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可哀想だから無罪だと思いましたか? 〜証拠を集めた少女は、罪人の仮面を剥がす〜  作者: 月瀬 リュカ


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第1話 残されたものは覚えている


 ラテは、朝になると必ず私の部屋へ来る。


 扉の前で二度鳴いて、それでも私が起きなければ、前足で扉を引っかく。


 だから、その朝。


 目を覚ました瞬間から、何かがおかしいと思った。


 扉の向こうが、静かすぎた。


「ラテ?」


 ベッドから降り、扉を開ける。


 廊下には誰もいない。


 いつもなら私の足元へ駆け寄ってくる、小さな姿もなかった。


「ラテ。どこにいるの?」


 呼びながら階段を下りる。


 食堂にも、台所にもいなかった。


 窓辺にも、暖炉の前にもいない。


 ラテが気に入っていた古い椅子の上には、丸くくぼんだ毛布だけが残されている。


 台所で朝食の準備をしていた使用人に尋ねても、首を横に振られた。


「今朝は、まだ見ておりません」


「昨夜は?」


「お嬢様のお部屋へ向かうところを見ましたが……」


 昨夜。


 確かにラテは、私のベッドの端で眠っていた。


 けれど夜中に目を覚ました時には、もう姿がなかった。


 気まぐれな猫だった。


 眠る場所を変えることも珍しくない。


 庭に出ているだけかもしれない。


 そう思おうとした。


 けれど胸の奥に生まれた小さな違和感が、消えてくれなかった。


 私は上着を羽織り、庭へ出た。


 夜のうちに雨が降ったらしい。


 石畳は濡れ、植え込みの葉には透明な雫が残っている。


「ラテ」


 返事はない。


 物置の裏。


 井戸のそば。


 塀際に積まれた木箱の陰。


 ラテが入り込みそうな場所を、一つずつ探していく。


 見つからない。


 焦りを押し殺しながら、庭の奥へ向かった。


 そこには、母が大切に育てている白い花が咲いている。


 ラテも、その場所が好きだった。


 天気のいい日には、花壇の縁に寝そべって、蝶を目で追いかけていた。


「ラテ?」


 白い花の向こうに、何かが見えた。


 薄茶色の毛。


 見慣れた尻尾。


 私は安堵しかけた。


「こんなところで寝ていたのね」


 花壇を回り込む。


 ラテは横たわっていた。


 身体を丸めることもなく、不自然に脚を伸ばしたまま。


「ラテ」


 近づいても、耳が動かない。


 名前を呼んでも、尻尾を振らない。


 私はその場に膝をついた。


「ラテ?」


 そっと身体に触れる。


 冷たかった。


 夜露のせいではない。


 その冷たさが指先から腕へ伝わり、胸の奥まで入り込んでくる。


「……嘘」


 何度も身体を撫でた。


 背中をさすった。


 胸元へ手を当てた。


 けれど、ラテの身体は動かなかった。


「起きて」


 声が震えた。


「ねえ、ラテ。朝よ」


 昨日まで、この手に頭を押しつけてきた。


 撫でるのをやめると、もっと撫でろと鳴いた。


 私が本を読んでいると、その上へ乗って邪魔をした。


 眠る時には、私の枕を半分奪っていた。


 そのラテが、何も言わない。


「ラテ……」


 抱き上げた身体は、驚くほど軽かった。


 腕の中へ収まる大きさも、柔らかな毛並みも、昨日までと変わらない。


 変わってしまったのは、その奥にあったものだけだった。


「どうして……」


 涙が頬を伝った。


 私はラテを胸に抱きしめた。


 強く抱けば、もう一度鳴いてくれるような気がした。


 苦しいと身をよじり、私の腕を引っかいてくれるような気がした。


 けれどラテは動かなかった。


「ミラ?」


 背後から、母の声がした。


 振り返ることができなかった。


 母は何も尋ねず、私のそばまで歩いてきた。


 私の腕に抱かれたラテを見て、静かに息を呑む。


「お母様……」


 声にした瞬間、耐えられなくなった。


 私はラテを抱いたまま、母の胸へ縋りついた。


「ラテが……ラテが、起きないの」


 母はすぐには答えなかった。


 ただ、私とラテを包むように両腕を回した。


「ええ」


「昨日まで元気だったのに」


「ええ」


「どうして……?」


 母の手が、私の髪を撫でる。


「分からないわ」


 慰めるための嘘を、母は言わなかった。


 眠っているだけだとも、苦しまなかったはずだとも言わなかった。


 分からないことを、分からないまま受け止めてくれた。


「ごめんなさい」


 私は泣きながら呟いた。


「私が、窓を閉めていれば……」


「ミラ」


「外へ出さなければ、ラテは――」


「あなたのせいではないわ」


 母の声は静かだった。


 けれど、私の言葉を遮る強さがあった。


「まだ、何があったのかも分かっていません」


 母は私の背へ手を添えたまま、ラテの身体へ目を向ける。


「まずは屋敷の者に調べてもらいましょう。病かもしれないし、庭へ野犬が入り込んだ可能性もあるわ」


「野犬……」


 私は腕の中のラテを見た。


 その首には、私が贈った赤い首輪が巻かれている。


 小さな銀色の飾りがついた首輪。


 数日前、少し緩くなっていたから、私が留め具の位置を直したばかりだった。


 その首輪が、妙にねじれていた。


 赤い革の一部が、不自然に引き伸ばされている。


 私は涙を拭い、指先で首輪に触れた。


 その瞬間だった。


『――あなたが望むなら』


 声がした。


 女とも、男とも分からない声。


 耳元からではない。


 頭の中でもない。


 もっと深い場所。


 私という人間の奥に、直接触れてくるような声だった。


『残されたものの声を聞く力を、あなたに』


「……誰?」


 母が私の顔を見る。


「ミラ?」


 答えようとした瞬間、視界が暗転した。


          ◇


 大きな手が伸びてくる。


 ラテが身を翻す。


 けれど、逃げられない。


 首輪を掴まれた。


 赤い革が指に食い込み、強く引かれる。


 ラテの視界が激しく揺れた。


 泥のついた革靴。


 深く刻まれた靴底の模様。


 濃い色の上着。


 袖口から垂れた、ほつれた糸。


 男が笑っている。


 それは楽しそうな笑顔ではなかった。


 怯えるものを見下ろし、自分の力を確かめるような笑いだった。


『お前でいい』


 男の声がする。


『あの男に思い知らせるには、お前で十分だ』


 首輪が、さらに強く引かれた。


          ◇


「やめて!」


 私は叫び、首輪から手を離した。


 視界が庭へ戻る。


 白い花。


 濡れた土。


 腕の中のラテ。


 何も変わっていない。


 けれど私の指は震え、息がうまく吸えなかった。


「ミラ」


 母が私の肩を支える。


「何があったの?」


「見えた……」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。


「ラテの首輪に触れたら、見えたの」


 乱暴に伸びてきた手。


 泥のついた靴。


 笑っていた男の顔。


 そして――お前でいい、と言った声。


 私が見たものを一つずつ話す間、母は黙って聞いていた。


 疑うことも、遮ることもしなかった。


「信じられないと思うけれど……」


「いいえ」


 母は静かに首を横へ振った。


「あなたが嘘を言っていないことは分かります」


「でも、私にも何が起きたのか……」


「分からなくてもいいのです」


 母は、私の震える手を両手で包んだ。


「分からない力を、無理に信じる必要はありません。けれど、あなたが感じた違和感まで無視する必要もないわ」


 その言葉に、私はもう一度ラテを見た。


 野犬に襲われた。


 本当に、そうだろうか。


 先ほど見えたものが、悲しみから生まれた幻だったとしても。


 この首輪のねじれは消えない。


 私はラテを膝の上へ寝かせ、赤い首輪を観察した。


 留め具は外れていない。


 革の表面には、片側へ強く引っ張られた痕がある。


 野犬が噛んだのなら、歯形が残るはずだ。


 けれど首輪には、歯が食い込んだ傷がなかった。


「お母様。ラテを少しだけ、下ろします」


「ええ」


 柔らかな布を地面へ敷き、ラテをその上へ寝かせる。


 涙で視界が滲むたび、袖で拭った。


 泣くのをやめることはできない。


 それでも、見なければならなかった。


 ラテが最後に残したものを。


 首輪。


 毛並み。


 身体についた土。


 そのすべてを。


「傷が少なすぎる……」


 野犬に襲われたのなら、身体にはもっと多くの傷が残るはずだった。


 けれど目立つ傷はない。


 土の付き方もおかしい。


 何かに追い回されたのではなく、同じ場所で押さえつけられたように、前脚と腹の周囲だけが濡れている。


 私は辺りを見回した。


 昨夜の雨で、花壇の周囲は柔らかくなっている。


 ラテのそばに、小さな足跡が残っていた。


 そして、その隣。


 大きな靴跡が一つ、深く地面へ沈んでいた。


「……人の足跡」


 私は立ち上がりかけ、すぐに動きを止める。


 踏み荒らしてはいけない。


 靴跡の形が、先ほど見えたものと重なる。


 幅の広い革靴。


 踵の外側がすり減り、靴底には四角い溝が並んでいる。


 偶然かもしれない。


 庭師のものかもしれない。


 けれど、野犬の仕業ではない。


 靴跡の近くには、濃い緑色の糸が落ちていた。


 雨に濡れ、泥に半分埋もれている。


 先ほど見えた上着の袖口も、同じ色だった。


「お母様」


「何か見つけたの?」


「この糸を、誰にも触らせないでください」


 私は靴跡を指さした。


「足跡もです。庭へ誰も入れないで」


 母は、理由を尋ねなかった。


 私の顔をしばらく見つめたあと、立ち上がる。


「分かりました」


 近くに控えていた使用人へ顔を向けた。


「この庭を閉鎖しなさい。誰も入れてはいけません。庭師にも、土へ触れないよう伝えて」


「ですが、奥様。野犬の仕業ならば――」


「まだ、そうと決まったわけではありません」


 母の口調は穏やかだった。


 それだけで、使用人はそれ以上何も言えなくなった。


「それから、レオンハルトを呼んでください」


「レオンを?」


 私が尋ねると、母は頷いた。


「あなたのお父様が不在の間、何かあれば彼を頼るように言われています」


「でも、まだ事件だと決まったわけでは……」


「だからこそ、決めつけない者が必要なのです」


 しばらくして、レオンハルトが庭へやってきた。


 三十を少し過ぎたほどの男で、父の部下として長く働いている。


 短く整えられた黒髪。


 大柄ではないが、立っているだけで周囲へ目を配っていることが分かる。


 レオンは私たちの前まで来ると、眠るラテへ目を向けた。


 いつもの無表情が、ほんの少しだけ曇った。


「ラテですか」


「知っていたの?」


「一度、書類の上へ座られました」


 レオンはラテのそばへしゃがみ込んだ。


「旦那様に提出する報告書でした。退いていただくのに、干し肉を一枚使いました」


 知らなかった。


 ラテらしいと思った。


 こんな時なのに、ほんの一瞬だけ、眠っているラテが得意そうに見えた。


「ミラ様」


 レオンの声が低くなる。


「触れてもよろしいですか」


「待って」


 私は首輪へ手を伸ばした。


 外さなければ、レオンは身体を調べられない。


 けれど、その留め具へ指をかけた途端、胸が苦しくなった。


 この首輪を外したら、本当にラテが私のそばからいなくなるような気がした。


 母が隣へ膝をつく。


「一緒に外しましょう」


 私は頷いた。


 二人でラテの身体を支え、赤い首輪を外す。


 銀色の飾りが、小さく鳴った。


 それはラテが歩くたびに聞こえていた音だった。


 もう二度と聞けないと思うと、また涙が溢れた。


 私は首輪を両手で握りしめる。


「レオン」


「はい」


「ラテは、野犬に襲われたのではありません」


 レオンは、私の言葉を笑わなかった。


 首輪の傷を見て、靴跡へ視線を移す。


 濡れた土へ膝をつき、落ちている緑色の糸を確かめた。


「そう判断された理由を、聞かせてください」


 私は、自分が見たものを話した。


 首輪に残された光景についても。


 レオンは最後まで黙って聞いていた。


「私が見たものが、本当に起きたことなのかは分かりません」


「はい」


「だから、あれだけで誰かを犯人にはできない」


「そのとおりです」


「でも、首輪には引っ張られた痕がある。ラテの身体に野犬の歯形はない。そばには人の靴跡と、服の糸が残っている」


 声が震えないよう、首輪を握る手に力を込めた。


「これは事故ではありません」


 レオンは、ゆっくりと頷いた。


「私も同意します」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった恐怖が、別のものへ変わった。


 怒りだった。


 ラテを傷つけた者がいる。


 弱い命を押さえつけ、その苦しむ姿を見て笑った者がいる。


 そして、その男は今もどこかで、何もなかったような顔をしている。


 野犬の仕業だ。


 ただの事故だ。


 猫一匹のことだ。


 そう言えば、誰も自分を疑わないと思っている。


 私は、それが許せなかった。


「見つけます」


 母とレオンが、私を見る。


「ラテを傷つけた人を、私が見つけます」


「ミラ様」


「見えたからではありません」


 私は靴跡を見た。


 首輪を見た。


 泥に埋もれた、一本の糸を見た。


「この人が、痕跡を残したからです」


 どれほど綺麗な言葉を並べても。


 どれほど善良な顔を作っても。


 起きたことまで、なかったことにはできない。


 傷つけられた者が声を失っても、そのそばに残されたものがある。


 首輪が。


 靴跡が。


 服から千切れた一本の糸が。


 何が起きたのかを覚えている。


 私は赤い首輪を胸元へ抱き寄せた。


「ラテは、もう話せません」


 涙を拭い、顔を上げる。


「だから私が、残されたものの声を聞きます」


 母は止めなかった。


 ただ、私の肩へ手を置いた。


「それなら、最後まで見届けなさい」


「はい」


「ただし、一人では行かせません」


 母がレオンを見る。


「この子を守って」


「承知しました」


 私はもう一度、ラテのそばへ膝をついた。


 柔らかな頭を撫でる。


 目を閉じた姿は、今にも喉を鳴らしそうだった。


「少しだけ待っていて」


 返事はない。


 けれど、もう分かっていた。


 声を失ったからといって、すべてが消えてしまうわけではない。


 犯人が忘れたとしても。


 世界が小さな命の死を、取るに足らないものとして片づけようとしても。


 残されたものは、覚えている。


 だから私は、その声を拾う。


 そして必ず、ラテを傷つけた者のもとへたどり着く。

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