第17話 借りられた声
「火事の夜」
私は兄を見た。
「あなたは、東側の扉に触れた」
「違う!」
兄の声が、礼拝堂へ響く。
大きな声だった。
だが、兄の目は私ではなく、焼けた扉へ向けられていた。
「もう一度、答えてください」
私は言った。
「扉へ触れましたか」
「触れていない」
「外から閉ざされていたことは?」
「知らない」
「では、最初の手紙を読んだ時、なぜ驚かなかったのですか」
「妹の手紙だと思ったからだ!」
「回答になっていません」
兄の顔が歪む。
「死んだ妹が、扉を閉ざされたと訴えた。驚くのが普通です」
「驚いた!」
「あなたは最初から、管理人が閉めたと決めつけた」
「油灯を残したのも、あの男だ!」
「別の問題です」
私は短く切った。
「火を残した者と、扉を閉めた者。同じとは限りません」
「同じだ!」
「根拠は?」
「妹が、そう書いている!」
兄は机に並べられた手紙を指さした。
『あなたが扉を閉ざしたことも』
『罪を認めてください』
私は手紙を見た。
「その手紙が偽物でも?」
兄の指が止まる。
「紙は、妹さんの死後に作られたものです」
ヴァルターが続けた。
「筆跡にも、書き写した跡がある。死者が書いたという説明は成立しない」
「誰かが妹の言葉を届けている!」
「なぜ、妹さんの言葉だと分かるのですか」
私が尋ねる。
「文字が同じだからだ!」
「文字だけです」
「何?」
「言葉は違います」
ルチアが、机の上の古い手紙を一通持ち上げた。
「妹さんの手紙を何通か読んだよ。怒っているものもあったし、困っているものもあった。でもね、誰かを追い詰めるような書き方はしていなかった」
「死ぬ前と、死んだあとでは違う!」
「それは、お兄さんが決めたことだよね?」
ルチアの声は柔らかい。
けれど、兄を見る目は真剣だった。
「妹さんは、もう否定できないよ。だからって、どんな言葉でも妹さんのものにしていいわけじゃないと思う」
「妹は苦しんだんだ!」
「そうかもしれないね」
ルチアは頷いた。
「怖かったと思う。苦しかったと思うよ。でも、誰を恨んだのか。どんな言葉を残したかったのか。それは私たちには分からないよ」
「管理人を恨んでいた!」
「本人から聞いたの?」
兄は答えなかった。
「聞けないよね」
ルチアは手紙を机へ戻した。
「だからこそ、勝手に決めたら駄目なんじゃないかな」
「きれいごとだ!」
兄は吐き捨てる。
「あの男は妹を殺した! それなのに、五年間も罪を認めなかった!」
老管理人が杖を床へ打ちつけた。
「私は扉を閉めていない!」
「油灯を残した!」
「消した!」
「お前の記憶など信用できるものか!」
「では、手紙は信用できるのですか」
私が言うと、兄が黙った。
「書いた者も不明。内容の根拠もない。紙は新しい。筆跡は模倣です」
「それでも、妹の思いは同じだ!」
「証明できません」
「家族の私には分かる!」
「妹さんの望みを、あなたは五年前にも無視しています」
兄の顔が強張った。
「妹さんは町へ行こうとした。あなたは止めた」
「礼拝堂のためだ!」
「妹さんは、そう考えていません」
「妹がいなければ、村人が困った!」
「代わりを探せます」
「簡単に言うな!」
「あなたは探しましたか」
兄が口を閉じる。
「読み書きのできる者を雇う。町へ通う日を決める。妹さんが戻る日だけ手伝ってもらう。方法はあります」
「金が必要だ!」
「妹さんの人生を使うより適切です」
兄の頬が引きつった。
「ミラ、言い方は少し硬いけど……でも、そうだよね」
ルチアが兄へ向き直る。
「困る人がいるなら、みんなで別の方法を探せたと思うよ。妹さん一人だけが残らなきゃいけない理由にはならないよね」
「お前たちには分からない」
兄は低い声を出した。
「妹がいなければ、この礼拝堂は成り立たなかった」
「礼拝堂ではありません」
私は断定した。
「あなたです」
兄の肩が動く。
「あなたは、妹さんがいなければ自分が成り立たなかった」
「違う」
「妹さんの手紙に書かれています」
『私がいなければ何もできないと、もう言わないでください』
「違う!」
「なら、何が違うのですか」
「私は妹を守っていた!」
「町へ行くことから?」
「悪い人間に騙されるかもしれない!」
「本人が選ぶことです」
「失敗したらどうする!」
「妹さんが責任を負います」
「傷ついたら!」
「それでも、本人の人生です」
「家族なら止めるのが当然だ!」
「意見を伝えることと、自由を奪うことは別です」
兄は拳を握った。
「私は奪っていない」
「確認します」
私は焼けた扉を示した。
「そのために、証拠が必要です」
◇
兄が使っている部屋は、妹の部屋から廊下を挟んだ向かい側にあった。
「私の部屋まで調べるのか」
「必要です」
「何を探す」
「手紙を書いた道具です」
「私が書いたと決めつけている!」
「決めていません」
私は扉の前に立った。
「拒否すれば、疑いは増えます」
「脅しているのか」
「説明しています」
同行していた証明官が兄へ告げる。
「調査を依頼したのはあなたです。手紙の出所を明らかにするため、室内を確認します」
兄はしばらく動かなかった。
やがて腰の鍵を取り出し、乱暴に扉を開けた。
「好きにしろ」
部屋は整えられていた。
寝台。
衣装棚。
本棚。
窓際の机。
机の上には、礼拝堂の記録と筆記具が並んでいる。
ヴァルターが手袋をつけた。
「机から確認する」
「私は紙を見ます」
私は答えた。
「じゃあ、私は本棚かな。妹さんの手紙を見本にしたなら、どこかにまとめてあるかもしれないよね」
ルチアが兄を見る。
「勝手に触らないから、そこは安心してね」
「安心などできるものか」
「うん。そうだよね。自分の部屋を調べられるのは嫌だと思うよ」
ルチアは少し困ったように笑った。
「でも、亡くなった妹さんの名前で誰かが手紙を書いてる。見つける必要があるよ」
兄は答えなかった。
私は机の端に積まれた白い紙を確認した。
光へかざす。
円の中に、三本の麦の穂。
「手紙と同じ紙です」
「礼拝堂で使う紙だ」
兄がすぐに答えた。
「私だけが持っているわけではない」
「その通りです」
これだけでは証拠にならない。
机の上には黒いインクもある。
礼拝堂で使われているものと同じだ。
これも兄だけが持つ物ではない。
「ミラ」
ルチアが本棚の前から呼んだ。
「この箱、妹さんの手紙じゃないかな」
木箱の中には、古い手紙が何十通も保存されていた。
兄宛てのものだけではない。
妹が村人の代わりに書いた手紙の下書きや、短い書き置きもある。
「私の物だ」
兄が言う。
「妹の形見だ。持っていて何が悪い」
「悪くありません」
私は箱の中を見る。
「筆跡の見本にはなります」
「それだけで私を疑うのか!」
「それだけでは不足です」
ヴァルターが机の引き出しを一つずつ確認していた。
一番下の引き出しには鍵がかかっている。
「鍵を」
「礼拝堂の金を保管している」
「証明官が確認します」
「必要ない!」
「必要です」
私と兄の声が重なった。
兄が私を睨む。
私は目を逸らさなかった。
「開けてください」
「断る」
「では、正式な手続きを取ります」
証明官が言った。
「令状を求め、部屋を封鎖します。それまで誰も入れません」
「大げさだ!」
「調査を妨げているのはあなたです」
ヴァルターの声は冷たかった。
「何もないなら、開ければ終わる」
兄は引き出しを見た。
その一瞬の視線だけで、何かを隠していると分かった。
「……金以外は入っていない」
兄は鍵を取り出した。
手がわずかに震えている。
鍵穴へ差し込み、回す。
引き出しの奥には、小さな金庫が入っていた。
その横に、薄い木の板がある。
表面には、黒いインクの跡と細い灰色の線が残っていた。
「これは?」
「手紙を書く時に、下へ敷く板だ」
「灰色の線があります」
私は板を光へ傾けた。
文字の形。
同じ字が何度も重なっている。
「紙を上へ置き、文字を写しています」
ヴァルターが板を確認する。
「強くなぞった跡が、板へ残った」
「礼拝堂の書類を写しただけだ!」
「どの書類ですか」
「覚えていない」
「では、照合します」
私は新しい手紙を一枚持ってきた。
板の上へ重ねる。
灰色の線と、手紙の文字が重なった。
『罪を認めてください』
同じ場所。
同じ大きさ。
同じ文字。
兄の顔から色が消えた。
「一致します」
私は紙を外した。
「この板の上で書かれています」
「誰かが私の部屋へ入った!」
「部屋には鍵がかかっていました」
「合鍵がある!」
「誰が持っていますか」
「知らない!」
「自分の部屋です。確認すべきです」
「私は書いていない!」
「まだあります」
ヴァルターが引き出しの奥へ手を入れた。
小さく丸められた紙が、金庫の裏に挟まっている。
広げると、途中まで書かれた手紙だった。
文字は妹の筆跡に似せてある。
だが、何度も書き直され、黒く汚れていた。
『あなたは私を炎の中へ残しました』
その下に、別の文章がある。
『兄さんだけが、私の声を聞いてくれました』
ルチアの表情が曇った。
「これは……誰に読ませるつもりだったのかな」
「知らない」
「妹さんに、お兄さんを褒めさせようとしたの?」
「違う!」
「でも、そう書いてあるよ」
「練習だ!」
兄は叫んだ。
次の瞬間、自分の言葉に気づき、動きを止めた。
礼拝堂の中が静まり返る。
「何の練習ですか」
私は尋ねた。
「……」
「答えてください」
「……手紙の」
「死者から届く手紙の?」
ルチアの声に、悲しさが混じった。
「妹さんの文字を練習してたんだね」
「違う……」
「今、自分で言ったよ」
「私は……」
兄は机へ手をついた。
立っていることが難しいように見えた。
老管理人が、部屋の入口から兄を見ている。
「お前だったのか」
老人の声が震えた。
「お前が、あの手紙を……」
「黙れ!」
「死人の名を使って、私を追い詰めたのか!」
「お前が罪を認めないからだ!」
兄が振り返る。
「お前が油灯を残した! お前が妹を殺した! それなのに、何も覚えていないふりをして逃げ続けた!」
「扉は閉めていない!」
「同じことだ!」
「同じではありません」
私は兄を見た。
「火を残した責任と、扉を閉ざした責任は別です」
「火がなければ、妹は死ななかった!」
「扉が開いていれば、逃げられました」
兄の唇が震える。
「手紙を書いた目的は?」
「……管理人に思い出させるためだ」
「何を?」
「自分の罪を!」
「老人は、油灯を置いたことを否定していません」
「消していない!」
「証明されていません」
「妹が死んだ!」
「答えてください」
私は一歩近づいた。
「あなたは、何を認めさせたかったのですか」
「管理人が妹を殺したと!」
「なぜ必要ですか」
「真実だからだ!」
「違います」
私は断定した。
「あなたが必要とした答えです」
「同じだ!」
「違います」
机の上には、妹の文字を写すための板。
失敗した手紙。
死者に自分を褒めさせる文章。
「あなたは真実を調べていません」
「調べた!」
「最初から、犯人を決めていました」
「管理人しかいない!」
「あなたもいました」
兄が息を止める。
「火事の前夜。妹さんは町へ行こうとしていた」
「……」
「東側の扉は、外から閉ざされていた」
「……」
「火事のあと、誰かが扉を開けた」
「……」
「あなたは五年前から、その事実を知っていた」
「知らない」
「手紙を書いたのは?」
長い沈黙が落ちた。
兄は、机の上の失敗した手紙を見つめた。
やがて、掠れた声を出す。
「……私だ」
老管理人が杖を握る手へ力を込めた。
「私が書いた」
兄は顔を上げる。
その目には涙が浮かんでいた。
「だが、嘘ではない」
「偽造した手紙です」
「文字を借りただけだ!」
「言葉も、あなたのものです」
「妹の思いを、私が代わりに伝えた!」
「違います」
私は短く告げた。
「あなたは妹さんの声を借りた」
兄の涙が頬を伝う。
「自分の望む犯人を作るために」
「私は妹のために――」
「まだ、妹さんの名を使うのですか」
兄の声が止まった。
偽の手紙を書いたことは認めた。
だが、火事の夜については、まだ語っていない。
なぜ扉が閉ざされていたのか。
誰が火事のあとに開けたのか。
そして、なぜ兄は五年前から、その事実を知っていたのか。
死者の声を借りた男は。
まだ、自分の罪だけを語ろうとしなかった。




