第2話 痕跡は嘘をつかない
ラテが見つかった庭は、その日のうちに閉鎖された。
花壇へ続く扉には縄が張られ、母かレオンの許可がなければ、屋敷の者であっても立ち入ることはできない。
使用人たちは戸惑っていた。
猫一匹のために、ここまでする必要があるのか。
誰も口にはしなかったけれど、その疑問は表情に浮かんでいる。
それでも、母は命令を変えなかった。
「調べ終わるまでは、何も動かしてはいけません」
母は静かな声で告げた。
「土も、花も、落ちているものも、そのままにしておきなさい」
声を荒らげたわけではない。
けれど、誰も異を唱えなかった。
ラテの身体は、庭に面した小さな部屋へ運ばれた。
厚い石壁に囲まれ、日差しのほとんど入らない部屋だった。
私は白い布を敷き、その上へラテを寝かせた。
毛についた泥を、濡らした布で少しずつ拭き取る。
薄茶色の毛並みが戻ると、まるで眠っているように見えた。
「……もう少しだけ、待っていてね」
私はラテの頭を撫でた。
冷たかった。
触れるたびに、もう生きていないのだと思い知らされる。
本当なら、すぐに埋葬してあげるべきなのかもしれない。
冷たい部屋へ置いておくのは、かわいそうだった。
それでも今は、まだ土へ還すことができない。
ラテの身体にも、何が起きたのかを示すものが残っているかもしれない。
それを確かめるまでは、別れるわけにはいかなかった。
「ミラ様」
扉の外から、レオンの声がした。
「庭から集めたものの準備が整いました」
「今、行きます」
私は赤い首輪を布へ包み、部屋を出た。
◇
母が用意してくれた仕事部屋には、庭で見つけたものが並べられていた。
深緑色の糸。
ラテの毛から落ちた黒い粉。
花壇の泥。
そして、地面に残された靴跡を写し取った蝋型。
どれも、知らなければゴミにしか見えない。
雨のあとに落ちていた一本の糸。
毛に絡みついていた黒い粉。
泥の上に残された足跡。
けれど、その一つ一つが、ラテの最後を知っている。
「これが、庭に残っていた靴跡?」
私は蝋型を覗き込んだ。
「はい」
レオンが答える。
「足跡の周囲を木枠で囲い、柔らかくした蝋を少しずつ流しました。土を崩さないよう、数回に分けています」
蝋には、靴底の形がはっきりと刻まれていた。
幅の広い革靴。
四角く並んだ溝。
踵の外側だけが、大きくすり減っている。
右足の中央には、小さな丸い突起があった。
「この丸いものは?」
「補修用の鋲だと思われます」
「最初からついていたものではないの?」
「おそらくは。剥がれかけた靴底を留めるため、後から打ち込んだのでしょう」
私は紙を取り出し、靴底の形を書き写した。
長さ。
幅。
溝の数。
踵が削れている位置。
鋲が打たれている場所。
「そこまで細かく残されるのですか」
「今見ているものを、あとで同じように思い出せるとは限らないもの」
人の記憶は、思っているほど正確ではない。
昨日見たものでも、今日には少しずつ形が変わる。
強く信じている記憶ほど、自分に都合よく歪むこともある。
「庭には、ほかの靴跡もあったのでしょう?」
「使用人や庭師のものが、いくつか」
「それと、この足跡を区別できた理由は?」
「昨夜の雨です」
レオンは庭の見取り図を机へ広げた。
「雨が強く降る前についた跡は、輪郭が崩れていました。この足跡は、雨が弱くなったあとについたものです」
「ラテが死んだ時間と近い?」
「可能性はあります。ただし、今の段階では断定できません」
はっきり言えること。
まだ言えないこと。
レオンは、その二つを決して混ぜなかった。
「足跡は、どこまで続いていたの?」
「西側の塀までです」
「正門ではなく?」
「はい。通用口にも、同じ足跡は残っていませんでした」
犯人は正面から屋敷へ入っていない。
西の塀を越え、庭へ侵入した。
あるいは、塀の近くまでラテを呼び寄せた。
「緑色の糸は?」
糸は薄い透明紙に挟まれていた。
指の長さほどしかない。
深い緑色で、ところどころに細い黒毛が混じっている。
「西側の塀にある金具へ引っかかっていました」
「服から千切れた?」
「その可能性が高いでしょう」
糸は古く、毛羽立っていた。
長く着込まれた上着か、外套の一部かもしれない。
「色だけでは、持ち主を探せないわね」
「同じような色の服は、町にいくらでもあります」
「でも、糸の作り方まで同じ布は少ないかもしれない」
緑色の毛糸は三本で縒られていた。
その内側に、細い黒毛が混じっている。
「町の織物商に見せられる?」
「すでに手配しています」
レオンが糸の特徴を書き留めた。
私は布に包んでいた首輪を机へ置いた。
留め具は壊れていない。
けれど革の一部が引き伸ばされ、端が小さく欠けている。
野犬が噛んだのなら、歯形が残るはずだった。
しかし、首輪には噛まれた傷がない。
何者かが手で掴み、強く引いた。
「レオン」
「はい」
「昨日、私が話したことを覚えている?」
レオンは、机の上の首輪へ目を向けた。
「首輪に触れた時、男の姿が見えたというお話ですね」
「ええ」
大きな手。
泥のついた革靴。
深緑色の上着。
そして、ラテを見下ろして笑っていた男の顔。
私はラテを見つけた庭で、そのすべてを母とレオンへ話している。
「でも、あれは証拠にはできないと思う」
「理由を伺っても?」
「私にしか見えていないから」
首輪へ触れれば、もう一度見えるのではないか。
そう思い、何度か試してみた。
けれど、二度目の光景は現れなかった。
首輪は、ただの首輪へ戻っていた。
「私が嘘を言っていなくても、見間違えている可能性はある」
「はい」
「悲しみで、幻を見たのかもしれない」
「否定はできません」
「だから、見えた男と似ているという理由だけで、その人を犯人にはできない」
もし、あの顔によく似た人間を見つけたら。
私はその人を犯人だと思い込み、都合のいいものだけを拾ってしまうかもしれない。
それでは、真実を探していることにはならない。
「見えたものは、探す方向を決める手がかりにはする。でも、それだけで誰かを罪人にはしない」
「賢明な判断です」
「お父様も、そうする?」
何気なく尋ねると、レオンは少し考えてから頷いた。
「旦那様も、見た印象だけで人を罪人とは決めません」
「では、何を確かめるの?」
「靴跡や傷、残された持ち物など、誰が見ても確認できる証拠を集めます」
「言葉より、残されたものを信じるのね」
「はい。人は嘘をつくことがあります。しかし、残された痕跡まで、都合よく嘘をつくことはできません」
父らしいと思った。
父は、裁判に関わる仕事をしている。
罪を犯した人間の言葉を聞き、残された証拠を調べ、何が起きたのかを明らかにする。
詳しい仕事の内容は、私にも教えられていない。
ただ、人を裁く仕事をしていれば、恨まれることもある。
幼い頃から、それだけは何度も聞かされていた。
けれど今は、父のことを考える時ではない。
ラテに何が起きたのかを調べる。
まずは、それだけだった。
「屋敷にいた人たちへ話を聞きたい」
「使用人たちへ?」
「昨夜、何かを見たり聞いたりしているかもしれない」
部屋の隅に控えていた年配の使用人が、不安そうに眉を寄せた。
「お嬢様。それでは、屋敷の者を疑うことになりませんか」
「そうなるかもしれません」
私は正直に答えた。
ラテをかわいがってくれた者もいる。
私と一緒に悲しんでくれた者もいた。
そんな人たちへ、昨夜どこにいたのかと尋ねる。
気分のいいことではないだろう。
「でも、疑うことと、犯人だと決めつけることは違います」
「ですが……」
「同じ質問を全員にします。答えも、すべて書き残します」
誰か一人だけを疑うのではない。
最初から犯人を決めるのでもない。
昨夜あったことを、一つずつ並べる。
母はしばらく黙って私を見ていた。
やがて、年配の使用人へ顔を向ける。
「昨夜、屋敷にいた者を一人ずつ呼んでください」
「承知いたしました」
母は、やはり私を止めなかった。
◇
最初に話を聞いたのは、夜番の門衛だった。
四十を過ぎた大柄な男で、父がこの屋敷を構えた頃から働いている。
「昨夜、正門から出入りした人はいましたか」
「おりません」
「ずっと門を見ていたの?」
門衛の表情が固くなる。
「雨が強くなった時、一度だけ詰め所へ入りました」
「どのくらい?」
「鐘が四度鳴るよりは短かったと思います」
私は、そのまま紙へ書いた。
曖昧なものを、正確な時刻へ直してはいけない。
「門は?」
「内側から鎖を掛けていました。外から開けることはできません」
「何か音を聞きませんでしたか」
門衛は首を横に振りかけ、途中で止まった。
「猫の声を聞きました」
ペンを持つ手に力が入る。
「何時頃ですか」
「雨が降り出す少し前です。一度だけ、短く」
「どちらから?」
「西の庭だったと思います」
ラテが見つかった場所も、西側にある。
「そのあと、もう一度鳴きませんでしたか」
「聞いておりません」
ラテは何度も助けを求めることができなかった。
そう考えそうになり、私は紙へ視線を落とした。
想像と、分かっていることを混ぜてはいけない。
「ありがとうございました」
次に来たのは、台所の下働きをしている少女だった。
ラテへ、こっそり魚の切れ端を与えていた子だ。
部屋へ入るなり泣き始め、話せるようになるまで少し時間がかかった。
「ごめんなさい、お嬢様」
「どうしてあなたが謝るの?」
「昨夜、私が魚をあげたから……外へ行ったのかもしれません」
「昨夜、ラテを見たの?」
少女は涙を拭いながら頷いた。
「片づけが終わったあと、裏口へ来たんです。少しだけ魚をあげました」
「そのあと、どこへ?」
「西の庭です。何かを見つけたみたいに走っていきました」
「人を見た?」
「いいえ」
「声は?」
「聞こえませんでした。でも……」
少女が眉を寄せる。
「鈴みたいな音がしました」
「鈴?」
「ちりん、ちりんって。西の塀の向こうから」
私は、その言葉を書き留めた。
ラテは、小さく動くものや音の鳴るものが好きだった。
鈴にもよく反応した。
誰かがラテを呼ぶために使った可能性がある。
けれど、まだ想像にすぎない。
「ほかに何か見ましたか」
「塀の上に、黒い影があったような気がします」
「人でしたか?」
「分かりません。暗かったから……」
「見間違いでも構いません。そのまま書いておきます」
そのあとは、庭師。
馬番。
夜中に厠へ起きた使用人。
雨戸を閉め忘れ、廊下を歩いた侍女。
一人ずつ、同じ質問を繰り返した。
どこにいたのか。
何を見たのか。
何を聞いたのか。
ラテを最後に見たのはいつか。
答えは少しずつ違っていた。
鐘の回数を間違えている者もいた。
雨が降り始めた時刻も、証言は揃わなかった。
けれど、重なる部分はあった。
夜の鐘が二度鳴ったあと、ラテは西の庭へ走った。
その少し前後に、西の塀付近から鈴のような音がした。
その後、門衛が猫の鳴き声を一度聞いた。
正門と通用口から入った者はいない。
「やはり、西側の塀ね」
私は証言を並べた紙を見る。
「塀の向こうからラテを呼び寄せ、そのあと中へ入った」
「可能性は高いでしょう」
レオンが答えた。
「でも、鈴だけでラテが近づいたかしら」
「餌を使った可能性もあります」
私は机の上に置かれた黒い粉を見る。
ラテの前脚と口元の毛についていたものだった。
泥より細かく、わずかに油のような匂いがする。
「煤でしょうか」
レオンが顔を近づける。
「灯油を燃やした時に出る煤に似ています」
「庭に、煤がつくような場所は?」
「ありません」
屋敷の灯りは毎日手入れされている。
ここまで黒い煤がつくことはない。
「犯人が持ってきたものについていたのかもしれない」
「魚などに?」
「煤のついた皿へ置いていたとか」
まだ推測だった。
けれど、糸や靴跡と同じく、調べる価値はある。
その時、扉が開いた。
レオンの部下が、布の束を抱えて入ってくる。
「町の織物商から、近い布を集めてまいりました」
机の上へ、深緑色の布がいくつも並べられる。
色だけを見れば、どれもよく似ている。
けれど糸をほどき、庭で見つかったものと比べると違いがあった。
縒っている本数。
毛の太さ。
混じっている黒毛。
私は一枚ずつ確認した。
七枚目の布で、手が止まる。
「これ……」
緑の糸が三本。
その内側に、細い黒毛が一本混じっている。
庭で見つかった糸と同じ作りだった。
「この布は、どこで使われているものですか」
「以前、役所の官吏へ支給されていた雨外套です」
「制服なの?」
「正確には、雨や寒さを防ぐための外套です。所属を示す徽章は、別につけられていました」
徽章を外せば、ただの古い外套にしか見えない。
役所の人間だと名乗りながら着るための服ではない。
「退職した人は、外套も返すの?」
「原則としては。ただ、古い型のものですから、管理が曖昧だった時期もあったようです」
「この布を使った外套は、まだ町に残っている?」
「現役の官吏は、すでに新しい型へ切り替えています。古い外套を持っているとすれば、以前支給された者でしょう」
レオンの部下が、一枚の紙を差し出した。
「最近職を離れた者の中に、外套を紛失したと申告した人物がいました」
紙には、男の名前が書かれていた。
ダリオ・ベルク。
三十七歳。
元役人。
三月前に職を失っている。
「外套が見つかったという届けは?」
「出ていません」
「今も持っているかもしれないというだけね」
「はい。これだけでは、何の証明にもなりません」
ダリオだけに絞ることはできない。
古い外套を捨てずに持っている者。
誰かから譲り受けた者。
古着として売られたものを買った者。
可能性はいくつもある。
「ダリオという人の住所は?」
「西区の長屋です」
西区。
屋敷の西側から、歩いて行ける場所だった。
偶然かもしれない。
しかし、調べる価値はある。
「遠くから様子を見たい」
私が言うと、レオンはすぐに眉を寄せた。
「本人へ接触するつもりではありませんね」
「しません」
「住居へも入りませんね」
「ええ」
「お母上の許可も必要です」
母は、私が事情を説明すると長く黙っていた。
やがて、年配の使用人へ外套を用意するよう告げる。
「反対しないの?」
「反対しても、別の方法で行こうとするでしょう」
「一人では行きません」
「ええ。それだけは守ってください」
母は外套の留め具を、私の首元で留めた。
「証拠を見つけることより、自分が無事に戻ることを優先しなさい」
「はい」
「危険を感じたら、すぐに離れること」
「はい」
「レオンの指示に従うこと」
「……はい」
母の目が細くなる。
「今、少し間がありましたね」
「従います」
◇
馬車は使わなかった。
屋敷の紋章がついているため、相手に気づかれる可能性がある。
私とレオンは地味な外套を羽織り、歩いて西区へ向かった。
細い道。
崩れかけた石壁。
雨水が溜まった溝。
中央区に比べ、人通りは少なかった。
「ダリオの住居は、あの角を曲がった先です」
レオンが小声で言う。
「本人がいたら?」
「何もせず、通り過ぎます」
「靴だけ見たいわ」
「凝視すれば怪しまれます」
「自然に見ます」
「自然に見ようとする人ほど、不自然になります」
角を曲がると、古い長屋が見えた。
二階建ての建物。
外壁には雨染みが広がり、窓枠は歪んでいる。
ダリオの部屋は、一階の一番端だった。
扉の前には、空の酒瓶が二本転がっている。
窓は閉まっていた。
「留守かしら」
「判断できません」
私たちは向かい側の露店で品物を見るふりをしながら、長屋を観察した。
しばらくすると、端の扉が開いた。
男が出てくる。
痩せた身体。
伸びた髭。
深緑色の古い外套。
所属を示す徽章などは、どこにもついていない。
ただの着古した外套にしか見えなかった。
左の袖口が裂けている。
胸が強く脈打つ。
首輪から見えた男と、よく似ていた。
けれど、顔では決めない。
私は足元を見る。
男は右足を少し外へ開くように歩いていた。
右の踵が、地面を擦っている。
革靴には、乾ききっていない泥が付着していた。
「レオン」
「見えています」
男が私たちの前を通り過ぎる。
酒の匂い。
古い油の匂い。
そして。
ちりん。
小さな金属音がした。
男の腰に、細い紐が下がっている。
その先には、小さな銀色の鈴が結ばれていた。
昨夜、下働きの少女が聞いたものと、同じ音かもしれない。
ダリオは私たちへ目を向けることなく、通りの奥へ消えていった。
「追わないの?」
「追いません」
レオンが即答した。
「今は、住居の周囲だけを確認します」
ダリオの姿が完全に見えなくなってから、私たちは長屋の前へ移動した。
扉には触れない。
中へも入らない。
それでも、外に残されたものはあった。
敷居のそばの泥に、靴跡が残っている。
四角い溝。
外側だけが削れた踵。
右足中央にある、丸い鋲。
庭の蝋型とよく似ていた。
「同じに見える」
「はい。しかし、正式な比較が必要です」
壁際には、小さな皿が置かれていた。
魚の骨が一本残っている。
皿の縁には、黒い煤がついていた。
真上には、手入れされていない灯油ランプが吊られている。
ラテの毛についていた黒い粉。
よく似ている。
けれど、勝手に持ち帰ることはできない。
「場所だけ記録しましょう」
レオンが見取り図を描く。
私は扉の横に積まれている薪へ目を向けた。
隙間に、赤いものが挟まっている。
「レオン」
声を落とし、指をさす。
細長い赤い革片だった。
私は布に包んでいたラテの首輪を取り出す。
引き伸ばされた部分の端が、小さく欠けている。
色も、厚みも、薪の間にある革片と似ていた。
「取ってはいけませんよね」
「はい。ここはダリオの居住区画です」
証拠だからといって、勝手に持ち去っていいわけではない。
それでは、こちらが罪を犯す。
「何をしているんだい」
背後から、しわがれた声がした。
振り返る。
隣室から、白髪の老婆が顔を出していた。
細い目で、私たちを警戒している。
「その赤い切れ端を見ていたのかい」
「あれについて、何か知っているのですか」
レオンが尋ねる。
「今朝、あの男の外套から落ちたものだよ」
「あの男とは、ダリオ・ベルクですか」
「ほかに誰がいるんだい」
老婆は鼻を鳴らした。
「朝帰りしてきて、泥だらけの靴で廊下を汚してね。注意したら、あたしを睨みつけてきた」
「朝帰り?」
「ああ。夜が明ける少し前さ」
「昨夜、出ていくところも見ましたか」
「見たよ。あの緑の外套を着ていた」
「袖は、その時から破れていましたか」
「いいや。出ていく時には何ともなかった。今朝見たら、左の袖が裂けていたね」
庭の塀には、緑色の糸が残っていた。
ダリオの外套は、昨夜のうちに破れている。
「ダリオは、いつもあの外套を着ているのですか」
「あれしか持っていないんだろうね」
老婆は冷たく言った。
「仕事を失ってからは、酒ばかり飲んでいる。新しい服を買う金があれば、先に酒へ変えてしまう男さ」
犯行のために、昔の身分を示す服を選んだわけではない。
徽章を外した古い外套を、普段から着続けているだけなのだ。
「腰の鈴は、以前から持っていましたか」
「鈴?」
「先ほど、腰につけていました」
老婆は首を傾げた。
「見たことはないね。ただ、昨日出ていく時にも鳴っていたよ。ちりちりうるさかったから覚えている」
鈴。
深緑色の外套。
特徴のある靴。
赤い革片。
煤のついた魚皿。
すべてが、ダリオの周囲に集まっている。
それでも、まだ聞かなければならない。
「ダリオさんは、昨夜どこへ行くと言っていましたか」
「何も言わないよ。酒を飲んで、ぶつぶつ誰かの悪口を言っていただけさ」
「誰の?」
老婆は眉間へ皺を寄せた。
「名前までは知らないね」
私は、わずかに息を吐いた。
「ただ――」
老婆が続ける。
「裁判に関わった男に、人生を壊されたと騒いでいたよ」
「裁判に?」
「ああ。自分だけが悪いんじゃない。ほかにも同じことをした奴がいる。なのに、どうして自分だけがこんな目に遭うんだってね」
私の隣で、レオンの表情がわずかに険しくなった。
「いつか思い知らせてやるとも言っていたよ」
私はレオンを見る。
「心当たりがあるの?」
レオンはすぐには答えなかった。
老婆から少し離れたあと、声を落として言う。
「ミラ様のお父上は、裁判に関わる仕事をされています」
「では、ダリオはお父様を……?」
「まだ決まったわけではありません」
レオンは静かに言った。
「ですが、罪を明らかにし、裁きを受けさせる側の人間は恨まれやすい。お父上への恨みが、今回のことに関係している可能性はあります」
私は赤い首輪を握った。
首輪に触れた時に聞こえた男の声。
『あの男に思い知らせるには、お前で十分だ』
あの男。
それが父なのかもしれない。
ラテは、偶然狙われたのではない。
父を苦しめるために選ばれた。
何も知らない。
何もしていない。
抵抗する力もない。
だから、標的にされた。
「ミラ様」
レオンが私の前へ、わずかに身体を出した。
「今は戻りましょう」
「でも」
「裁判所と警備兵へ報告します。靴や外套を正式に調べるには、手順が必要です」
すぐに扉を開けて、中を確かめたかった。
皿を調べたい。
革片を首輪へ合わせたい。
ダリオの靴底を、蝋型と比べたい。
けれど、怒りのまま動けば、証拠そのものを壊してしまう。
「……分かりました」
私は長屋を振り返る。
ダリオは、まだ自分が何を残したのか気づいていない。
庭の靴跡。
塀に引っかかった糸。
外套についた赤い革。
ラテの毛に残された煤。
鈴の音を聞いた人。
夜明け前に帰る姿を見た人。
一つだけなら、偶然と言えるかもしれない。
二つなら、勘違いだと言えるかもしれない。
けれど、痕跡は次々と重なっている。
どれほど言葉で否定しても、起きたことは消えない。
「レオン」
「はい」
「お父様と、ダリオの間に何があったのか調べてください」
「承知しました」
「でも、お父様がダリオに何をしたとしても」
私は赤い首輪を胸元へ抱き寄せた。
「ラテを傷つけていい理由にはならない」
「はい」
ダリオは、父に何かを奪われたと思っている。
だから仕返しをした。
おそらく、そう言うだろう。
自分も苦しんだ。
自分も被害者だ。
悪いのは裁いた側だ。
自分は追い詰められただけだと。
けれど、どんな事情があったとしても。
ラテが苦しんだという事実だけは変わらない。
私はレオンとともに、裁判所へ向かって歩き出した。
次にダリオ・ベルクと会う時。
私は、ただ疑いを向けるために彼の前へ立つのではない。
靴跡を。
緑の糸を。
赤い革を。
鈴を。
煤を。
彼が残したすべてを持っていく。
そして確かめる。
何をしたのか。
なぜラテを選んだのか。
それでもまだ、自分は悪くないと言えるのか。
ダリオ・ベルク。
あなたがどんな顔をして逃げようとも。
残されたものは、あなたを忘れていない。




