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第16話 閉ざされた扉



「妹は私を置いていかない!」


 兄の声が、礼拝堂の天井へ響いた。


 誰もすぐには言葉を返さなかった。


 兄自身も、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。


 唇を閉じ、机の上に置かれた古い手紙から目を逸らす。


『明日には町へ向かいます。私は、自分で選んだ道を歩きたいのです』


 亡くなった妹が、五年前に書いた言葉。


「町へ行く予定を知っていましたね」


 私は兄を見た。


「……知っていました」


「なぜ、先ほどまで黙っていたのですか」


「事件には関係がない」


「判断するのはあなたではありません」


 兄の眉が動いた。


「妹は、町で仕事を探していただけです。礼拝堂を捨てるつもりではなかった」


「どんな仕事ですか」


「手紙を書く仕事です。町には、読み書きのできない者の代わりに書類や手紙を書く場所がある」


「採用は決まっていましたか」


「分かりません」


「手紙には『明日には町へ向かう』とあります」


「見学へ行くだけだった!」


 兄の声が再び強くなる。


「妹は戻るつもりだった。ここには妹を必要とする者が大勢いた。村人も、礼拝堂も、私も……」


「最後だけ、意味が違います」


「何?」


「村人は、妹さんの仕事を必要としていた」


 私は手紙を指した。


「あなたは、妹さん本人を必要としていた」


「家族なら当然だ!」


「当然ではありません」


 兄の顔が硬くなる。


 ルチアが、私と兄の間へ視線を動かした。


「妹さんが町へ行くことは、お兄さんを捨てることと同じじゃないよね」


「君に何が分かる」


「分からないよ。だから聞いてるの」


 ルチアの声は柔らかかった。


「妹さんは、町へ行っても村へ戻れたんじゃないかな。手紙だって書けるよね。それでも、どうしてそこまで嫌だったの?」


「嫌だったとは言っていない」


「でも、今『置いていかない』って言ったよ」


「言葉の間違いだ」


「そうかな」


 ルチアは机の上の手紙を見る。


「人って、本当に隠したいことほど、ふとした時に口から出るんじゃない?」


「感想は必要ない」


 ヴァルターが古い手紙を証拠袋へ入れた。


「今、必要なのは記録だ。妹が町へ行こうとしていた事実を、ほかの資料でも確認する」


 兄がヴァルターを睨む。


「私を犯人だと思っているのか」


「まだ判断していない」


「では、なぜ私ばかり調べる!」


「あなたが、質問へ正確に答えないからだ」


 ヴァルターは表情を変えなかった。


「隠すほど、確認する項目は増える」


 兄は何も言えなくなった。


「妹さんの部屋を確認します」


 私が告げると、兄の顔が強張った。


「必要ありません」


「必要です」


「あの部屋は、火事のあとから誰も使っていない」


「なら、当時の物が残っています」


「妹の物を荒らすつもりですか」


「壊しません。記録します」


「認めない」


「拒否する理由は?」


「家族の物だからだ!」


「妹さんの死に関わる事件です」


 私は兄から目を逸らさなかった。


「拒否は認められません」


 同行していた証明官が前へ出た。


「正式な捜索ではありません。ですが、あなたが学院へ調査を依頼した以上、必要な場所を見せてもらいます」


「しかし……」


「見られて困る物があるのですか」


 兄は答えなかった。


          ◇


 妹の部屋は、礼拝堂の奥にある小さな居住区にあった。


 兄が鍵を開ける。


 扉が動くと、長く閉じられていた空気が廊下へ流れた。


「本当に、五年間誰も使っていないの?」


 ルチアが部屋を見回す。


「掃除だけはしています」


 兄が答えた。


 小さな寝台。


 木製の机。


 本が並んだ棚。


 窓際には、乾いた花が飾られている。


 埃は少ない。


 亡くなった者の部屋というより、持ち主が戻ってくるのを待っている部屋に見えた。


「物の位置は変えましたか」


「掃除の時に少し動かしただけです」


「何を動かしましたか」


「覚えていません」


「記録は?」


「掃除に記録など必要ない」


「今後は、触れないでください」


 私は手袋をつけた。


「何か見つけても、先に動かさないで」


 ルチアが兄へ言う。


「つらいかもしれないけど、今はその方が妹さんのためになると思うよ」


 兄は返事をしなかった。


 ヴァルターは机を調べる。


 私は棚と寝台の周囲を確認する。


 ルチアは、部屋に置かれた物を一つずつ眺めていた。


「ミラ」


「何ですか」


「これ、旅に使う鞄じゃないかな」


 寝台の下から、革製の鞄が見つかった。


 兄の表情が変わる。


「それは昔から置いてあった」


「中を確認します」


「待て!」


 兄が手を伸ばす。


 証明官が、その腕を止めた。


「触れないでください」


「ただの衣服だ!」


「まだ開けていません」


 兄は自分の言葉の間違いに気づき、顔を伏せた。


 私は鞄の金具を外した。


 中には、折りたたまれた衣服が二着。


 小さな財布。


 筆記具。


 乾燥させた食べ物。


 そして、町までの道を書いた簡単な地図が入っていた。


「出発の準備は終わっていました」


 ヴァルターが言う。


「見学だけではない」


「一晩泊まるだけです」


 兄が言い返す。


「着替えが二着あります」


「汚れた時のためだ!」


「財布の中に金貨があります」


 私は中身を確認した。


「宿へ数日泊まれる額です」


「妹が自分で貯めた金だ」


「否定していません」


 鞄の底に、折りたたまれた紙があった。


 宛名は書かれていない。


 けれど、一行目を見れば、誰へ向けたものか分かった。


『兄さんへ』


 兄が息を止める。


「読むな」


「確認します」


「それは私への手紙だ!」


「事件当日に書かれた可能性があります」


 私は紙を開いた。


 今まで見た古い手紙と同じ筆跡だった。


『直接話せば、また止められると思いました。ですから、手紙を残します』


『私は明日の朝、町へ向かいます』


『仕事が決まれば、しばらく町で暮らすつもりです』


『礼拝堂を嫌いになったわけではありません』


『兄さんを見捨てるわけでもありません』


 そこまで読んだ時、兄が小さく首を振った。


「見捨てないと書いてある」


「続きがあります」


『けれど、兄さんに必要とされることだけを、私の生きる理由にはできません』


 部屋の中から、音が消えた。


 ルチアが悲しそうに手紙を見る。


 ヴァルターも何も言わない。


 私は続きを読んだ。


『私は、私が選んだ場所で生きたいのです』


『兄さんにも、自分の力で生きてほしいと思っています』


『私がいなければ何もできないと、もう言わないでください』


 手紙は、そこで終わっていた。


 最後に名前はない。


 折りたたまれたまま、鞄の底へ置かれていた。


 妹は、この手紙を兄へ渡す前に亡くなった。


「妹さんは、戻るつもりだった」


 兄が掠れた声を出す。


「見捨てるわけではないと書いてある」


「そこだけを読むのですか」


「何?」


「妹さんは、自分で選んだ場所で生きたかった」


 私は手紙を証拠板へ置いた。


「あなたは、その言葉を読もうとしない」


「妹は私を心配していた!」


「心配と服従は別です」


 兄の顔が歪む。


「服従など求めていない!」


「なら、なぜ止めたのですか」


「止めていない!」


「妹さんは『また止められる』と書いています」


「話し合っただけだ!」


「以前にも止めています」


「家族なら、話し合うのは当然だ!」


「妹さんは話し合いだと思っていません」


「死人の手紙だけで、私を責めるのか!」


「責めていません」


 私は短く答えた。


「事実を確認しています」


 兄は何度も息を吸った。


 だが、次の言葉は出なかった。


          ◇


 ルチアは村へ下り、妹を知る人から話を聞くことになった。


 私とヴァルターは、五年前の火災現場を確認する。


 東側の扉は、火事のあとに新しい物へ替えられていた。


 古い扉は、礼拝堂の裏にある物置へ残されている。


「捨てなかったのですか」


 私が尋ねると、老管理人が答えた。


「私は、あの扉が閉ざされていたと言い続けた」


 老人は物置の鍵を開ける。


「調査が終わっても捨てるなと頼んだ。いつか、誰かがもう一度調べてくれると思った」


 物置の奥。


 壁へ立てかけられた黒い木の板があった。


 半分近く焼けている。


 これが、東側の扉だった。


 内側には、取っ手の周囲へ無数の傷が残っている。


 亡くなった女性が、開けようとした跡と判断された部分だ。


 外側には、鉄製のかけ金が付いている。


 扉を閉め、鉄の棒を横へ動かす。


 それだけで、外から開かないようにできる簡単な作りだった。


「内側から開けられないのですか」


 ヴァルターが尋ねる。


「風の強い日だけ使うかけ金だった」


 老管理人が答える。


「人が中にいる時は使わない」


「火事のあと、かけ金は?」


「開いていた」


「なら、施錠されていた証拠はありません」


 ヴァルターがかけ金を調べる。


 私は扉の表面を見た。


 全体が煙で黒くなっている。


 だが、かけ金の下だけ、細長く色が薄い。


「ヴァルター」


「何だ」


「ここです」


 私は鉄の棒を、扉を閉ざす位置へ動かした。


 色の薄い部分と、鉄の棒の形が重なる。


 ヴァルターが目を細める。


「火災の最中、鉄の棒はこの位置にあった」


「はい」


 鉄の棒に隠れていた部分だけ、煙を受けていない。


 火事のあとにかけ金が開いていたとしても。


 炎と煙が扉を包んだ時には、閉じられていた。


「東側の扉は、外から閉ざされていました」


 老管理人が、その場に座り込んだ。


「言っただろう……」


 震える手で顔を覆う。


「私は、ずっと言っていた」


「まだ、あなたが閉めていない証明にはなりません」


 ヴァルターが言う。


 老人が顔を上げる。


「分かっている」


 怒りはなかった。


「だが、あの子が扉を開けられなかったことは証明できる」


「はい」


 私はかけ金を見る。


「問題は、誰が火事のあとに開けたかです」


 ヴァルターが五年前の記録を開いた。


「火事を最初に発見したのは、近所の住民」


「正面の窓から煙を見た」


 老管理人が答える。


「鐘を鳴らし、村人を集めた」


「東側の扉を開けた者は?」


「記録には『発見時には開いていた』としか書かれていない」


「誰も開けたところを見ていません」


「そうなる」


 かけ金を閉じた者は。


 火事が起きたあと、誰にも見られず開けている。


 閉じたままなら、自分の行為が発覚するからだ。


「兄の当時の証言は?」


 私が尋ねる。


 ヴァルターが記録をめくった。


「火事の知らせを受け、自宅から駆けつけた。到着した時には村人が消火を始めていた」


「東側の扉には触れていない?」


「そう記録されている」


 私は扉の外側を見る。


 鉄のかけ金の端に、黒い汚れとは違う傷がある。


 何度も強く動かしたような、深い削れ。


「この扉を、礼拝堂へ運びます」


「なぜだ」


 老管理人が尋ねる。


「兄へ確認します」


          ◇


 礼拝堂へ戻ると、ルチアも村から帰ってきていた。


「ミラ。妹さんのこと、いろいろ聞けたよ」


「話してください」


「町で仕事をすることは、かなり前から考えていたみたい。村の人にも、少しずつ相談してたんだって」


「兄は知っていましたか」


「知ってたと思う」


 ルチアの顔から、いつもの明るさが消えている。


「一度、出発しようとしたこともあったみたい。でも、その朝になって旅の鞄がなくなったんだって」


「誰が隠したのですか」


「妹さんは言わなかった。ただ、お兄さんと大きな言い争いをしたって」


 兄は礼拝堂の奥に立っていた。


 運び込まれた焼けた扉を見ると、足を止めた。


「なぜ、それを持ってきた」


「確認するためです」


 私は扉のかけ金を閉じた。


「火事の最中、この位置にありました」


 兄の視線が、煙を受けていない細い跡へ向く。


「東側の扉は、外から閉ざされていました」


「管理人が閉めたんだ」


「老人は否定しています」


「嘘だ!」


「あなたも否定しています」


 兄の口が止まる。


「否定だけでは不足です」


「私は触っていない」


「五年前の証言でも、そう答えています」


「なら、何が問題だ!」


「かけ金は、火事のあとに開けられています」


 私は鉄の棒から手を離した。


「閉めた者が、開けました」


「管理人だ!」


「老人が戻った記録はありません」


「記録が間違っている!」


「可能性はあります」


 私は兄の目を見る。


「では、あなたは?」


「何?」


「火事の夜。東側の扉へ近づいていませんか」


「近づいていない!」


「断定できますか」


「できる!」


「五年前の記憶です」


「忘れるものか!」


「先ほど、妹さんが町へ行く予定を隠しました」


「それとこれは関係ない!」


「以前、旅の鞄が消えています」


 兄の顔が固まる。


「妹さんは、あなたと争った」


「村人の曖昧な記憶だ」


「妹さんは、再び町へ行こうとした」


「だから何だ!」


「火事は、その前夜に起きた」


 兄の呼吸が荒くなる。


「偶然だ」


「その可能性はあります」


 私は焼けた扉を示した。


「ですが、扉は偶然には閉まりません」


「私ではない」


「では、答えてください」


 兄が後ろへ一歩下がる。


「火事が起きた時、東側の扉が閉ざされていると、なぜ知っていたのですか」


「私は……知らない」


「知っていました」


「知らない!」


「最初の手紙を読んだ時、あなたは驚かなかった」


 兄の目が大きく開いた。


「手紙には『あなたが扉を閉ざした』と書かれていた」


 私は一歩近づく。


「五年前の調査では、扉が閉ざされていたとは証明されていません」


「それは……」


「それでも、あなたは内容を疑わなかった」


「妹の文字だったからだ!」


「違います」


 私は断定した。


「あなたは、扉が閉ざされていたと知っていた」


「違う……」


「火事の夜」


 兄は首を振る。


「あなたは、東側の扉に触れた」


「違う!」


 声は大きかった。


 だが、私の目を見ていなかった。


 焼けた扉の前で。


 兄は、外から閉ざすための鉄のかけ金だけを見つめていた。


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