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第18話 扉を開けた手



「私が書いた」


 兄の告白が、静かな部屋へ落ちた。


 机の上には、妹の文字を写すために使われた板。


 何度も書き直された手紙。


 そして、死者の声を装った三通の告発文。


「だが、嘘ではない」


 兄は顔を上げた。


「管理人が油灯を残した。そのせいで妹は死んだ。私は、妹が言えなかったことを代わりに伝えただけだ」


「妹さんは、言っていません」


 私は答えた。


「死者は否定できません。あなたの言葉です」


「妹も同じことを望んでいる!」


「証明できません」


「家族の私には分かる!」


「あなたは、生前の望みも理解しなかった」


 机の上には、町へ出ようとしていた妹の手紙がある。


『兄さんに必要とされることだけを、私の生きる理由にはできません』


『私は、私が選んだ場所で生きたいのです』


 兄は、その手紙を見ようとしなかった。


「偽の手紙を書いた理由は分かりました」


 私は焼けた扉へ視線を向けた。


「次は、五年前です」


「私は手紙を書いただけだ!」


「扉の話です」


「知らない」


「それでは終わりません」


 兄の右手が、わずかに動いた。


 指先が袖の中へ隠れる。


 私はその動きを見た。


「右手を見せてください」


「何?」


「手のひらです」


「関係ない」


「判断するのは私たちです」


 兄は手を出さなかった。


 代わりに左手で右の袖口を押さえる。


「怪我をしていますか」


「古い傷だ」


「いつの傷ですか」


「覚えていない」


「五年前では?」


 兄の呼吸が止まった。


 ルチアが、ゆっくりと兄の方へ向き直る。


「村で、少し気になる話を聞いたよ」


「何を聞いた」


「火事のあと、お兄さんの右手に包帯が巻かれていたって」


「消火を手伝った。火傷くらいする」


「そうかもしれないね」


 ルチアの声は柔らかい。


「でも、最初に火事を見つけた人は、少し違うことを覚えてたよ」


 兄の目が揺れる。


「違う?」


「煙に気づいて鐘を鳴らそうとした時、お兄さんが礼拝堂の東側から走ってきたって」


「記憶違いだ!」


「その人は、お兄さんが右手を押さえていたことも覚えてたよ。痛そうだったから、声をかけたんだって」


「五年前の話だ!」


「うん。だから、記憶だけで決めるつもりはないよ」


 ルチアは私を見る。


「でも、確認する理由にはなるよね?」


「なります」


 私は兄へ手を差し出した。


「右手を見せてください」


「断る」


「拒否する理由は?」


「私の身体だ!」


「火事に関わる痕跡の可能性があります」


「傷一つで、私を犯人にするつもりか!」


「一つではありません」


 私は焼けた扉を示した。


「火事の最中、かけ金は閉じていた」


 机の上の偽の手紙を見る。


「あなたは、それを五年前から知っていた」


 町へ出る準備をしていた鞄。


 兄へ残そうとしていた手紙。


「妹さんは翌朝、ここを出る予定だった」


「……」


「そしてあなたは、火事が知られる前に東側にいた」


「偶然だ!」


「では、手を見せてください」


 兄は動かなかった。


 同行していた証明官が前へ出る。


「確認させてください。強制したくはありません」


「私を疑うのですか」


「疑いを解く機会でもあります」


 長い沈黙があった。


 兄は震える指で、右手の手袋を外した。


 手のひらに、古い火傷の痕が残っている。


 親指の付け根から手首へ向かって、細長く伸びた傷。


 丸い火傷ではない。


 真っすぐな鉄へ、強く手を押しつけたような形だった。


 ヴァルターが焼けた扉の前へしゃがむ。


「かけ金を開く時、握る部分の幅と近い」


「火傷の形だけでは証明できない!」


 兄が手を引く。


「その通りです」


 ヴァルターは記録帳を閉じなかった。


「だから、記録を確認する」


「何の記録だ」


「火事の夜、この礼拝堂で怪我人の手当てが行われている。薬や包帯の使用量が帳簿へ残されているはずだ」


 老管理人が顔を上げた。


「治療の記録なら、物置の書棚だ。昔は私が保管していた」


 兄の表情が変わった。


「そんな古い記録は残っていない」


「確認します」


 私は答えた。


「必要ない!」


「必要です」


 兄が物置へ向かおうとする。


 証明官が、その前へ立った。


「ここにいてください」


「片づけられたはずだ!」


「なぜ知っているのですか」


 私が尋ねると、兄の足が止まった。


「管理者だからだ」


「確認していないのに?」


「五年も前の紙だ。残っているはずがない!」


「では、問題ありません」


 私は老管理人を見る。


「案内してください」


          ◇


 古い記録は残っていた。


 物置の一番奥。


 湿気を避けるため、木箱へ入れられた帳簿の中に、火事が起きた年の治療記録があった。


 紙は黄ばんでいたが、文字は読める。


 ヴァルターが火事の日付を探す。


「ありました」


 その日の記録には、煙を吸った者、腕を切った者、火の粉で服を焦がした者の名前が並んでいた。


 兄の記録もある。


『右の手のひらに火傷』


『細長い鉄へ触れたものと思われる』


『火事を知らせる鐘が鳴る前に負傷したと本人が説明』


 部屋の中が静まり返った。


「鐘が鳴る前」


 ルチアが小さく繰り返した。


 ヴァルターは記録を兄へ向けた。


「あなた自身が説明している」


「違う……」


「文字は、当時治療を担当した者のものです」


「間違えて書いたんだ!」


「何を?」


「時刻だ!」


「鐘が鳴る前に怪我をしたと話したのは?」


「そんなことは言っていない!」


 ルチアが記録の下を指した。


「お兄さんの署名があるよ」


 治療を受けた確認として、兄の名前が書かれていた。


「妹さんの字じゃないよね?」


 兄は答えられない。


「あなたの文字ですか」


 私は尋ねた。


「……そうだ」


「記録の内容を確認して署名した」


「火傷していた。細かく読めなかった!」


「右手を火傷しています」


 ヴァルターが言った。


「署名は左手で書かれている。線が不自然なのも、そのためだろう」


「私は混乱していた!」


「否定の根拠にはなりません」


 兄は荒い呼吸を繰り返した。


「火事が起きる前に、鉄へ触れた」


 私は焼けた扉へ目を向ける。


「礼拝堂の東側にいた」


「違う」


「妹さんは翌朝、町へ向かう予定だった」


「違う!」


「東側の扉は、外から閉ざされていた」


「私は殺していない!」


 兄の叫びが、物置の壁へぶつかった。


 誰も、殺したとは言っていない。


 その言葉を口にしたのは、兄自身だった。


 老管理人が、震える声で尋ねる。


「お前が……閉めたのか」


「違う」


「なぜ、あの扉を閉めた」


「閉めていない!」


「では、なぜ火傷した!」


「開けただけだ!」


 兄の声が響いた。


 その直後。


 兄は、自分の口を手で押さえた。


 遅かった。


「何を開けたのですか」


 私は尋ねた。


「……」


「答えてください」


「……扉だ」


 老管理人の膝が崩れた。


「やはり、お前が……」


「違う!」


 兄が首を振る。


「私は火事に気づいて、扉を開けただけだ!」


「なぜ東側の扉を選んだのですか」


「近かったからだ!」


「あなたは礼拝堂の外にいた」


「煙が見えた!」


「正面からでも見えます」


「妹が中にいると思った!」


「なぜ?」


 兄の声が止まる。


「火事が起きた時刻。妹さんが記録室にいることを、なぜ知っていたのですか」


「いつも、あの時間は記録を整理していた」


 老管理人が顔を上げる。


「違う」


 掠れた声だった。


「あの子は普段、日が沈む前に仕事を終えていた」


「その日だけ残っていた」


「なぜ知っている!」


 兄は老管理人を睨んだ。


 だが、言葉は出ない。


 私は一つずつ確認する。


「妹さんは、翌朝町へ出る予定だった」


「……」


「あなたは、以前にも出発を止めている」


「……」


「その夜、妹さんが記録室にいると知っていた」


「……」


「東側の扉へ向かい、鉄のかけ金を開けた」


「……」


「扉が閉ざされていると、最初から知っていた」


「やめろ……」


「閉めたのは、あなたです」


「違う!」


 兄は壁へ背をつけた。


「私は、妹を殺すつもりなどなかった!」


「目的を聞いています」


「一晩だけだ!」


 兄の叫びに、ルチアの顔が強張った。


「一晩だけ……閉じ込めるつもりだった」


 兄は焼けた右手を押さえた。


「朝になれば、話せると思った」


「妹さんは、話し合いを望んでいません」


「分かっていなかっただけだ!」


「何を?」


「町が危険だということを! 礼拝堂には妹が必要だった! 私一人では、すべてを背負えなかった!」


 最後の言葉だけが、兄の本心に近かった。


「だから、外から扉を閉めた」


「出発を考え直させるためだ!」


「自由を奪っています」


「一晩だけだ!」


「火事は想定していなかった?」


「当たり前だ!」


 兄の目から涙が落ちた。


「油灯が残っているなど、知らなかった。朝になったら開けるつもりだった。妹と話して、町へ行くのをやめさせるつもりだった」


「火事に気づいたあとは?」


「東側へ走った」


 兄は自分の右手を見る。


「かけ金が熱くなっていた。触れた瞬間、手が焼けた。それでも開けた」


「妹さんは?」


「もう……扉まで来られなかった」


 兄の声が途切れる。


「炎が広がっていた。煙もひどかった。私は中へ入れなかった」


「助けを呼びましたか」


「……逃げた」


 老管理人が息を呑んだ。


「誰かに見られるのが怖かった。扉を閉めたことが知られると思った」


「それから火事が発見された」


「鐘が鳴った。私は……何も知らない顔で戻った」


 兄は、その場へ膝をついた。


「油灯を置いたのは、あの男だ」


 それでも、まだ老管理人を指した。


「私が扉を閉めても、火事が起きなければ妹は死ななかった」


「扉が開いていれば、逃げられました」


「だが、火を出したのは私ではない!」


「あなた一人の責任とは言っていません」


 私は答えた。


「老人には、油灯を管理する責任がある」


 老管理人が俯く。


「ですが、あなたには扉を閉めた責任がある」


「私は妹を守ろうとした!」


「違います」


「町へ行けば、妹は苦労した!」


「本人が選ぶことです」


「失敗すれば戻れなくなった!」


「あなたが決めることではありません」


「兄として止める必要があった!」


「必要ありません」


 私は兄を見た。


「妹さんは、助けを求めていません」


「妹には私が必要だった!」


「手紙には、逆のことが書かれています」


『兄さんにも、自分の力で生きてほしいと思っています』


『私がいなければ何もできないと、もう言わないでください』


「妹さんを必要としていたのは、あなたです」


「違う……」


「妹さんを守ったのではありません」


「違う!」


「置いていかれる自分を守った」


「私は妹を愛していた!」


「愛していたなら、何をしても許されるのですか」


 兄の涙が、床へ落ちる。


「私は……妹の無念を晴らそうとした」


「死者の言葉を作りました」


「私だけが、妹の苦しみを分かっていた!」


「妹さんの苦しみではありません」


 私は机の上の偽の手紙を見る。


「あなたの罪悪感です」


「違う……」


「老人に罪を認めさせれば、自分の罪が消えると思った」


「違う!」


「死者の名を使えば、誰も疑わないと思った」


「私は、妹の代わりに――」


 その瞬間。


 空気が止まった。


 礼拝堂の床が、黒く染まっていく。


 石の床ではない。


 底の見えない、静かな水面。


 兄の背後へ、一枚ずつ鏡が現れる。


 私の制服が、夜を織ったような黒いドレスへ変わっていく。


 兄の顔へ、白い仮面が重なった。


 悲しみに耐えながら、亡くなった妹のために声を上げる兄の顔。


 死者の思いを伝える、優しい代弁者の仮面。


「妹の代わりに語る」


 私は、白い仮面を見た。


「また、声を借りるのね」


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