「あなたは、裁判を受けたのではないの?」
「裁判なんて形だけだ!」
縄を掛けられた手で、ダリオが机を叩く。
「最初から俺を罪人にすると決めていた!」
「なぜ裁判を受けたのですか」
「少し帳簿を整えただけだ」
「帳簿を?」
「俺だけじゃない」
ダリオは私へ身を乗り出した。
「みんなやっていた。上の連中は、もっと大きな金を動かしていた。俺は言われたとおり数字を変えただけだ」
「その結果、誰かのお金がなくなったのでは?」
「大した額じゃない!」
ダリオが叫ぶ。
「少しくらい、誰も困らない!」
その言葉が、胸へ刺さった。
少しくらい。
誰も困らない。
猫一匹くらい。
ダリオにとっては、すべて同じなのかもしれない。
「あなたは、その裁判で罪を認めたの?」
「俺だけが悪いわけじゃないと言った!」
「罪を認めたの?」
「だから、みんなやっていたんだ!」
「あなたがしたかどうかを聞いています」
「上に命令された!」
「断れなかったの?」
「仕事を失えと言うのか!」
「では、あなたは自分の仕事を守るために、他人のお金を奪ったのですね」
「違う!」
ダリオの顔に怒りが浮かぶ。
「俺は生きるために仕方なくやった!」
「そのあと、仕事を失った」
「あの男のせいでな!」
「違います」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「あなたがしたことが、証拠で明らかになったからです」
「黙れ!」
「あなたが帳簿を変えなければ、裁判にはならなかった」
「俺だけじゃない!」
「ほかの人が罪を犯したことは、あなたの罪がなくなる理由にはなりません」
「何も知らない娘が、偉そうに言うな!」
ダリオが立ち上がろうとする。
警備兵が肩を押さえ、椅子へ戻した。
「俺は被害者だ!」
ダリオは荒い息を吐きながら叫んだ。
「俺の方が傷つけられたんだ!」




