第14話 死者からの手紙
食堂へ行く予定は、なくなった。
「現地へ向かうのは、クゼ、メルティア、シグナスの三名だ」
担当教官が告げると、教室の視線が一斉にこちらへ向いた。
ルチアは驚いた顔で自分を指さした。
「私もですか?」
「不満か?」
「いえ。てっきり、昼ご飯を食べてからだと思っていました」
「馬車の中で食べろ」
「準備がいいですね」
教官が差し出した包みを、ルチアは素直に受け取った。
ヴァルターはすでに鞄へ記録帳と筆記具を入れている。
「正式な事件ではないと聞きました」
「今のところはな」
「では、私たちの立場は?」
「学院から派遣される調査補助員だ。現場では、同行する証明官の指示に従え」
「分かりました」
ヴァルターが短く答えた。
私は掲示板の依頼書を見上げる。
五年前に亡くなった女性。
毎晩、告解箱から見つかる手紙。
死者しか知らないはずのこと。
そして、炎の中へ置き去りにした者へ向けられた告発。
「出発は?」
「十分後だ」
ルチアが手の中の包みを見る。
「食べる時間、ほとんどないですね」
「だから馬車の中で食べろと言った」
「ミラ、一緒に食べよう」
「車内で物を食べると、記録帳が汚れます」
「記録帳と昼ご飯なら、昼ご飯を守った方がいいよ」
「比較するものではありません」
「今のところは、私もメルティアに同意する」
ヴァルターが鞄を閉じた。
意外だった。
「食事を抜けば集中力が落ちる。調査へ影響する」
「ほら」
ルチアが得意そうに胸を張る。
「ヴァルターもこう言ってる」
「君に同意したのではない。調査効率の話をしただけだ」
「同じようなものじゃない?」
「違う」
二人のやり取りを聞きながら、私は報告書を鞄へしまった。
次に開く時には、また別の事件について書くことになるのかもしれない。
◇
郊外へ向かう馬車の中で、ルチアは三人分の昼食を広げた。
硬めのパンに、薄切りの肉と葉野菜が挟まれている。
「どうして三人分あるのですか」
「教官が用意してくれたから」
「そうではありません。なぜ、あなたが三人分すべて持っているのですか」
「ヴァルターが受け取らなかったから」
「自分の分は自分で管理できる」
向かいへ座ったヴァルターが言う。
「そう言って、置いていこうとしたよね」
「忘れたわけではない。不要だと判断した」
「さっき、食事を抜くと集中力が落ちるって言ったのは誰?」
ヴァルターは答えなかった。
ルチアが一つを差し出すと、彼は少し迷ってから受け取った。
「借りたわけではない」
「うん。お昼ご飯だよ」
「分かっている」
私は窓の外へ目を向けた。
王都の建物が少しずつ減り、街道の両側へ畑が広がっていく。
空は晴れていた。
幽霊が現れるには、明るすぎる日だった。
「ミラは、死者が手紙を書くと思う?」
ルチアが尋ねる。
「思いません」
「即答だね」
「亡くなった人間には、紙へ文字を書くことができません」
「夢がないなあ」
「調査に夢は必要ありません」
「では、誰かが死者を装っている」
ヴァルターがパンを口へ運びながら言った。
「筆跡が酷似しているというだけなら、模倣は可能だ」
「家族しか知らない秘密も書かれているらしいよ」
「それなら、家族が書いた可能性が上がる」
「ヴァルターも夢がないね」
「証務学院の学生に、何を求めている」
ルチアは私とヴァルターを交互に見た。
「この二人と一緒にいると、幽霊の方が逃げそう」
「姿を確認できれば、調査対象にはします」
「捕まえるつもり?」
「話を聞けるなら」
「ミラは幽霊にも事情聴取しそうだね」
冗談なのだろう。
けれど、死者が本当に話せるのなら。
何を見たのか。
誰が扉を閉めたのか。
聞くべきことはいくつもある。
ただ、死者は語らない。
だから生きている者が残した証拠から、その声を探すしかない。
◇
礼拝堂は、小高い丘の上に建っていた。
白い石造りの外壁。
細い鐘楼。
正面の大扉には、長い年月を過ごした木の亀裂が走っている。
古いが、荒れてはいない。
窓は磨かれ、入口の周囲には季節の花が植えられていた。
ただ、建物の東側だけは違う。
壁の一部が黒ずんでいる。
石を洗っても消えなかった、火災の痕跡だろう。
「五年前の火事は、あちらですか」
私が尋ねると、同行した証明官が頷いた。
「記録室から出火した。亡くなった女性も、その中で発見されている」
「出火原因は?」
ヴァルターが問う。
「油灯の転倒。当時の管理人が、火を消し忘れたと判断された」
「本人は認めたのですか」
「油灯を置いたことは認めた。ただし、消したはずだと主張している」
「はず、ですか」
「五年前のことだ。本人の記憶も曖昧になっている」
礼拝堂の扉が開いた。
出てきたのは、四十歳ほどの男だった。
喪を思わせる黒い服を着ている。
顔には深い疲労が刻まれていた。
「お待ちしていました」
男は証明官へ頭を下げた。
「現在、この礼拝堂を管理している方です」
証明官が私たちへ説明する。
男は、亡くなった女性の兄でもあった。
「学院の学生まで来てくださるとは思いませんでした」
「私たちは調査の補助です」
ヴァルターが答える。
「現時点で、手紙が死者によって書かれたとは判断していません」
兄の顔がわずかに強張った。
「もちろんです。私も、死者が本当に手紙を書くなどとは……」
言葉とは違い、その声には迷いがあった。
「ですが、あれは妹の文字です」
「似ているのではなく?」
「毎日のように見ていました。妹は読み書きのできない村人の代わりに、何通も手紙を書いていた。見間違えるはずがありません」
「手紙を確認させてください」
兄は頷き、私たちを礼拝堂の中へ案内した。
◇
礼拝堂の内部は、外から見るより広かった。
長椅子が左右へ並び、その先に簡素な祭壇がある。
天井近くの色硝子から差し込む光が、床へ淡い模様を作っていた。
右手の壁際に、木製の告解箱が置かれている。
人が一人入れる小さな部屋と、告白を聞くための席が仕切られた箱。
扉には鍵がかかっていた。
「手紙は、すべてこの中から?」
「はい」
兄が鍵を取り出す。
「毎朝、最初の祈りの前に私が確認します。三日前から、一通ずつ見つかっています」
「昨夜も?」
「ありました」
兄は私たちを奥の部屋へ案内した。
机の上に、三通の手紙が並べられている。
どれも同じ大きさの白い紙。
封筒には入っていない。
黒いインクで、細い文字が書かれている。
私は一通目を手に取った。
『あなたが油灯を残したことを、私は覚えています』
『あなたが扉を閉ざしたことも』
『罪を認めてください』
二通目。
『炎の中で、私は何度も扉を叩きました』
『あなたは戻ってこなかった』
『私の声を、聞かなかったことにしないで』
三通目。
『今夜も、私はここにいます』
『あなたが罪を認めるまで、手紙を送り続けます』
宛名はすべて、五年前に追放された老管理人へ向けられている。
「この文字は、妹のものです」
兄が言う。
「見本はありますか」
ヴァルターが尋ねた。
兄は机の引き出しから、古い手紙の束を取り出す。
「妹が生前に書いたものです」
ヴァルターは新しい手紙と古い手紙を並べた。
文字の形は、確かによく似ている。
特に、文末を少しだけ右上へ跳ね上げる癖。
縦線の終わりを細く流す書き方。
何も知らずに見れば、同じ人物が書いたと思うかもしれない。
「紙には触れないで」
ヴァルターがルチアへ言った。
「触ってないよ」
「今、指を伸ばしただろう」
「見るためだよ」
「目は指先についていない」
「ヴァルターって、調査中はいつもこんな感じなの?」
「必要な注意をしているだけだ」
私は手紙を光へかざした。
紙の中に、薄い模様が見える。
円の中へ、三本の麦の穂。
「透かしがあります」
ヴァルターが隣へ来た。
「製紙工房の印だろう」
「古い手紙にはありません」
「紙の種類が違うだけでは?」
兄が口を挟む。
「妹は、さまざまな人の手紙を書いていました。違う紙を使ったこともあるでしょう」
「可能性はあります」
私は手紙を机へ戻した。
今の段階では、紙が違うだけで何かを証明することはできない。
「文章に書かれた内容は、亡くなった方しか知らないものですか」
ルチアが尋ねた。
「火事の時、扉が閉ざされていたことは、妹以外には分かりません」
「誰かに話していた可能性は?」
「ありません。妹は、その夜に亡くなったのですから」
「扉が閉ざされていたと判断できる痕跡は?」
ヴァルターが尋ねる。
「当時の記録では、東側の扉付近に、内側から何度も叩いた跡があった」
証明官が答えた。
「鍵は?」
「火事のあと、扉は開いていた。施錠されていた証拠は見つかっていない」
「なら、扉が熱で歪んだ可能性もあります」
「当時も同じ意見が出た。結論は出ていない」
兄が唇を噛んだ。
「ですが、妹は手紙に書いています」
「この手紙を書いた人物が、亡くなった妹さんであると証明されるまでは、事実として扱えません」
ヴァルターの言葉は冷静だった。
兄は反論しかけたが、やがて目を伏せた。
「……分かっています」
そう言いながらも、納得しているようには見えなかった。
◇
次に、告解箱を調べた。
兄が鍵を開ける。
内部には小さな腰掛けがあり、壁の向こうへ声を通す格子がついている。
窓はない。
床にも、紙を入れられるほどの隙間は見当たらない。
「鍵は何本ありますか」
「これ一本だけです」
「複製された可能性は?」
「古い鍵です。鍵職人へ持ち込めば作れるでしょう。ですが、夜は礼拝堂そのものを施錠しています」
「建物の鍵を持つ人物は?」
「私と、祭事を担当する司祭だけです。司祭は今、隣町へ出ています」
「昨夜、あなたはどこに?」
「自室です。鐘を鳴らしたあと、朝まで外へ出ていません」
「証明できる人は?」
「いません」
ルチアは告解箱の周囲を歩きながら、壁や床を眺めている。
「手紙を見つける時、箱の扉は毎回、鍵がかかったままなんですよね?」
「はい」
「誰かが中へ入った跡は?」
「ありません」
「手紙の位置は、毎回同じ?」
兄が少し考える。
「中央に置かれていました」
「向きは?」
「向き?」
「文字が上を向いていたとか、扉の方へ向いていたとか」
「そこまでは……覚えていません」
「分かりました」
ルチアは告解箱の横へしゃがんだ。
「何かありましたか」
「風が来る」
私は隣へしゃがむ。
告解箱の背面は、礼拝堂の壁へ完全には接していない。
わずかな空間があり、床近くから冷たい風が流れていた。
壁には、指二本ほどの幅の細長い穴が開いている。
「通気口ですね」
ヴァルターが覗き込む。
「外へ続いているのか?」
「廊下側へ抜けています」
兄が答えた。
「古い建物なので、湿気がこもらないように作られたものです」
「紙を通せる幅ではありません」
ヴァルターが言う。
「折れば通るかもしれません」
「手紙には折り目がない」
「では、そのままでは無理ですね」
私は穴の縁を見る。
薄い埃が積もっている。
ただし、中央部分だけが少し乱れていた。
何かが触れたようにも見える。
証拠袋から細い採取棒を取り出し、埃を少量取った。
「何か見つけた?」
ルチアが尋ねる。
「まだ分かりません」
ヴァルターも通気口へ顔を近づけた。
「穴は細いが、まっすぐではない。途中で下へ傾いている」
「奥まで見えますか」
「暗い。照明が必要だ」
証明官が灯りを用意するため離れた時だった。
礼拝堂の正面扉が激しく開いた。
「手紙を止めろ!」
杖をついた老人が、荒い息を吐きながら入ってきた。
兄の顔が険しくなる。
「なぜ来た」
「村の者から聞いた。学院の人間が来ているとな」
老人は、老管理人だった。
五年前、油灯を放置した責任を問われ、この礼拝堂を追われた人物。
「私は扉など閉めていない!」
老人は私たちへ訴えた。
「油灯も消した。確かに消したんだ!」
「落ち着いてください」
証明官が老人の前へ立つ。
「今、調査を始めたところです」
「また私を犯人にするつもりだろう!」
「手紙は、あなたが扉を閉ざしたと書いています」
兄が冷たく言った。
「だから、死人が手紙など書くものか!」
「では、なぜ妹の字なのです」
「私が知るか!」
老人の手が震えている。
怒りだけではない。
恐怖も混ざっていた。
「最初の手紙が届いた夜から、家の前に石を投げられている。村を出ていけと書かれた紙も貼られた」
「それは警備兵へ届けましたか」
「誰が信じる!」
老人は唇を歪めた。
「五年前も、誰も信じなかった」
ルチアが静かに老人の前へ出る。
「私は、まだどちらの話も信じていません」
老人が彼女を睨む。
「ですが、どちらの話も聞くつもりです」
「……子供に何が分かる」
「分からないから聞くんです」
ルチアは視線を逸らさなかった。
「五年前の夜、最初から話してもらえますか」
老人の表情が、ほんの少しだけ変わった。
◇
老人の話を聞き終えた頃には、外が暗くなり始めていた。
五年前の火事の日。
老人は記録室へ油灯を置いた。
夕方、帳簿を確認するためだった。
その後、灯りを消し、礼拝堂を出たという。
亡くなった女性が記録室へ残っていたことは知らなかった。
「本当に、火を消したのですね」
ヴァルターが尋ねる。
「消した」
「油灯の蓋を閉じた?」
「……そうしたはずだ」
「はず、ですか」
「五年前だぞ!」
老人の声が荒くなる。
「何度も考えた。消したはずだ。だが、あれだけ皆からお前が火を残したと言われ続ければ……自分でも分からなくなる」
記憶は、繰り返し責められることで形を変えることがある。
本人が嘘をついていなくても、自信だけが削られていく。
「東側の扉については?」
「私は触っていない」
「鍵は持っていましたか」
「当時の管理人だった。礼拝堂の鍵はすべて持っていた」
「ほかに鍵を使える人物は?」
老人は兄を見た。
「礼拝堂で働いていた者なら、鍵を置く場所を知っていた」
兄の顔が強張る。
「私を疑うのか」
「誰が閉めたのかなど知らん。だが、私一人しかできなかったわけではない」
「妹を失った私が、なぜ扉を閉める!」
「知らんと言っている!」
二人の声が礼拝堂へ響く。
その時だった。
鐘楼から、大きな鐘の音が鳴った。
一度。
二度。
夕刻を告げる鐘。
兄が顔を上げる。
「私が鳴らす時間です」
「では、誰が?」
三度目の鐘が響いた。
礼拝堂にいる全員が、天井を見上げる。
兄。
老管理人。
証明官。
私たち三人。
誰も鐘楼にはいない。
それでも、鐘は鳴り続けた。
四度。
五度。
やがて音が止まる。
静寂の中で、小さな音がした。
紙が、床へ落ちる音。
全員が告解箱を見る。
扉には、鍵がかかっている。
兄が震える手で鍵を取り出した。
「待ってください」
ヴァルターが止める。
「開ける前に、鍵と扉の状態を記録します」
証明官が頷き、封印の有無と鍵穴を確認する。
異常はない。
兄が鍵を差し込み、扉を開いた。
告解箱の中央。
誰もいなかったはずの場所に、白い手紙が置かれていた。
文字を上にして。
兄が手を伸ばそうとする。
「触らないで」
私は彼を止めた。
証明官が手袋をつけ、手紙を取り出す。
そこには、これまでと同じ細い文字で、短い文章が書かれていた。
『あなたは、まだ嘘をついている』
その下に、もう一行。
『今夜、すべてを思い出させます』
老管理人の顔から、血の気が引いた。
「私ではない……」
老人が呟く。
「私は、ここにいた」
その通りだった。
兄も。
老管理人も。
私たちも。
鐘が鳴っている間、全員が同じ場所にいた。
それでも手紙は、鍵のかかった告解箱の中へ現れた。
死者は、手紙を書かない。
その考えは変わらない。
けれど今。
生きている誰かが、どうやってこの手紙を置いたのか。
私はまだ、説明できなかった。




