第20話 自分の名で
白い光が消えた。
黒い水面も、無数の鏡もない。
私の足元には、礼拝堂の冷たい石床が戻っていた。
夜を織ったような黒いドレスは消え、学院の制服へ戻っている。
目の前では、兄が両膝をついていた。
《審黒の間》へ引き込まれる前と、姿勢はほとんど変わっていない。
けれど、その顔を覆っていたものは、もうなかった。
「……私が閉めた」
兄の声が、礼拝堂へ落ちた。
老管理人が、杖を握る手へ力を込める。
「何をだ」
「東側の扉だ」
兄は顔を上げなかった。
「妹が町へ行かないように、外から閉めた」
老管理人の口元が震えた。
それでも、証明官は兄へ駆け寄らなかった。
責めることも、慰めることもしない。
記録帳を開き、静かに問いかけた。
「最初から話してください」
「もう認めただろう」
「自白だけでは不足です」
証明官の声は変わらない。
「いつ、どこで、何をしたのか。集められた証拠と照合します」
兄は、焼けた扉を見た。
鉄の棒に隠れていた、煙のついていない細い跡。
五年前の治療記録。
右手に残った火傷。
妹が町へ出ようとしていたことを示す手紙。
そして、死者の文字をまねるために使った板。
すでに、沈黙だけで逃げられる状況ではない。
「火事が起きた前の晩だ」
兄が話し始めた。
「妹が記録室にいた。翌朝、町へ出るつもりだと分かっていた」
「本人から聞いたのですか」
「旅の鞄を見た。町までの地図もあった」
「妹さんと話しましたか」
「話した」
兄の指が、石床を押さえる。
「行くなと言った。町は危険だ。仕事が見つかる保証もない。村には妹を必要とする者がいると」
「妹さんは?」
「拒んだ」
短い言葉だった。
「許可を求めていないと言われた。自分の人生は自分で決めると」
ルチアが目を伏せた。
兄は続ける。
「私は、妹が何も分かっていないと思った。町へ出れば苦労する。騙されるかもしれない。失敗すれば、戻る場所まで失う」
「だから、閉じ込めた?」
ルチアの声は柔らかい。
だが、責める響きを隠してはいなかった。
「一晩だけだ」
兄は、何度も繰り返してきた言葉を口にした。
「朝まで考えれば、気持ちが変わると思った」
「変わらなかったら?」
ヴァルターが尋ねる。
「何?」
「翌朝になっても、妹さんが町へ行くと言ったら?」
兄は答えられなかった。
「また閉じ込めたのか」
「そんなことは……」
「では、開けて送り出した?」
「……分からない」
ヴァルターは記録帳へ書き込んだ。
「一晩で終える根拠はなかったということだ」
兄は反論しなかった。
「東側の扉を選んだ理由は?」
証明官が尋ねる。
「記録室から外へ出られる扉だった。正面へ回れば、礼拝堂の中を通らなければならない」
「妹さんが窓から助けを求める可能性は?」
「窓は高い。開かない造りだった」
「知っていたのですね」
「……ああ」
閉じ込められた妹に、別の逃げ道がないことを知っていた。
それでも兄は、外から鉄の棒を動かした。
「その後は?」
「自宅へ戻った」
「妹さんの声は聞きましたか」
兄の肩が揺れた。
「扉を叩いていた」
「何と言っていましたか」
「開けてほしいと」
「それでも戻らなかった?」
「朝になれば分かると答えた」
証明官の筆が一瞬止まった。
それから、再び紙の上を動き始める。
「火事へ気づいた時刻は?」
「煙の臭いがした。外へ出ると、礼拝堂の東側が赤く見えた」
「すぐに助けを呼びましたか」
「呼んでいない」
「なぜです」
「先に扉を開けようと思った」
兄は右手を見た。
「鉄の棒が熱くなっていた。触れた瞬間に手が焼けた。それでも動かした」
「扉は開いた?」
「ああ」
「妹さんは?」
「見えなかった」
兄の声が掠れる。
「煙が多かった。炎も広がっていた。中へ入ろうとしたが、無理だった」
「その時点でも、助けを呼ばなかった」
「扉を閉めたことが知られると思った」
老管理人が、ゆっくりと顔を上げる。
「だから逃げたのか」
「……ああ」
「中に妹がいると知りながら?」
「分かっている!」
兄が叫んだ。
すぐに、その声は小さくなった。
「分かっている……」
「分かっていなかった」
老管理人の声が震える。
「五年間、お前は何も言わなかった」
「言えるはずがなかった」
「だから私に背負わせたのか」
兄は沈黙した。
証明官が問いを続ける。
「火事が発見された後、あなたはどうしましたか」
「鐘が鳴った。村人が集まり始めた。私は遠くから来たように装って、正面へ回った」
「東側の扉へ触れたことは?」
「誰にも話していない」
「治療を受けた時、鐘が鳴る前に負傷したと説明しています」
「混乱していた。そこまで考えられなかった」
「右手の火傷については?」
「倒れた鉄へ触れたと嘘をついた」
証明官が、五年前の記録へ目を落とす。
その時の説明と、今の供述。
内容が一致していないことを確認し、記録する。
「老管理人が油灯を置いたと知ったのは、いつですか」
「火事のあとだ」
「それを聞いて、どう思いましたか」
兄はしばらく答えなかった。
「……助かったと思った」
老管理人が目を閉じる。
「皆が、火事は油灯のせいだと言った。管理人が消し忘れた。妹が死んだのは、そのせいだと」
「あなたも、そう証言した?」
「私は、管理人が以前にも油灯を置いたままにしたことがあると話した」
「それは事実ですか」
老管理人の方を見る。
老人は苦しそうに頷いた。
「一度だけだ。すぐに気づいた。火事にはならなかった」
「兄は、その過去を利用した」
ヴァルターが言う。
「今回も同じ失敗をしたように見せた」
「嘘は言っていない」
兄が反射的に答えた。
「以前に消し忘れたことがあると話しただけだ」
「必要な事実だけを選んでいます」
私は兄を見た。
「扉を閉めた事実は隠した」
兄は口を閉じた。
「それから五年間、老人が全ての責任を負うことを黙って見ていた」
「私は……」
「事実です」
私は短く告げた。
「続けてください」
証明官が新しい紙を用意する。
「偽の手紙についてです。最初に書いたのは、いつですか」
「四日前だ」
「なぜ、五年後の今になって?」
「管理人が村へ戻ってきた」
老管理人が眉を寄せる。
「妹の命日に、墓へ花を供えようと思っただけだ」
「村の者が、管理人を許してもいいのではないかと話し始めた」
兄が言う。
「五年も苦しんだ。本人も十分に罰を受けたと」
「それが許せなかった?」
「違う」
「では、何が怖かったのですか」
兄は焼けた扉を見た。
「管理人が戻れば、火事について話す。扉が閉ざされていたことも、また言い出すと思った」
「再調査を恐れた」
「……ああ」
「だから、死者からの手紙を作った?」
「管理人に罪を認めさせれば、誰も扉を調べないと思った」
「手紙の内容は?」
「妹の古い手紙を見ながら書いた」
「文章も写したのですか」
「一部だけだ。妹が使っていた言葉を選んだ」
「残りは?」
「私が考えた」
ルチアが、机の上の偽の手紙を見た。
「妹さんなら、こう言うはずだと思ったの?」
「そうだ」
「妹さんが本当に言ったことは、無視したのに?」
兄は答えなかった。
町へ出たい。
自分の人生を選びたい。
自分がいなければ何もできないと言わないでほしい。
生きていた妹の言葉は拒み、死後に自分の望む言葉だけを書かせた。
「鐘の仕掛けは?」
ヴァルターが尋ねる。
「鐘の縄へ砂袋をつけた。細い紐で固定し、その下に短い蝋燭を置いた」
「火が紐を焼き切れば、砂袋が落ちる」
「そうだ」
「時刻は、どう調整した?」
「以前に何度か試した。蝋燭の長さを変えた」
「手紙は?」
「川辺で拾った、細い草の茎を使った」
兄は告解箱の通気口を見た。
「紙を細く巻いて穴へ入れた。鐘が鳴る前に、廊下側から奥まで押し込んだ」
「手紙がすぐ落ちなかった理由は?」
「穴の途中へ、少量の蝋で止めた。鐘の振動で外れるようにした」
ヴァルターが通気口の中で採取した欠片を確認する。
灰色の埃に混じっていた、白い小さな塊。
「蝋の痕跡と一致する」
「鐘が鳴れば、全員が上を見る」
兄が続ける。
「その振動で紙が落ちる。誰も告解箱へ近づいていなくても、手紙が現れる」
「今夜、全てを思い出させると書いた目的は?」
「管理人を怖がらせるためだ」
「自白させるため?」
「ああ」
「何を自白させるつもりでしたか」
「妹を殺したと」
「油灯を置いたことではなく?」
兄の声が止まる。
ヴァルターは、その沈黙を記録した。
「老人へ、全ての責任を負わせるつもりだった」
私は言った。
「……そうだ」
兄は、初めて否定しなかった。
◇
供述が終わった時には、窓の外が暗くなっていた。
証明官は何枚もの記録を机へ並べる。
兄が語った内容は、
焼けた扉の跡。
右手の火傷。
五年前の治療記録。
妹の旅支度。
筆跡を写した板。
書き損じた手紙。
鐘楼の蝋と切れた紐。
告解箱の通気口に残った痕跡。
その全てと一致していた。
「あなたの供述は記録しました」
証明官が兄へ告げる。
「今後は正式な調査へ移ります。妹さんを閉じ込めた行為、火事の発見後に救助を求めなかったこと、五年間の隠蔽、偽の手紙による脅迫について確認されます」
兄は力なく頷いた。
「管理人については?」
ルチアが尋ねる。
証明官は老人を見る。
「油灯の管理に問題がなかったか、改めて調査します」
「私は、消したと思っている」
老人が言った。
「だが、今は自分の記憶にも自信がない」
「それも含めて調べます」
証明官は断定を避けた。
「兄が扉を閉ざしたからといって、油灯についての責任が自動的に消えるわけではありません」
老人は静かに頷いた。
「分かっている」
「ただし、妹さんが逃げられなかった理由を、あなた一人へ負わせることもできません」
老人の目から涙が落ちた。
「五年かかった」
兄が顔を上げる。
老人は、兄を見なかった。
「私が火を残したのかもしれない。それは今でも怖い」
杖を握る手が震える。
「だが、扉まで私が閉めたのではないと、やっと証明された」
「……すまなかった」
兄が呟いた。
老人は返事をしない。
兄がもう一度、口を開く。
「私は――」
「私に謝る前に、話す相手がいるだろう」
老人は、礼拝堂の奥に飾られた小さな肖像へ目を向けた。
「だが、あの子はもう答えない」
兄は俯いた。
「だから、許されたと思うな」
「……分かっている」
「今のお前が、何を分かっているのか。私は信用しない」
それは、当然の言葉だった。
謝罪はできる。
後悔もできる。
だが、受け入れるかどうかを決めるのは、傷つけられた側だ。
そして、最も傷つけられた者は、もう何も選べない。
◇
証明官は、供述書の最後へ署名を求めた。
兄は机の前へ座る。
黒いインクへ筆を浸した。
これまで彼は、妹の文字を何度も練習していた。
細い線。
右上へ跳ねる文末。
穏やかで、読みやすい字。
だが、供述書へ書かれた文字は違った。
太さは揃っていない。
途中で何度も震えている。
美しくもない。
妹の文字には、少しも似ていなかった。
「これでいいのか」
「確認します」
証明官が署名と、兄の過去の書類を照合する。
「本人の筆跡です」
兄は筆を置いた。
その下には、妹の名前ではなく。
兄自身の名前が記されていた。
「連行します」
警備兵が兄の隣へ立つ。
兄は抵抗しなかった。
礼拝堂を出る直前、一度だけ妹の肖像を振り返る。
何かを言おうとした。
けれど、声は出なかった。
今度こそ。
死者の代わりに、言葉を作ることは許されない。
兄は何も言わず、警備兵と共に礼拝堂を出ていった。
◇
帰りの馬車では、誰もすぐに話さなかった。
ルチアは窓の外を見ている。
ヴァルターは、膝の上で記録を整理していた。
「今回の報告書は、共同で作成するべきだ」
しばらくして、ヴァルターが言った。
「理由は?」
私は尋ねた。
「紙と筆跡は私が確認した。村での聞き取りはメルティアだ。扉と供述の矛盾は君が見つけた」
「一人の報告書へまとめるより、正確だね」
ルチアが振り返る。
「三人で書こうよ。ミラが全部一人で抱えたら、また人間のところを削りそうだし」
「削りません」
「本当に?」
「前回、指摘されました。修正します」
「うん。それなら私も手伝うね。妹さんがどんな人だったのか、村で聞いた話も残したいな」
「事件との関係を示してください」
「ほら、もう削りそう」
「必要な範囲で残します」
ルチアは少しだけ笑った。
「それなら安心かな」
ヴァルターが記録帳から顔を上げる。
「クゼ」
「何ですか」
「体調は?」
「問題――」
いつもの言葉を口にしようとした。
けれど、途中で止まった。
頭の奥に、鈍い痛みが残っている。
目を閉じると、黒い水面に落ちた白い破片が浮かんだ。
そして、その破片の一つに。
私自身の顔が映っていたような気がした。
「ミラ?」
ルチアが心配そうに身を寄せる。
私は、問題ありませんと答えるべきだった。
いつも通り。
そう答えれば、話は終わる。
「……少し、疲れました」
自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。
ルチアも目を丸くする。
けれど、すぐに柔らかく笑った。
「そっか。じゃあ、学院へ着くまで休もうね」
「記録の整理が――」
「必要ない」
ヴァルターが私の言葉を遮った。
「今は休め」
私が普段使う言い方だった。
「……分かりました」
背もたれへ身体を預ける。
車輪の音が、一定の間隔で続いている。
兄は、妹の声を借りることをやめた。
供述書には、自分の言葉で罪を書いた。
その最後に記されたのも。
妹の美しい文字ではない。
震えた、自分自身の名前だった。




