第21話 問題はありません
朝、鏡の前に立った時。
自分の顔が、少しだけ他人のものに見えた。
目の下に薄い影がある。
頬も、いつもより白い。
《真貌剥離》を使った翌日には、よくあることだった。
強い疲労。
頭痛。
わずかな吐き気。
休めば戻る。
これまでも、そうだった。
「問題ありません」
鏡の中の自分へ告げる。
声に異常はない。
視界にも問題はない。
私は制服の襟を整えた。
その時。
鏡の中の私が、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。
「……?」
私は笑っていない。
口元へ指を当てる。
触れた唇は、いつも通り真っすぐに閉じていた。
もう一度、鏡を見る。
そこにいるのは、無表情な私だけだった。
疲労による錯覚。
そう判断し、部屋を出た。
◇
食堂では、母が朝食を用意していた。
焼いたパン。
薄く切られた肉。
温かい野菜のスープ。
いつもと同じ量だった。
「おはよう、ミラ」
「おはようございます」
席へ着き、スープへ口をつける。
味は分かる。
だが、食欲はなかった。
母は向かい側へ座り、何も言わずに私を見ている。
「何ですか」
「昨日、帰りが遅かったでしょう」
「事件の供述を取っていました」
「そう」
母はそれ以上、事件について聞かなかった。
《審黒の間》のことも。
私が何を見たのかも。
ただ、ほとんど減っていない皿へ目を向ける。
「食べられない?」
「問題――」
言葉を止めた。
昨日、帰りの馬車でも同じことがあった。
問題ありません。
そう答えれば、話は終わる。
だが、食事が減っていないという事実は消えない。
「……食欲がありません」
母の目が、わずかに細くなった。
「頭は?」
「少し痛みます」
「学院を休む?」
「その必要はありません」
今度は迷わず答えた。
「歩行に問題はありません。授業も受けられます」
「そう」
母は私の皿を下げなかった。
「全部食べろとは言わないわ。でも、パンを半分だけ持っていきなさい」
「昼食があります」
「昼までに空腹になるかもしれないでしょう」
「可能性はあります」
「では、決まりね」
母は小さな布へパンを包み、私へ差し出した。
受け取る。
「ありがとうございます」
「ミラ」
「何ですか」
「問題があると言えたからといって、弱くなったわけではないわ」
返事ができなかった。
母は、それ以上続けなかった。
私はパンを鞄へ入れ、学院へ向かった。
◇
午前の授業が終わると、教師が一冊の報告書を教卓へ置いた。
「先日の礼拝堂火災について、共同報告書を確認した」
私とルチア、ヴァルターの名前が呼ばれる。
三人で前へ出た。
「評価は九十二点だ」
「やった」
ルチアが小さく拳を握る。
ヴァルターは表情を変えなかったが、肩からわずかに力が抜けた。
私は報告書を受け取る。
表紙の右上に、赤い数字が書かれていた。
「減点理由を聞いてもよろしいですか」
「クゼ。お前は点数を聞いた直後に、それを尋ねるのか」
「改善に必要です」
「そうだろうな」
教師は呆れたように息を吐いた。
「証拠の整理は良い。供述との照合も正確だ。閉じ込めた行為、救助を求めず逃げた行為、五年間の隠蔽、偽造した手紙による脅迫。それぞれを混同していない」
教師は報告書の一部を指で叩いた。
「老管理人の責任を、感情だけで消さなかった点も評価する」
老管理人が油灯を消し忘れたかどうか。
それは、まだ確定していない。
兄が扉を閉ざした事実が証明されても、油灯の管理についての調査が不要になるわけではない。
「真実を明らかにする時、人は罪を一人へ集めたがる」
教師が言った。
「一人を完全な悪人にすれば、他の者を完全な被害者にできる。話も理解しやすくなる」
教室は静かだった。
「だが、現実はそう単純ではない。被害者でありながら、別の場面では加害者になる者もいる。重大な罪を隠した者がいたからといって、周囲の過失まで消えるわけでもない」
教師の指が、報告書の最後へ移る。
「罪は、正しく分けなければならない」
「はい」
「ただし、減点した部分もある」
教師はルチアを見る。
「妹の人物像について、聞き取った内容が不足している」
「事件に関係する話は書きましたよ?」
「死者を証拠の一部としてだけ扱えば、兄と同じ過ちへ近づく」
ルチアの表情が変わった。
教師は続けた。
「妹は扉の向こうで死んだ女ではない。働き、悩み、町へ出ることを望んでいた一人の人間だ。事件によって命を奪われた者を、事件だけで説明するな」
「……はい」
ルチアが真剣に頷く。
「次は、ちゃんと残します」
「シグナス」
「はい」
「法的な分類を増やしすぎだ。正確だが、同じ内容が三度書かれている」
「必要な区別です」
「読む者へ伝わらなければ、正確さは役に立たない」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「修正します」
「クゼ」
「はい」
「文章が短すぎる」
「正確です」
「会話文まで削るな。供述者が、どのような表情と声で答えたかも記録の一部だ」
「必要な言葉は残しました」
「お前が必要だと思った言葉だけだ」
私は黙った。
「三人で書いた意味はあった」
教師が報告書を閉じる。
「クゼだけなら人間が消える。メルティアだけなら感情が先へ進む。シグナスだけなら誰も最後まで読まない」
「最後だけ、私への評価がひどくありませんか」
ヴァルターが言う。
教室に笑いが起こった。
ルチアも笑っている。
私の口元も、わずかに動いた。
その瞬間。
教室の窓に映った自分の頬へ、細い銀色の線が走った。
ひび。
そう見えた。
私は振り返る。
窓には、教室の中が映っている。
私の顔にも異常はない。
「ミラ?」
ルチアが私を見る。
「どうしたの?」
「何でもありません」
答えた直後、頭の奥が強く痛んだ。
視界が一瞬、暗くなる。
私は教卓の端へ手をついた。
「クゼ」
教師の声が低くなる。
「保健室へ行け」
「必要ありません」
「今、倒れかけただろう」
「立っています」
「そういう問題ではない」
「ミラ、顔色悪いよ」
ルチアが私の腕へ触れる。
振り払う必要はない。
だが、触れられた場所が、ひどく熱く感じた。
「……少し休みます」
私が答えると、教師より先にルチアが頷いた。
「私が連れていくね」
「一人で歩けます」
「うん。でも、一緒に行く」
「不要です」
「必要かどうかは、私が決めるよ」
以前なら、さらに拒否していた。
今日は、その言葉が出なかった。
◇
保健室で短い休憩を取ると、頭痛は少し弱くなった。
午後の授業へ戻ろうと廊下を歩いていると、学院の職員に呼び止められた。
「クゼ・ミラさんですね」
「はい」
「学院長がお呼びです。メルティアさんとシグナスさんも、すでに向かっています」
「理由は?」
「地方の証明官から、調査協力の要請が届きました」
新しい事件。
そう理解し、学院長室へ向かう。
扉を開けると、ルチアとヴァルターが長机の前へ座っていた。
学院長。
先ほどの教師。
それから、見知らぬ若い証明官がいる。
「座りなさい」
学院長に促され、ルチアの隣へ座る。
机の上には、二枚の書類が置かれていた。
一枚目は、地方の学校が提出した報告書。
二枚目は、何度も折り畳まれた小さな紙だった。
「王都から北へ二日の場所に、リベル村という集落がある」
若い証明官が説明を始める。
「村には、十歳から十五歳までの子供が通う小さな学校があります。教師は一人です」
「事件は?」
ヴァルターが尋ねる。
「十二歳の男子生徒が、大きな怪我を負いました。名前はリオです」
「怪我の程度は?」
「左腕の骨折と、全身に複数の打撲があります。命に別状はありません」
「学校側の説明は?」
「授業後、一人で崖道を歩き、足を滑らせたとされています」
「リオ本人の証言は?」
私は尋ねた。
「何も話そうとしません」
「意識はある?」
ルチアが聞く。
「あります。ただ、教師や村人が近くにいる時は、ほとんど口を開かないそうです」
「転落と矛盾する傷があるのですか」
「可能性があります。医師によれば、腕や背中の打撲の一部は、崖から落ちた時についたものとは考えにくいそうです」
証明官は一枚目の書類を、私たちの方へ向けた。
村の教師が作成した報告書だった。
作成者の名前は、セナ・ハルカ。
整った文字。
簡潔な内容。
リオは以前から注意力が散漫で、転びやすかった。
当日は一人で帰宅した。
他の生徒との問題は確認されていない。
教師による聞き取りも実施した。
最後には、こう書かれていた。
『学校内に、重大な問題はありません』
「ずいぶん断定的だな」
ヴァルターが言った。
「調査は行われたのですか」
「セナ・ハルカは、全ての生徒へ聞き取りをしたと報告しています」
「記録は?」
「ありません」
「聞き取りをした日時は?」
「記載されていません」
「誰が、どのように答えたかも?」
「ありません」
ヴァルターの表情が険しくなる。
「これでは、調査をした証明にならない」
「もう一枚を見てください」
証明官が、小さく折られた紙を広げた。
子供の字だった。
線が震えている。
同じ文字を何度も書き直している。
『たすけてください』
最初の一行。
その下には、短い文章が続いていた。
『リオは、ひとりでころんだんじゃありません』
『三人に、たたかれました』
『ずっと前からです』
『セナ先生に言いました』
『リオも、先生に言いました』
『でも先生は、けんかをするなと言っただけです』
ルチアが息を呑んだ。
「これを書いた子は?」
「リオと同じ学校へ通う生徒です。村の商人へ頼み、王都行きの荷物へ隠したそうです」
「なぜ、村の大人へ相談しなかったのですか」
「セナ先生へ見せれば、また取り上げられると思ったと話しています」
「また?」
私は紙を見る。
「以前にも、手紙を書いたのですか」
「その可能性があります。ですが、最初の手紙は見つかっていません」
紙の端に、さらに小さな文字があった。
一度書いたあと、消そうとした跡がある。
私は顔を近づける。
『セナ先生は知っています』
その次の行。
『先生は、見ていました』
室内から音が消えた。
若い証明官が口を開く。
「学校側は、いじめの存在を否定しています」
「教師本人も?」
「はい」
「何と?」
証明官は、報告書の最後を指した。
整った文字。
迷いのない筆跡。
『子供同士の小さな衝突はありましたが、いじめと呼ぶべき事実は確認されていません』
『リオから、助けを求められたこともありません』
『学校に問題はありません』
問題はありません。
今朝、鏡の前で口にした言葉。
食卓でも、言いかけた言葉。
私は報告書を見つめた。
「調査へ行きます」
学院長が、わずかに眉を上げる。
「まだ命令していない」
「必要です」
「理由は?」
「二枚の書類が矛盾しています」
「それだけか?」
「いいえ」
子供の手紙へ目を移す。
リオは、一人で転んだのではない。
三人に殴られた。
何度も教師へ訴えた。
教師は知っていた。
教師は見ていた。
それでも報告書には、何もなかったと書かれている。
「問題がなかったのではありません」
私は言った。
「問題が存在しない形へ、誰かが整えています」




