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第15話 鳴らされた鐘



「誰も動かないでください」


 私は告解箱の前へ立った。


 白い手紙は、証明官が持つ証拠板の上に置かれている。


 兄も、老管理人も、ルチアも、ヴァルターも。


 鐘が鳴っている間、全員が礼拝堂の中にいた。


 それでも手紙は現れた。


「手紙へ触れた者は?」


「証明官だけだ」


 ヴァルターが答える。


「兄は触れかけました。ですが、止めました」


「うん。そこは私も見てたよ」


 ルチアが告解箱を覗き込む。


「でも、本当に不思議だね。さっきまでは何もなかったんでしょ?」


「確認したのは内部の構造です」


 私は床へ視線を落とした。


「内部が空だったとは、確認していません」


 ルチアが瞬きをする。


「どういうこと?」


「腰掛けの下です。格子の裏。天井部分。死角があります」


「誰かが最初から隠れていたと?」


 兄が青ざめた顔で尋ねる。


「人間は無理です」


「では、手紙を隠していた?」


「可能性はあります」


 私は告解箱の扉へ近づいた。


「ですが、今は開けません」


「なぜだ」


 老管理人が掠れた声を出す。


「手紙が置かれた方法を先に確認します。内部へ入れば、痕跡を壊します」


「……死んだ者の仕業ではないのか」


「必要ありません」


 老人が眉を寄せた。


「何がだ」


「死者を仮定する必要です」


 私は告解箱を見た。


「仕掛けがあります。探します」


 ルチアが小さく笑った。


「ミラ、本当に幽霊へ容赦がないね」


「幽霊は調査対象ではありません」


「まだ見つかってないだけかもしれないよ?」


「見つかれば確認します」


「やっぱり事情聴取するつもりなんだ」


「話せるなら必要です」


 ルチアは困ったように笑った。


 ヴァルターが告解箱の周囲へ白い糸を張り、証拠保全の範囲を示す。


「雑談は後にしろ。まず鐘楼だ」


「そうだね。誰もいないのに鳴ったのも変だよね」


「鐘は自然に鳴らない」


 私は天井を見上げた。


「誰かが鳴らしました」


          ◇


 鐘楼へ続く階段は、礼拝堂の奥にあった。


 人一人が通れる程度の、細い螺旋階段。


 扉には鍵がかかっていない。


「鐘を鳴らす時以外は、閉めているだけです」


 兄が説明した。


「施錠はしないのですか」


「村の子供が入らないよう、普段は入口の扉を閉めています。ですが、鍵までは……」


「誰でも入れるということですね」


 ヴァルターが記録する。


「礼拝堂へ入れれば、ですが」


 兄は付け加えた。


「礼拝堂の鍵を持つ者は限られています」


「限られているだけです。二人ではありません」


 兄の顔が固くなる。


「何が言いたいのです」


「まだ何も」


 私は階段を上った。


「確認します」


 鐘楼には、大きな鐘が一つ吊られていた。


 鐘から伸びた太い縄が、床近くまで垂れている。


 普通なら、この縄を引いて鐘を鳴らす。


「誰かが隠れられる場所はないね」


 ルチアが周囲を見回す。


 鐘楼は狭い。


 壁際には古い木箱が一つあるだけ。


 窓には鉄格子がはめられている。


 外から入るのは難しい。


「縄に触れないでください」


 ヴァルターがしゃがみ込んだ。


「床に蝋が落ちている」


 縄の真下から少し離れた場所。


 石床へ、白い蝋が数滴こびりついていた。


 私は近づく。


「新しいです」


「なぜ分かる」


 老管理人が尋ねる。


「埃が積もっていません」


「蝋燭なら、礼拝堂のどこにでもあるでしょう」


「鐘楼で使う理由がありません」


 ヴァルターが周囲を調べる。


「それだけではない。ここに繊維がある」


 床に落ちていたのは、短く切れた細い麻紐だった。


 端が黒く焦げている。


 ルチアが蝋と紐を交互に見る。


「蝋燭の火で、紐を焼き切ったのかな?」


「可能性は高い」


「でも、紐が切れただけで鐘が鳴る?」


「重りを使えば鳴ります」


 私は木箱を見た。


 蓋が少しだけ開いている。


 ヴァルターが手袋をつけ、ゆっくりと開いた。


 中には、工具と予備の縄が入っている。


 その下に、小さな砂袋があった。


「これですね」


 砂袋の口には、麻紐の切れ端が結ばれている。


 同じ色。


 同じ太さ。


 ヴァルターが鐘の縄を調べる。


 縄の途中には、何かを結びつけた跡が残っていた。


「鐘の縄へ砂袋を吊るす。別の紐で高い位置へ固定する」


 ヴァルターが説明する。


「紐の下へ蝋燭を置く。火が紐を焼き切れば、砂袋が落ちる。その重さで縄が引かれ、鐘が鳴る」


「一度だけではありません」


 私は鐘の縁を見る。


「五回鳴りました」


「砂袋が落ちたあと、縄が揺れたんだろう」


 ヴァルターは頷いた。


「重りが上下し、そのたびに鐘が鳴った」


 ルチアが蝋の量を見る。


「じゃあ、蝋燭の長さを調整すれば、鳴る時間も決められるんだね」


「正確ではない」


「でも、夕方くらいなら狙えるんじゃない?」


「可能だ」


 兄が鐘楼の入口で立ち尽くしていた。


「そんな仕掛けが……」


「見覚えはありませんか」


「ありません」


「砂袋は?」


「鐘楼に置いてある物です。鐘の縄を張り直す時に使います」


「麻紐も?」


「礼拝堂で使っている物です」


「蝋燭もですね」


 兄は答えなかった。


 すべて礼拝堂の中で手に入る。


 特別な道具は必要ない。


 仕掛けた者は、鐘楼へ入ることができた。


 そして、夕刻まで誰にも見つからない時間を持っていた。


「これで、鐘は説明できます」


 私は階段へ向かう。


「次は手紙です」


          ◇


 告解箱の周囲は、先ほどのまま保存されていた。


 私は通気口の前へしゃがむ。


 指二本ほどの細い穴。


 そのままでは、広げた紙は通らない。


 だが、折る必要はない。


「紙を巻けば通ります」


 ヴァルターが言った。


「巻いた跡が残る」


「紙の種類によります」


 私は古い未使用の紙を一枚借りた。


 細く巻き、通気口へ差し込む。


 途中でつかえる。


「奥で曲がっています」


「さっき見た時もそうだったね」


 ルチアが横へ座る。


「棒を使えば押せるかな?」


「必要です」


 私は通気口の縁に残っていた埃を、証拠板へ移した。


 灰色の埃の中に、細い黄色の繊維が混ざっている。


「植物ですね」


 ヴァルターが拡大鏡を覗く。


あしか、細い竹に見える」


 兄が口を挟んだ。


「この周辺に竹はありません」


「葦ならありますか」


 ルチアが尋ねる。


「丘の下に小川があります。岸に多く生えています」


「細い棒として使えそうだね」


 私は通気口へ灯りを向ける。


 内部は途中から下へ傾き、告解箱の背面へ続いている。


「紙を細く巻く。葦の棒で押す。内部へ落とす」


「でも、手紙は開いた状態だったよ」


 ルチアが首を傾げる。


「巻いた紙なら、丸まったままじゃない?」


「紙には反発があります」


 ヴァルターが新しい紙を細く巻いた。


 しばらく押さえたあと、手を離す。


 紙は完全には戻らない。


 だが、緩やかに開いた。


「短時間なら、ほぼ平らに戻る」


「通気口の傾きも利用できます」


 私は告解箱の背面を見る。


「出口は腰掛けの上です。紙は滑り落ちます」


「文字を外側へ向けて巻けば、開いた時に上を向く可能性が高い」


 ヴァルターが続けた。


「毎回、同じ位置へ置けるとは限らないがな」


「兄は位置を正確に覚えていません」


「そうだったね」


 ルチアが兄を見る。


「最初は、毎回中央に置いてあったって言ってたけど。向きまでは覚えてないんだよね?」


「……はい」


「本当に中央だったのかな?」


「何を疑っているのです」


「疑ってるんじゃないよ」


 ルチアの声は柔らかい。


 だが、兄から目を逸らさなかった。


「驚いた時の記憶って、あとから少しきれいになることがあるから。毎回同じ場所だったと思い込んだだけかもしれないよね」


 兄はしばらく黙った。


「正確には……覚えていません」


「それで十分です」


 私は立ち上がった。


「手紙は通気口から入れられます」


 老管理人が告解箱を見つめる。


「では、幽霊ではないのか」


「違います」


「まだ決めつけるのは早いんじゃない?」


 ルチアが私を見る。


「死者が葦の棒を使った可能性はありません」


「そこまで具体的に言われると、確かに無理そうだね」


 ヴァルターが新しい手紙の表面を調べている。


「紙の端に、細い擦過さっか痕がある」


 通気口の石へ擦れた跡。


 さらに紙の裏面には、ごく小さな黄色い繊維が付着していた。


 葦の繊維。


 仕掛けは成立する。


 鐘が鳴っている間、全員が礼拝堂にいた。


 それは犯人にとって不利な事実ではない。


 むしろ、全員が同じ場所にいることを利用した。


 鐘へ視線を向けさせる。


 その間に、事前に通気口へ仕込んでおいた紙が、告解箱の中へ落ちる。


 あるいは、鐘楼へ向かう前に、誰かが廊下側から押し込んだ。


「仕掛けた時刻は特定できません」


 私は言った。


「ですが、手紙は人間が置きました」


「誰が」


 兄が問い詰めるように言う。


「まだ不明です」


「管理人ではないのか!」


「老人は、鐘が鳴る直前に来ました」


「先に仕掛けた可能性がある!」


「可能性はあります」


 老管理人の顔が歪む。


「また私を疑うのか」


「全員を疑います」


「ミラ、それだとちょっと怖いよ」


 ルチアが困ったように口を挟む。


「でも、今は誰か一人に決める段階じゃないよね。おじいさんだけじゃなくて、礼拝堂へ入れた人を全員調べないと」


「そういうことです」


「言い方の問題なんだけどなあ」


 ルチアは小さく息を吐いた。


          ◇


 日が沈む前に、礼拝堂の帳簿と備品記録を確認することになった。


 ヴァルターは紙の透かしを調べる。


 私は通気口と鐘楼の痕跡を記録する。


 ルチアは、兄と老管理人から別々に話を聞いた。


 一刻ほど経った頃。


 ルチアが私の隣へ戻ってきた。


「ミラ。少し気になることがあるよ」


「何ですか」


「亡くなった妹さんは、どんな人だったのか聞いてみたの」


「事件当夜の行動ではなく?」


「それも大事だけど、手紙を書いた人なんでしょう? だったら、普段どんな言葉を使う人だったかも必要じゃないかな」


 正しい。


 筆跡だけではなく、文章にも癖が残る。


「何が分かりましたか」


「村の人の代わりに手紙を書いていた。困っている人を放っておけない。怒る時も、大きな声は出さなかったみたい」


「兄の証言ですか」


「最初はね。でも、おじいさんも同じことを言ってたよ」


 ルチアは机に並んだ三通の手紙を見る。


「この人、本当にこんなふうに書くかな」


『罪を認めてください』


『私の声を、聞かなかったことにしないで』


『あなたが罪を認めるまで、手紙を送り続けます』


 強い言葉。


 責める言葉。


 追い詰める言葉。


「死ぬ前と、死んだあとでは感情が違うと考える者もいます」


「うん。でも、それは手紙を書いた人の都合のいい考え方じゃない?」


 ルチアの声が少しだけ低くなった。


「亡くなった人は、もう『私はそんな言い方をしない』って訂正できないよ」


 私は手紙を見た。


 筆跡は似ている。


 だが、そこに書かれた言葉まで、本人のものとは限らない。


「文章を比較します」


「私も手伝うよ。昔の手紙を読めば、その人らしい言葉が分かるかもしれないね」


 その時、ヴァルターが奥の机から立ち上がった。


「二人とも来い」


 机には、新旧二種類の紙が置かれている。


 新しい手紙には、円の中に三本の麦を描いた透かし。


 亡くなった女性が生前に使っていた紙には、透かしがない。


「製紙工房の印でしたか」


「ああ。納入記録が残っていた」


 ヴァルターは礼拝堂の備品帳を開いた。


「この印が入った紙を、礼拝堂が初めて購入したのは二年前だ」


 女性が亡くなったのは五年前。


「生前に書き残した手紙ではありません」


「当然だ」


「現在の紙へ、誰かが筆跡を模倣しました」


 兄が近づいてくる。


「紙が新しくても、妹が書いた可能性は――」


「ありません」


 私は遮った。


「亡くなった人間は、死後三年目に作られた紙へ文字を書けません」


 兄の唇が止まる。


 ルチアが手紙を見つめた。


「じゃあ、誰かが妹さんの古い手紙を見ながら書いたんだね」


「筆跡を確認します」


 ヴァルターは古い手紙と新しい手紙を並べた。


「形は酷似している。だが、完全に同じではない」


「どこですか」


「文字の速さだ」


 彼は一つの文字を指した。


 亡くなった女性の文字は、縦線から横線へ自然につながっている。


 新しい手紙では、途中に小さなインク溜まりがあった。


 一度、筆が止まっている。


 形を確かめながら、ゆっくり書いた跡。


「これも」


 別の文字には、薄い下書きの跡が残っていた。


 灰色の線をなぞるように、黒いインクが重ねられている。


「筆跡を知っているだけでは不十分です」


 私は言った。


「見本を持つ者です」


 兄の顔が、わずかに動いた。


 彼は亡くなった妹の古い手紙を保管している。


 だが、それだけでは犯人とは言えない。


 妹が代筆した手紙は、村の多くの家に残っている。


 見本を持つ人間は、兄だけではない。


「もう一つある」


 ヴァルターは三通目の文章を指した。


『今夜も、私はここにいます』


「この言い回しを、古い手紙の中で見つけた」


 彼が一通の手紙を開く。


 亡くなった女性が、兄へ宛てて書いたものだった。


『心配しないでください。今夜も、私はここにいます』


 新しい手紙と同じ文章。


 ただし、続きが違う。


 古い手紙には、こう書かれていた。


『明日には町へ向かいます。私は、自分で選んだ道を歩きたいのです』


 兄の顔から、血の気が引いた。


「妹さんは、町へ行く予定だったんだね」


 ルチアが静かに尋ねる。


「……違う」


「手紙には、そう書いてあるよ」


「一時的なものです。妹は戻るつもりだった」


「本人が、そう言ったのですか」


 私が尋ねる。


「家族なら分かる!」


「回答になっていません」


「妹は私を置いていかない!」


 兄の声が、礼拝堂へ響いた。


 その場にいた全員が黙る。


 兄は、自分が何を言ったのか気づいたように口を閉じた。


 私は古い手紙を見る。


 明日には町へ向かう。


 自分で選んだ道を歩きたい。


 火事が起きたのは、その手紙が書かれた夜だった。


「五年前の火事について、確認することが増えました」


 私は兄を見た。


「亡くなった妹さんは、なぜ町へ行こうとしたのですか」


 兄は答えなかった。


 その沈黙だけが。


 死者の文字よりも、はっきりと何かを語っていた。


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