第13話 戻ってきた席
「今日は休んでもいいのよ」
朝食の席で、母が言った。
焼いたパンを切り分けていた私の手が止まる。
「体調は悪くありません」
「そう」
「報告書の提出期限も今日です」
「そうでしょうね」
母は、それ以上休めとは言わなかった。
ただ、向かいの席から私の顔をじっと見つめている。
「……何ですか?」
「別に」
「では、なぜ見ているのですか」
「娘の顔を見るのに、理由が必要?」
必要ではない。
けれど、母の視線は、単に顔色を確かめているだけには思えなかった。
「昨日、力を使ったのね」
私はパンを皿へ戻した。
「必要でした」
「あなたはいつも、そう言うわ」
「必要でなければ使いません」
「ええ。あなたは、必要のないことをしないものね」
母の声音に責める響きはなかった。
だからこそ、返す言葉に困った。
「頭痛は?」
「ありません」
「目眩は?」
「ありません」
「眠れた?」
「問題ありません」
母が小さく息を吐いた。
「その答え方をする時は、たいてい問題があるのよ」
「事実を答えています」
「そういうことにしておきましょう」
母は紅茶の入ったカップを持ち上げた。
その目が一瞬だけ曇ったように見えたが、私が確かめる前に、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
「報告書は忘れていない?」
「鞄に入れました」
「予備は?」
「作ってあります」
「朝食は?」
「今、食べています」
「半分しか減っていないけれど」
私はパンを一口かじった。
「これで減りました」
「そういう問題ではないのだけれど」
母のため息を背中に受けながら、私は残りの朝食を口へ運んだ。
◇
学院へ着くと、いつもより教室が騒がしかった。
扉を開けた瞬間、いくつもの視線が私へ向く。
私は足を止めた。
制服に汚れはない。
髪も乱れていない。
顔に何か付いている様子もない。
「おはよう、クゼさん」
近くの学生が、妙に明るい声で挨拶してきた。
「おはようございます」
「昨日、宝石商の事件を解決したんだって?」
原因は、それだった。
「私一人で解決したわけではありません」
「でも、使用人が犯人じゃないって、一目で見抜いたんでしょう?」
「一目ではありません。鍵と足跡を確認しました」
別の学生が身を乗り出す。
「宝石商の息子を睨んだだけで、自白させたって聞いたけど」
「睨んでいません」
「じゃあ、何て言ったの?」
「事件に関係する話です。答えられません」
「やっぱり、何か言ったんだ」
なぜ、訂正するほど話が広がるのだろう。
「父親の部下を動かして、屋敷を調べさせたっていうのは?」
「今回、父は関係ありません。現場を担当した証明官の指示です」
「証明官と一緒に現場へ入ったのは本当なんだ」
「それは――」
「ミラ」
横から呼びかけられた。
振り向くと、栗色の髪を肩の辺りで切り揃えた女子学生が立っていた。
「顔色悪いよ」
「悪くありません」
「悪い人は、みんなそう言うの」
彼女は私の返事を待たず、腕を取って教室の奥へ引っ張った。
空いている席まで連れていき、私を座らせる。
「何をするのですか」
「救出」
「誰から?」
「質問したくて仕方がない人たちから」
彼女が振り返ると、こちらを見ていた学生たちは気まずそうに目を逸らした。
「助かりました」
「どういたしまして」
女子学生は、当然のように私の前の席へ座った。
「ルチア・メルティア。覚えてる?」
「同じ講義を受けています」
「それは、覚えてるって言うのかな」
「名前も知っています」
「それなら合格」
ルチアは鞄の中から小さな包みを取り出した。
中には、砂糖をまぶした焼き菓子が二つ入っている。
「食べる?」
「朝食は済ませました」
「何を食べたの?」
「パンです」
「ほかには?」
「水も飲みました」
「それ、朝食の説明としては弱すぎない?」
「紅茶もありました」
「少し強くなったけど、まだ弱いなあ」
彼女は焼き菓子を一つ、私の前へ置いた。
「事件のことは聞かないのですか」
「聞いていいなら聞くよ」
「聞きたいのでは?」
「そりゃあ気になる。でも、今は事件より、ミラの方が疲れて見えるから」
返事ができなかった。
証拠の場所を尋ねられると思っていた。
犯人が何を言ったのか。
どうやって見破ったのか。
そういう質問なら、答えられないと言えば済む。
けれど、私自身のことを尋ねられるとは思っていなかった。
「……通常の範囲です」
「その言い方、全然安心できないよ」
「では、どう答えればいいのですか」
「眠いなら眠い。疲れたなら疲れた」
「事実を簡潔に述べるのですね」
「今も十分簡潔だけど、そういう意味じゃないんだよなあ」
ルチアは困ったように笑った。
「まあ、話したくなったらでいいよ」
そう言って、彼女は焼き菓子を自分の口へ運ぶ。
本当に事件については何も尋ねてこなかった。
私は机の上の焼き菓子を見る。
「これは、返した方がいいですか」
「食べてくれた方がうれしい」
「では、いただきます」
一口かじると、思っていたより甘かった。
「どう?」
「甘いです」
「ほかには?」
「表面は硬いですが、中は柔らかいです」
「鑑定報告みたい」
「感想を求めたのでは?」
「おいしいって言ってくれたら十分だよ」
それなら、最初からそう言えばいい。
「……おいしいです」
ルチアは満足そうに笑った。
◇
午前の講義が始まると、担当教官は集めていた報告書を返却した。
私の机へ置かれた紙の右上には、八十七点と書かれていた。
予想より低い。
証拠の名称。
発見された場所。
保全方法。
それぞれが示す事実。
時系列。
関係者の供述。
必要な情報はすべて記載したはずだった。
「クゼ」
「はい」
「不満そうだな」
「不足していた点を教えてください」
教官は私の報告書を開いた。
「事実の整理は正確だ。鍵が使用されていなかった可能性、足跡が偽造された根拠、帳簿の差異。証拠同士のつなげ方にも問題はない」
「では、何が不足していますか」
「人間だ」
一瞬、意味を理解できなかった。
「報告書に必要なのは、事件に関係する事実です」
「その事件を起こしたのも、傷つけられたのも人間だ」
教官は、使用人の供述が記された箇所を指で叩いた。
「彼女が母親の薬代に困っていたことは書かれている。だが、なぜその事情を周囲へ隠していたのかは書かれていない」
「犯行を証明するうえで、必要ではありません」
「今回の犯行だけを見るならな」
教官は教室全体へ視線を向ける。
「証明官の仕事は、目の前にある罪を証明して終わりではない。証人がなぜ口を閉ざしたのか。被害者がなぜ助けを求められなかったのか。それを知らなければ、必要な証言へ辿り着けないこともある」
教室が静かになる。
「感情で事実を曲げてはいけない。しかし、人の感情を事実ではないと切り捨てることも間違いだ」
私は報告書へ目を落とした。
使用人が、屋敷を辞めると告げた時の顔が浮かぶ。
信じて相談したことが怖くなった。
彼女は、そう言っていた。
私はその言葉を書いていない。
「証拠は、物の中だけに残るとは限らない」
教官は続ける。
「恐怖が人の口を閉ざすこともある。罪悪感が余計な言葉を吐かせることもある。人がなぜそうしたのかを知らなければ、証拠の意味を取り違える」
「……分かりました」
「本当に分かった顔には見えないが、今はそれでいい」
教官が私の机から離れようとした時、教室の後方から声が上がった。
「質問があります」
立ち上がったのは、背の高い男子学生だった。
黒に近い灰色の髪。
襟元まで乱れなく整えられた制服。
ヴァルター・シグナス。
筆記試験でも実技でも、常に上位にいる学生だ。
「何だ、シグナス」
「現場へ参加した経験が、報告書の評価へ含まれるのは公平なのでしょうか」
教室の空気が変わった。
教官はすぐには答えない。
「続けろ」
「私たちの多くは、正式な事件現場へ入る機会を与えられていません」
ヴァルターの視線が、私へ向いた。
「しかし、彼女は証明官である父親とのつながりを持ち、学院へ入学して間もない時期から現場へ参加している」
「今回、父は事件に関係していません」
私が答えると、ヴァルターは眉一つ動かさなかった。
「父親本人が関わっていたかどうかを言っているのではない。君が、ほかの学生にはない知識と機会を与えられていることを言っている」
「それは否定しません」
教室のあちこちで、小さなざわめきが起きた。
ヴァルターも、少しだけ意外そうな顔をした。
「父が証明官でなければ、私は同じ知識を持っていなかったかもしれません。現場へ関わる機会もなかった可能性があります」
「ならば――」
「けれど、現場で証拠を調べたのは私です」
ヴァルターの言葉が止まる。
「鍵を確認したのも、足跡の不自然さを見つけたのも、帳簿を比較したのも、父ではありません」
「恵まれた環境で得た力だ」
「はい」
「それを、自分だけの実力だと思うのか?」
「思いません」
私はヴァルターの目を見る。
「ですが、父の名前で見つけた証拠は、一つもありません」
ヴァルターは黙った。
怒っているようには見えない。
ただ、私の言葉の中に誤りがないか、確かめているようだった。
「そこまでだ」
教官が手を叩いた。
「シグナスの疑問には一理ある。機会の差は存在する」
教官は机の上へ、一つの封筒を置いた。
「だから今日は、全員に同じものを与える」
封筒は赤い紐で結ばれ、封蝋で閉じられている。
「この手紙が、届けられる前に一度開封されたかどうかを調べろ」
◇
封蝋の表面には細かな亀裂があった。
けれど、完全に割れた形跡はない。
私は封筒を光へかざした。
内側の一部に、白い粉が付着している。
「加熱されています」
隣からヴァルターの声がした。
彼は封蝋を拡大鏡で観察している。
「表面だけを熱して柔らかくし、印章を崩さず剥がした。戻す時に再び加熱している」
「封蝋だけではありません」
私は赤い紐を指さした。
「結び目が逆です」
「逆?」
「封をした人物は右利きです。見本の書類では、紐の端が必ず右側へ出ている。これは左側です」
ヴァルターはすぐに別の封筒と比較した。
「確かに違う」
「でも、それだけじゃ、いつ開けられたか分からないよね」
ルチアが横から口を挟んだ。
いつの間にか、私たちの机へ来ていた。
「課題は開封されたかどうかの確認です」
「うん。でも、届けられる前って条件があるでしょ?」
ルチアは、配達人役をしている学生へ近づいた。
「この封筒、受け取ってからずっと持ってた?」
「いや。一度、受付の机へ置いた」
「どれくらい?」
「鐘が鳴るまでだから……十分くらいだ」
「その時、受付には誰がいた?」
「書記役が一人」
「その人、封蝋を扱える?」
「毎日、書類を封じている」
ルチアが戻ってくる。
「開ける機会があって、封を戻せる人もいたみたい」
「聞き方が誘導的だ」
ヴァルターが言った。
「え?」
「最初から受付の書記を疑って質問していただろう」
「疑ったんじゃなくて、触れた人を確認しただけ」
「同じことだ」
「全然違うよ。疑ってたら、もっと怖い聞き方するもん」
「自覚があるなら直せ」
「ヴァルターって、話しかけるだけで相手を怖がらせそうだよね」
「今、その話は関係ない」
「関係あるよ。聞き込みでは大事だもん」
二人の会話を聞きながら、私は封筒の内側へ付着した粉を少し採取した。
「石灰です」
ヴァルターがこちらを見る。
「何?」
「受付の机には、濡れた書類を乾燥させる石灰粉が置かれていました。封筒の内側へ付着しているということは、受付で開かれた可能性が高い」
ヴァルターは封蝋を見る。
「加熱の痕跡」
私は紐を示す。
「結び直された跡」
ルチアが受付の方向を指す。
「開封できる機会と、封を戻せる人」
三つを合わせれば、答えになる。
教官が私たちの机の前へ立った。
「一人で分かった者はいるか?」
誰も答えなかった。
「証拠を見つける者。知識で意味を判断する者。人から状況を聞き出す者」
教官は封筒を持ち上げた。
「一つの事件で、それらがすべて同じ人間にできるとは限らない」
ヴァルターは何も言わなかった。
けれど、私の見つけた石灰粉を記録帳へ書き写している。
「見せてください」
私が言うと、ヴァルターが顔を上げた。
「何をだ」
「封蝋の加熱跡です。私はそこまで確認できませんでした」
一瞬の沈黙。
ヴァルターは拡大鏡を差し出した。
「縁を見ろ。中央ではない」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどではない」
冷たい言い方だった。
けれど、拡大鏡を取り戻そうとはしなかった。
◇
昼休みになると、ルチアが私の机へやってきた。
「食堂、行こう」
「報告書を修正します」
「昼ご飯は?」
「あとで食べます」
「あとでって言う人は、だいたい食べないんだよ」
「根拠は?」
「経験」
「統計ではありませんね」
「そういうこと言うなら、実際に確かめよう。今日から毎日観察する」
「なぜ、そこまでするのですか」
ルチアが首を傾げた。
「一緒に食べたいから」
答えが単純すぎて、言葉が出なかった。
「嫌なら無理には誘わないけど」
ルチアが少しだけ視線を逸らす。
その瞬間、昨日の使用人の言葉を思い出した。
誰かに困っていると話すたびに、また利用されるのではないかと思ってしまう。
言葉を差し出すことには、勇気がいる。
助けを求める時だけではない。
誰かを誘う時も。
隣へ来てほしいと伝える時も。
「待って」
教室を出ようとしたルチアが振り返る。
「……一緒に行ってもいいですか」
ルチアは大げさに喜ばなかった。
ただ、いつものように笑った。
「もちろん」
私は報告書を閉じ、立ち上がった。
その時、教室の扉が開いた。
「食堂へ向かう者は、少し待て」
担当教官が入ってくる。
手には、一枚の依頼書があった。
「先ほど、郊外の礼拝堂から学院へ相談が届いた」
食堂へ急いでいた学生たちが足を止める。
「正式な事件ですか」
ヴァルターが尋ねた。
「今のところは違う。現地の警備兵も、犯罪性は低いと判断している」
「では、なぜ学院へ?」
「原因が分からないからだ」
教官は依頼書を掲示板へ貼った。
紙の上部には、震えた文字で件名が書かれている。
私は、その文字を目で追った。
――死者から届く手紙について。
「五年前、礼拝堂の火災で一人の女性が亡くなった」
教室のざわめきが消える。
「その女性が書いたと思われる手紙が、ここ数日、毎晩礼拝堂の告解箱から発見されている」
「筆跡は?」
ヴァルターがすぐに尋ねる。
「遺された手紙と酷似しているそうだ」
「告解箱に手紙を入れられる人物は?」
私が尋ねる。
「鍵は礼拝堂の管理者が保管している。ただし、発見されるまで誰も開けていないと主張している」
ルチアが依頼書を見上げる。
「手紙には、何が書かれているんですか」
教官は一度、教室全体を見回した。
「自分を炎の中へ置き去りにした者へ、罪を認めろと」
窓の外で、昼を知らせる鐘が鳴った。
死者は、手紙を書かない。
だからこそ。
そこには、生きている誰かの意志がある。




