第12話 罪を背負う者
白い光が消えた。
黒い水面も、無数の鏡も、夜を織ったようなドレスもない。
私の足元にあるのは、宝石商の屋敷に敷かれた赤い絨毯だった。
壁際には、証明官と警備兵が立っている。
宝石商は、息子の言葉を待つように黙り込んでいた。
若い使用人は、両手を胸元で握りしめている。
《審黒の間》で流れた時間は、現実では瞬きほどのものだったのかもしれない。
けれど、息子の顔はもう違っていた。
先ほどまで浮かべていた、穏やかで自信に満ちた後継者の表情は消えている。
彼は床に膝をつき、自分の両手を見つめていた。
「……私がやった」
掠れた声が、部屋へ落ちた。
宝石商の身体が、わずかに揺れる。
「何を……言っている」
「首飾りを持ち出したのは、私だ」
息子は顔を上げなかった。
「彼女ではない」
使用人が息を呑んだ。
けれど、証明官はすぐには頷かなかった。
「最初から説明してください」
落ち着いた声だった。
「自白だけで事件を終えることはできません。いつ、どのような方法で首飾りを持ち出し、なぜ使用人へ疑いが向くようにしたのですか」
息子の肩が震える。
「話したくない」と言うように唇が動いた。
だが、彼の顔を守っていた仮面は、もうどこにもない。
「……店の金を使った」
宝石商が息を止めた。
「南方から宝石を運んでくるという商人に、百二十枚の金貨を渡した。珍しい宝石を安く仕入れられると言われた」
「その取引を、店主へ報告しましたか」
「していない」
「なぜです」
「反対されると思った」
証明官が机の上に置かれた帳簿へ目を向ける。
「その損失を隠すため、あなたが保管していた帳簿を書き換えたのですね」
「……ああ」
公式の帳簿と、息子が管理していた写し。
二冊の間には、百二十枚分の差があった。
単なる記入漏れではない。
複数の取引へ少しずつ金額を振り分け、不自然さが目立たないように数字が変えられていた。
「商人は戻らなかった」
息子が続ける。
「約束の日を過ぎても、荷は届かなかった。宿へ行った時には、もう誰もいなかった」
「だから、首飾りを?」
「十日だけ必要だった」
息子の声が小さくなる。
「首飾りを担保に金を借りて、帳簿の不足を埋める。別の取引で利益を出して、期限までに取り戻すつもりだった」
「八十枚の金貨を借りた」
「……そうだ」
店から失われた百二十枚には足りない。
それでも、息子は時間さえあれば残りを用意できると考えた。
失敗を認めるのではなく、さらに別の賭けを重ねようとした。
「予備鍵から型を取ったのも、あなたですね」
「ああ」
「青灰色の蝋を使って?」
「私の机にあったものだ」
「その型から、三本目の鍵を作らせた」
「知り合いの鍵職人に頼んだ。宝石箱の鍵だとは言わなかった」
証明官が、机の上の小さな証拠袋を確認する。
中には、鍵の形が残された青灰色の蝋が入っていた。
「首飾りを持ち出したあと、使用した鍵はどうしましたか」
「川へ捨てた」
「書斎にあった予備鍵は?」
「彼女の部屋へ置いた」
使用人の顔が強張った。
「首飾りを包んでいた布も?」
「……置いた」
「彼女の靴へ泥をつけ、廊下へ足跡を残した」
「靴を手に持って、床へ押しつけた」
「督促状を、引き出しから机の上へ移したのも?」
「私だ」
一つずつ。
息子の口から語られるたびに、ばらばらだった証拠が犯行へつながっていく。
使われていない予備鍵。
歩いた者には残せない、不自然に揃った足跡。
靴の履き口に残っていた黒い油と緑色の繊維。
首飾りを包んでいた布に染みついた香り。
息子の手袋。
書き換えられた帳簿。
そして、首飾りを担保に八十枚の金貨を借りたことを示す書面。
彼の自白がなくても、証拠はすでに同じ人物を指していた。
自白は罪を生み出したのではない。
積み上げられた事実の前で、隠し続けることをやめただけだ。
「なぜ……」
宝石商が、ようやく声を絞り出した。
「なぜ、私に話さなかった」
息子はゆっくりと顔を上げる。
「言えるはずがない」
「なぜだ」
「失望されたくなかった」
その言葉を聞いた瞬間、宝石商の顔から怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは、深い疲れだった。
「私は、お前が失敗すれば失望するとでも思っていたのか」
「父上は、いつも私を認めなかった」
「認めなかったのではない」
宝石商の声が震える。
「まだ任せられないと言ったのだ」
「同じことだ!」
「同じではない!」
部屋の空気が揺れた。
宝石商は拳を握り、息子を見下ろす。
「失敗したのなら叱っただろう。騙されたのなら、なぜ確かめなかったと問いただしただろう。失った金を取り戻すため、何年でも働かせたかもしれない」
息子の唇が震えた。
「だが、それでもお前は私の息子だった」
その言葉に、息子の目から涙が落ちる。
「しかし、お前は自分の失敗を隠すために、罪のない者を盗人にしようとした」
宝石商は、使用人へ目を向けた。
彼女は怯えるように一歩下がった。
「この者は、母親を救うために頭を下げたのだろう」
「……はい」
「お前は、その願いを拒んだだけではない。打ち明けられた事情を利用して、この者の人生を壊そうとした」
「父上……」
「私が失望しているのは、お前が商売に失敗したからではない」
宝石商は、はっきりと告げた。
「失敗の責任を、弱い立場の者へ背負わせたからだ」
息子はもう、父親を見られなかった。
証明官が警備兵へ合図を送る。
「首飾りの所在を確認します。預けた店の名を」
息子は抵抗せず、質屋の名と場所を答えた。
期限は、残り三日。
今から向かえば、首飾りはまだ店にあるはずだった。
二人の警備兵が、屋敷を出ていく。
残った一人が、息子の隣へ立った。
「帳簿の改ざん、店の金の無断使用、首飾りの窃取、証拠の偽造、そして他者へ罪を着せようとした行為について、証務所で改めて話を聞きます」
息子は力なく頷いた。
手首へ縄がかけられる。
宝石商はそれを止めなかった。
「待ってください」
小さな声がした。
使用人だった。
皆の視線が集まり、彼女は一瞬だけ怯んだ。
それでも、逃げずに宝石商へ向き直る。
「私は……もう、この屋敷では働けません」
宝石商が目を伏せる。
「当然だ」
「疑われたからではありません」
使用人は震える手を強く握った。
「信じて相談したことが、怖くなったからです」
息子の肩が揺れた。
「この先、誰かに困っていると話すたびに、また利用されるのではないかと思ってしまう」
謝罪を求める声ではなかった。
許すつもりもない。
ただ、自分が何を傷つけられたのかを伝えている。
「申し訳なかった」
宝石商が、深く頭を下げた。
「私の屋敷で起きたことだ。お前を守れなかった責任は、私にもある」
「店主様が盗んだのではありません」
「それでも、息子を信じ、お前の言葉をすぐに信じなかった」
宝石商は頭を上げなかった。
「母君の薬代と、次の働き先が決まるまでの給金は、こちらで用意する。慰謝料も正式な書面を作り、証務所を通して支払う」
「お金を受け取れば、許したことになりますか」
「ならない」
宝石商は即座に答えた。
「これは許しを買う金ではない。こちらが負うべき責任だ」
使用人はしばらく黙っていた。
「……証務所の方と相談してから決めます」
「それでいい」
彼女は宝石商へ頭を下げなかった。
その必要はなかった。
代わりに、私の方へ向き直る。
「ありがとうございます」
「私は、証拠を確認しただけです」
「それでも」
彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「私が盗んでいないと、最初から思ってくれた」
「最初から信じていたわけではありません」
私は正直に答えた。
「あなたが無実だと決めつけることも、証拠を見ずに疑うことと同じです」
彼女の表情が、少しだけ曇る。
「でも、見つかった証拠が、あなたの犯行を示していなかった」
使われていない鍵。
作られた足跡。
不自然な場所へ移された督促状。
「だから、あなたを犯人として扱わなかっただけです」
「それだけ……ですか」
「ええ」
私は彼女の目を見る。
「それから、助けを求めたことは、あなたの弱さではありません」
彼女の瞳が揺れた。
「一人で抱えられない時に、誰かへ手を伸ばすのは間違いではない」
「でも、そのせいで……」
「悪いのは、差し出された手を利用した人です」
彼女は唇を噛み、俯いた。
落ちた涙を、今度は慌てて隠そうとしなかった。
◇
夕方。
質屋へ向かった警備兵から、首飾りを確保したという連絡が届いた。
七つの青い宝石が連なる、亡き妻の形見。
宝石商は証拠確認のために戻された首飾りを、長い間、両手で包んでいた。
喜んでいるようには見えなかった。
「妻は、この店を息子に継いでほしいと言っていた」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟く。
「だが、こんな形で残すことになるとは思わなかっただろう」
私は答えなかった。
形見は戻った。
失われた金も、時間をかければ取り戻せるかもしれない。
けれど、一度壊れた信用は、元の形には戻らない。
割れた器をつなげても、ひびは残る。
そのひびを抱えて生きていくことまでが、犯した罪の結果なのだ。
屋敷を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
同行していた証明官が、私の隣を歩く。
「今回、使用人が拘束されなかったのは、あなたが鍵の汚れに気づいたからです」
「私だけではありません。足跡を調べた人も、帳簿を確認した人もいます」
「そうですね」
証明官は小さく頷いた。
「証拠は、一人で集めるものではありません」
少し間を置き、私を見る。
「ですが、皆が見ていたものの中から、違和感を拾ったのはあなたです」
褒められているのだと思う。
けれど、どう返せばいいのか分からなかった。
「……ありがとうございます」
結局、それだけを答えた。
証明官はなぜか少し笑った。
「学院へ提出する報告書には、今日確認した事実だけを書いてください」
「分かっています」
《審黒の間》のことも。
白い仮面のことも。
黒いドレスをまとい、息子の真貌を剥がしたことも。
記録には残せない。
書くべきなのは、三本目の鍵。
蝋の型。
作られた足跡。
手袋に残った油と繊維。
書き換えられた帳簿。
首飾りを預けた書面。
それらによって証明できる事実だけだ。
力が見せた真実ではない。
誰の目にも確かめられる証拠によって、人は裁かれなければならない。
「それにしても」
証明官が歩きながら呟く。
「あなたは、犯人へ随分と厳しい言葉をかけていましたね」
私は足を止めかけた。
「聞こえていましたか」
「すべてではありません」
どうやら、《審黒の間》で口にした言葉の一部が、現実でも声になっていたらしい。
「問題がありましたか」
「いいえ」
証明官は首を横に振る。
「ただ、少しだけ驚きました。普段は、必要なこと以外ほとんど話さない学生だと聞いていたので」
「必要なことでした」
「そうでしょうね」
証明官は、それ以上追及しなかった。
私はもう一度、屋敷を振り返る。
窓の向こうに、宝石商の姿が見えた。
戻ってきた首飾りを前にして、それでも彼は俯いている。
息子は罪を認めた。
けれど、認めたから罪が消えるわけではない。
涙も。
後悔も。
恐怖も。
罪を洗い流してはくれない。
仮面を失った彼が、これから何を背負って生きるのか。
それを決めるのは、私ではない。
私にできるのは、隠された真実を剥がすところまでだ。
その先に待つのは、鏡ではない。
現実の裁きだった。
【あとかぎ】
「物証は、あなたほど演技が上手ではありません」
ここまで読んだという事実も、もう隠せません
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