第19話 代弁者の仮面
「妹の代わりに語る」
私は、兄の顔を覆う白い仮面を見た。
「また、声を借りるのね」
「借りたのではない!」
兄の声が、黒い水面へ響いた。
仮面には、深い悲しみが刻まれている。
妹を失いながらも、その無念を世へ訴え続ける兄。
声を失った死者のために立ち上がる、優しい代弁者の顔。
「妹は、何も言えずに死んだ」
「そうです」
「だから私が伝えた!」
「違います」
私は断定した。
「妹さんが言えないことを利用した」
白い仮面の笑みが、わずかに歪む。
「私だけが、妹の苦しみを理解していた!」
「理解していません」
「家族だぞ!」
「生前の言葉さえ、聞かなかった」
「妹は間違っていた!」
「それを決める権利はありません」
「私は守ろうとした!」
「なら、見てください」
一枚目の鏡が、闇の中へ浮かび上がった。
◇
鏡の中。
妹は礼拝堂の机へ向かい、何通もの手紙を書いていた。
文字を読めない村人のため。
離れて暮らす家族へ思いを伝えたい者のため。
役所へ提出する書類を書けない者のため。
妹は一人ずつ話を聞き、その者が伝えたい言葉を紙へ記していく。
『ありがとう』
老女が妹の手を握った。
『あなたがいてくれて、本当に助かるわ』
妹は穏やかに笑う。
その背後で、兄も満足そうに頷いていた。
『お前がいなければ、この礼拝堂は成り立たない』
『私ができることをしているだけです』
『私にも、お前が必要だ』
妹の筆が、一瞬だけ止まった。
「家族が必要だと言って、何が悪い!」
兄が鏡へ叫ぶ。
「悪くありません」
「なら――」
「必要とすることと、縛ることは別です」
鏡の中で、季節が進む。
妹は帳簿を書く。
村人の相談へ応じる。
礼拝堂の行事を整える。
兄が困るたび、彼女が代わりに動く。
『この書類も頼む』
『明日までですか?』
『お前ならできる』
『町へ行く準備が……』
『それは後でいい』
妹は何も言わず、書類を受け取った。
「あなたは、妹さんの力を必要とした」
「礼拝堂のためだ!」
「それだけではありません」
鏡の中で、兄が妹へ問いかける。
『町へ行って、何をする』
『代書の仕事を探します』
『ここでも同じことができる』
『自分の力を試したいのです』
『失敗する』
『それでも、私が決めます』
兄の顔から笑みが消える。
『私を置いていくのか』
妹は悲しそうに兄を見た。
『兄さんを捨てるのではありません』
『同じことだ』
「同じではありません」
私の言葉に、鏡の中の兄が振り向いた。
「妹さんが自分の人生を選ぶことと、あなたを捨てることは別です」
「町へ行けば、戻らなくなる!」
「それも、妹さんが決めることです」
「家族なのに?」
「家族でも、他人の人生は所有できません」
白い仮面へ、細い亀裂が入った。
「あなたは、妹さんを必要としていた」
「当然だ!」
「違います」
私は鏡の中の兄を見た。
「妹さんに必要とされる自分を、失いたくなかった」
「違う……」
「妹さんが一人で生きられると認めれば、あなたは自分の役目を失う」
「私は兄だ!」
「だから、妹さんには自分を必要としていてほしかった」
「違う!」
一枚目の鏡が暗くなった。
◇
二枚目の鏡が光った。
火事が起きる前の夜。
妹は記録室で、最後の仕事を片づけていた。
机のそばには、旅の鞄が置かれている。
衣服。
筆記具。
数日分の金。
町までの地図。
出発の準備は終わっていた。
扉が開き、兄が入ってくる。
『本当に行くつもりなのか』
『はい』
『許さない』
『許可を求めていません』
妹の声は静かだった。
『以前も私の鞄を隠しましたね』
『考え直す時間が必要だった』
『兄さんに必要だった時間です』
『私は、お前を守っている!』
『違います』
妹は兄を見た。
『兄さんは、一人になることを怖がっているだけです』
鏡の中の兄が、妹の腕をつかむ。
『一晩考えろ』
『手を離してください』
『朝になれば分かる』
『もう決めました』
妹が兄の手を振り払う。
兄は記録室を出た。
東側の扉を閉める。
外から、鉄の棒を動かした。
硬い音が響く。
『兄さん?』
扉の内側から声がした。
『開けてください』
『朝になったら開ける』
『これは話し合いではありません!』
兄は扉から離れた。
「一晩だけだった!」
白い仮面の奥から、兄が叫ぶ。
「朝になれば開けるつもりだった!」
「妹さんは、拒否しました」
「冷静になれば理解した!」
「誰が?」
「妹だ!」
「あなたではありませんか」
兄の声が止まる。
「町へ行く妹さんを受け入れられなかった」
「危険だった!」
「選ぶのは本人です」
「失敗する!」
「失敗する権利も、本人にあります」
「そんなものは権利ではない!」
「権利です」
私は短く告げた。
「あなたは、妹さんの選択を奪った」
「守るためだ!」
「守る者は、逃げ道を塞ぎません」
鏡の中。
記録室の油灯が、ゆっくりと傾いた。
机の端へ油が流れる。
小さな炎が紙へ移る。
妹が振り返る。
火は瞬く間に広がった。
東側の扉へ走る。
取っ手を引く。
開かない。
『兄さん!』
扉が激しく叩かれる。
『開けて!』
兄の顔を覆う仮面へ、深い亀裂が走った。
「やめろ……」
鏡の中で、扉を叩く音が続く。
「見せるな……!」
「閉めたのは、あなたです」
「火を出したのは私ではない!」
「老人には、油灯を管理する責任があります」
「なら、あの男のせいだ!」
「あなたの責任は消えません」
「火事が起きなければ、妹は死ななかった!」
「扉が開いていれば、逃げられました」
「私は知らなかった!」
「知らなければ、自由を奪ってもいいのですか」
「一晩だけだった!」
「妹さんにとっては、最後の夜でした」
兄の声が消えた。
鏡の中。
煙を見た兄が、東側の扉へ駆け戻る。
熱くなった鉄の棒へ右手をかける。
皮膚が焼ける。
それでも、かけ金を外した。
扉を開ける。
だが、妹の姿はもう見えない。
炎と煙だけが、扉の向こうを埋めていた。
兄は助けを呼ばなかった。
自分が扉を閉めたと知られることを恐れ、暗闇へ逃げた。
やがて鐘が鳴る。
村人が集まる。
兄は何も知らない顔で戻ってきた。
「あなたが最初に守ったのは、妹さんではありません」
私は兄を見た。
「自分の罪です」
二枚目の鏡が砕けた。
◇
三枚目の鏡が現れた。
火事から五年後。
兄は一人、机へ向かっている。
目の前には、妹が生前に書いた手紙。
その上へ薄い紙を重ね、文字をなぞる。
何度も。
何度も。
妹の字に見えるまで。
『あなたが油灯を残したことを、私は覚えています』
書き直す。
『あなたが扉を閉ざしたことも』
兄の手が止まる。
しばらく考えたあと、その文章を残した。
「管理人に罪を認めさせるためだった」
兄が言う。
「妹を殺したと認めさせるために」
「違います」
「何が違う!」
「老人が全てを背負えば、あなたが許される」
「私は許しなど求めていない!」
「求めています」
鏡の中。
兄は失敗した手紙を丸め、机の奥へ押し込んだ。
『兄さんだけが、私の声を聞いてくれました』
妹の字で、自分を肯定する言葉を書いている。
「妹さんに、あなたを許させようとした」
「違う……」
「妹さんに、あなたを正しい兄だと言わせようとした」
「違う!」
「亡くなった妹さんは、否定できません」
白い仮面の亀裂が広がる。
「だから、都合がよかった」
「そんな言い方をするな!」
「事実です」
「私は、妹の無念を――」
「妹さんの無念ではありません」
私は偽の手紙を映す鏡へ近づいた。
「あなたの罪悪感です」
「私は苦しんだ!」
「それも事実です」
兄が顔を上げる。
「なら――」
「苦しんだことは、償いではありません」
仮面の笑みが崩れた。
「悲しんだことも」
亀裂が頬へ伸びる。
「妹さんを愛していたことも」
「愛していた!」
「罪を消しません」
兄が両手で仮面を押さえた。
「愛していたから、行かせたくなかった!」
「愛は、自由を奪う権利ではありません」
「私には妹しかいなかった!」
「妹さんには、あなた以外の人生があった」
「違う……」
「あなたは、それを認めなかった」
「私は妹のために――」
「生前は、選ぶ権利を奪った」
仮面から白い破片が落ちる。
「死後は、沈黙を奪った」
「やめろ……」
「妹さんの名前で、あなたの言葉を語らせた」
「私は代わりに――」
「代わりにはなれません」
私は断定した。
「誰にも、死者の心は所有できません」
兄は後ずさる。
鏡の中では、妹の文字をまねた手紙が何通も並んでいる。
けれど、そのどこにも妹の言葉はない。
「あなたが求めたのは、真実ではありません」
「違う……」
「自分の代わりに、罪を背負う犯人です」
「違う!」
「老人へ全てを押しつければ、自分は妹を失った被害者でいられる」
「私は被害者だ!」
「同時に、加害者です」
兄の声が止まった。
「老人の過失は、あなたの罪を消しません」
「……」
「あなたの罪も、老人の過失を消しません」
「……」
「一人に全てを背負わせれば、真実は簡単になります」
無数の鏡が、兄へ向きを変えた。
「ですが、簡単になった真実は、もう真実ではありません」
「私は……妹を愛していた……」
「否定しません」
兄が顔を上げる。
「愛していたからこそ――」
「違います」
私は遮った。
「愛していた事実で、支配した事実を隠さないでください」
仮面に大きな亀裂が走った。
「あなたは、妹さんを守ったのではない」
「……」
「妹さんに必要とされる自分を守った」
「違う……」
「妹さんの声を取り戻したのではない」
「違う……!」
「妹さんが否定できないことを利用した」
「やめろ!」
「代弁者の仮面は美しい」
白い仮面が軋む。
「死者のために苦しみ、声を上げる兄」
仮面に刻まれた悲しみが崩れていく。
「ですが、その仮面の下で」
私は兄の本当の顔を見た。
「あなたは一度も、妹さんの言葉を聞いていない」
「私は……」
「あなたの真貌は――支配です」
白い仮面へ、最後の亀裂が走った。
「死者は、もうあなたを否定できない」
黒い水面から、波紋が消えた。
「だから、私が否定します」
「――《真貌剥離》」
代弁者の仮面が砕けた。
白い破片が、黒い水面へ降り注ぐ。
妹のために涙を流す目。
死者の声を伝える口。
悲しみに耐える兄の顔。
そのすべてが剥がれ落ちた。
残ったのは。
妹に置いていかれることを恐れ。
自由を奪い。
逃げ道を塞ぎ。
その死後まで、妹の名へ隠れ続けた男だった。
「これが、あなたの真貌」
兄は膝をついた。
涙が黒い水面へ落ちる。
私は、それ以上の言葉を与えなかった。
「行きなさい」
闇の向こうから、白い光が差し込む。
「妹さんの声ではなく、自分の言葉で罪を認めてください」
兄の身体が光へ包まれていく。
「死者の名ではなく、自分の名で背負いなさい」
そして《審黒の間》は、静かに閉じた。
代弁者の仮面は砕けた。
残ったのは、妹の名を失った男の声だけだった。




