第三章 雨のコンコース
雨の予報が出ている日の球場は、朝から少しだけ騒がしい。
空が降るかどうかを決めかねているような薄い灰色で、東雲アークスパークの外周には、いつもより早く傘を持った人が集まっていた。ゲート前に立つスタッフの足元には、濡れた段ボールを避けるための青いシートが敷かれている。
私たちは控室で、いつもの衣装の横に雨天用の黒いジャージとタオルを並べていた。
「今日、ほんとにやるのかな」
HINAが窓の外を見ながら言った。
「私の前髪、もう雨天中止だよ」
私は思わず笑った。
まだ雨は降っていない。でも、遠くの高いビルが白く霞んでいる。
「開門の時点ではやる予定」
MAYU先輩は、タブレットから顔を上げずに答えた。
「ただし、雷が近づいたらフィールドパフォーマンスは全部止める。中断になったら、各自の配置はこの紙どおり」
配られた紙には、普段のキュー表とは違う文字が並んでいた。
一塁側コンコース、案内補助。三塁側ゲート、通路確保。キッズスペース、保護者誘導。控室前、衣装と備品の回収。
曲名もカウントも書かれていない。
「今日は踊る日じゃないかもしれない」
MAYU先輩が言った。
「でも、お客さんがいちばん困る日にはなる。だから、いつもより周りを見て」
私は紙を折り、ポーチへしまった。
この前の試合から、RIKA先輩とは必要なことしか話していない。
おはようございます。はい。了解です。ありがとうございました。
先輩も同じだった。
私が余計なことを考えるなと言われたわけではない。実際には、もっと自分のために考えてと言われた。
なのに、何を考えても間違う気がして、言葉が少なくなっていた。
「YOSHINO」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
RIKA先輩が控室の入口に立っている。髪はまだ巻かれておらず、濡れないように低い位置でまとめられていた。いつもの華やかな印象とは違って、黒いレインジャケットがよく似合っている。
「今日、一塁側コンコースの担当、お願い」
「はい」
「HINAと一緒に。中断になったら、勝手にお客さんを動かさないで。警備さんと相原さんの指示が先」
「分かりました」
「あと、笑顔はなくさなくていい。でも、無理に明るくしないで」
最後の言葉だけ、先輩は少しゆっくり言った。
私は頷いた。
「はい」
RIKA先輩はそれ以上何も言わず、次のメンバーへ指示を出しに行った。
私は、彼女の背中を見送った。
前なら、その横顔ひとつで一日が明るくなった。今は、分からないことが増えたぶんだけ、目を離せなくなっている。
試合開始前のウェルカムパフォーマンスは、半分の長さに短縮された。
空模様を気にする人が多いので、ゲート前で足を止める企画は作らない。写真撮影の列も、屋根のあるコンコースへ移す。衣装の上から着た薄手のジャケットは、踊るには少し重い。
それでも開場すると、客席はゆっくり埋まり始めた。
青いユニフォームの人たちが、傘を畳みながらゲートをくぐる。親子連れ。会社帰りらしいグループ。雨合羽を着たまま座席を探す人。誰もが、できれば試合を見たいと思ってここへ来ている。
「YOSHINOさん、写真いいですか?」
一塁側のコンコースで、小学生くらいの女の子が声をかけてきた。
赤い長靴を履き、透明な傘を脇へ立てかけている。
「もちろん。雨、大丈夫?」
「大丈夫! 今日、RIKAさんもいる?」
「いるよ。試合が始まったら、たくさん声を聞かせてくれると思う」
女の子は嬉しそうに笑った。
写真を撮るとき、私はいつものポーズではなく、傘の柄を持つような小さな振りをした。女の子も真似をする。
撮り終わったあと、彼女は私のジャケットの胸元を見た。
「ORBITって、雨の日も踊るの?」
「グラウンドが濡れてたら踊れない。でも、球場にはいるよ」
「なんで?」
私は少し迷った。
「応援したい人が、安心して応援できるようにするためかな」
女の子は納得したようで、「そっか」と言った。
その答えが正しかったかは分からない。でも、今の自分にはそれ以上の言葉が見つからなかった。
試合は予定どおり始まった。
アークスの先発投手がマウンドへ上がり、RIKA先輩の声がスタンドへ響く。いつもの明るい調子なのに、今日は少しだけ言葉を短くしていた。客席がグラウンドを見る時間を多く残すように。
私たちはフィールドの端で、雨が来る前の短い演出をこなした。
空は、一回表の途中から急に暗くなった。
風が吹き、外野の旗が強くはためく。二回裏、アークスの攻撃が始まるころには、客席のあちこちで傘が開き始めていた。
最初の雨粒は、照明の光のなかで銀色に見えた。
次の瞬間には、グラウンドの土を細かく叩く音へ変わる。
『ORBIT、フィールド離脱。雨天Aへ』
イヤーモニターに相原さんの声が入った。
私たちは曲の途中でも動きを止め、決められた通路へ下がる。濡れた人工芝は滑りやすい。走らない。衣装の裾を踏まない。後ろの人を確認する。
練習で何度もやったことなのに、実際の雨の中では、一つずつが難しい。
HINAが私の後ろで小さく息を飲んだ。
「大丈夫?」
「うん。靴、ちょっと滑る」
「手すり側、歩こう」
私たちは客席へ向かう人の流れと逆に、コンコースへ戻った。
そこには、すでに雨を避けた人たちが集まり始めていた。濡れたポンチョの音。子どもの泣き声。スマートフォンで天気図を見る人。スタッフの案内に耳を傾ける人。
球場は、急に狭くなったように感じた。
四回表の途中で、試合は中断になった。
グラウンドへ大きなシートが引かれ、選手たちはベンチの奥へ下がる。ビジョンには「雨天中断中」と表示され、次の案内が出るまで座席周辺で待つようにと繰り返し流れた。
私とHINAは一塁側コンコースの柱の近くに立ち、警備スタッフの補助に入った。
やることは地味だった。
通路の真ん中で立ち止まる人へ、屋根のある壁側へ寄ってもらう。濡れた階段へ走り出そうとする子どもに、ゆっくり歩こうと声をかける。車椅子の人が通れる幅を残す。ベビーカーを押す人が迷っていれば、近いエレベーターを示す。
私たちが言葉をかけると、ORBITの衣装に気づいて立ち止まりそうになる人もいた。
「写真は、またあとでお願いします」
私は笑って言った。
「今は、こっちの方が空いてます」
仕事をしていると、さっきまで頭にあったRIKA先輩の言葉は少し遠のいた。
誰かが転ばないようにする。迷わず移動できるようにする。それだけで、目の前のことはいっぱいになる。
「すみません、子どもが……」
不意に、震えた声が聞こえた。
振り返ると、若い母親らしい人が、傘と荷物を抱えたまま周りを見回していた。足元には、途中まで食べられたポップコーンが落ちている。
「どうしました?」
「さっき、トイレの前で手を離しちゃって。赤い帽子の、男の子で」
私はHINAを見た。
HINAはすぐに、近くの警備スタッフを呼ぶ。私は母親の名前と、子どもの年齢、服の色を確認した。二人だけで探しに行くのではなく、スタッフの連絡網へ乗せてもらう。
そのあいだ、母親は何度も「すみません」と言った。
「大丈夫です。今、探してもらってます。ここで待ちましょう」
言いながら、私は自分の声が少し震えているのを感じた。
数分後、無線を持った警備スタッフが、通路の向こうを指さした。
赤い帽子の男の子が、別の係員に手をつながれて歩いてくる。
母親が駆け寄り、男の子を抱きしめた。男の子は驚いた顔をしていたが、すぐに泣き出した。
「ごめんなさい」
「一人で行かないで」
そのやりとりを、私は少し離れた場所から見ていた。
野球を見に来た夜が、誰かにとって嫌な思い出にならずに済んだ。
それだけで、胸の奥がゆっくりあたたかくなる。
HINAが小声で言った。
「今日、私たち、全然チアっぽくないね」
「うん」
「でも、なんか……ちゃんと仕事してる感じする」
私は笑った。
「うん。する」
そのとき、近くにいた小学生くらいの男の子が、手すりの向こうのビジョンを見上げたままHINAに聞いた。
「試合、また始まる?」
HINAは反射的に口を開いた。
「たぶん……」
その一語で、彼女が止まる。
ビジョンにはまだ何も出ていない。私たちにも、再開するかどうかは分からない。
「ごめん。私たちにはまだ分からない。係員さんが新しい案内を知ってるから、一緒に聞こう」
HINAはしゃがみ込み、男の子と同じ高さで言い直した。近くの案内スタッフを呼ぶと、男の子は母親の手を握り直した。
スタッフが離れたあと、HINAは小さな声で言う。
「場を明るくしなきゃって、適当なこと言いそうになった」
「止まれたよ」
「それだけ?」
「それも大事な仕事だと思う」
HINAは少しだけ困ったように笑い、それから通路の先を見た。
中断から四十分が経ったころ、雷の接近が確認された。
ビジョンの案内が、待機から一時避難へ変わる。スタッフの声が少しだけ緊張を帯びた。
『ORBIT、コンコース各担当。避難案内補助、継続。パフォーマンスなし。お客さんに待機を促す言い方はしない』
最後の一文が、イヤーモニターに残った。
試合を見たい人にとっては、待っていてほしいと言われる方が嬉しいかもしれない。でも、帰る判断をする人もいる。子どもがいる人。遠方から来た人。雨の中を帰らなければならない人。
私たちが、楽しいことがこのあとあるように見せて引き留めてはいけない。
それもまた、野球場で働く人の約束だった。
RIKA先輩の声が、場内放送から聞こえた。
「ただいま、雷を伴う雨の影響により、試合を中断しております。お足元の悪いなかご来場いただき、ありがとうございます。係員の案内に従い、どうか落ち着いてご移動ください」
いつもの盛り上げる声とは違う。
でも、聞いた人の肩を少し下ろさせるような、低くてやわらかい声だった。
私は柱の向こうにあるスピーカーを見上げた。
RIKA先輩は、どこで話しているのだろう。濡れた衣装を脱いで、次の指示を聞きながら、同じように誰かが困らないよう考えているのだろうか。
あの人は、何をしても目立つ。
でも今、目立つために話しているわけではないと、私は初めてはっきり分かった。
午後八時十二分、試合はノーゲームになった。
四回表の途中だったため、今日のスコアは残らない。失点も、打席も、さっきまでの歓声も、公式の記録からは消える。
ビジョンに中止の文字が出ると、コンコースには大きなため息が広がった。
責めるような声は少なかった。雨を見れば仕方ないと分かる。分かるからこそ、楽しみにしてきた気持ちの置き場がない。
ORBITには、予定されていたお見送りの列も、勝敗に合わせたエンディングもなかった。
私たちはスタッフの指示で、出口へ向かう通路の端に立った。
傘を広げる人の邪魔にならない位置で、ただ手を振る。
「お気をつけてお帰りください」
「また、お待ちしています」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
さっき写真を撮った赤い長靴の女の子が、両親と一緒に通った。彼女は少し残念そうな顔で、透明な傘の内側から私を見た。
「今日は踊れなかったね」
「うん。でも、また今度ね」
「RIKAさんにも、また今度って言って」
「言うね」
女の子は小さく手を振り、雨の向こうへ消えていった。
私は、その背中へもう一度手を振った。
客席が空になるまでには、思ったより時間がかかった。
そのあとも、私たちの仕事は終わらない。濡れた衣装を回収し、使わなかったポンポンを数え、タオルを分け、備品の箱に水が入っていないか確かめる。今日の反省会は、普段より短かった。
「みんな、誘導おつかれさま」
相原さんは、紙コップの温かいお茶を片手に言った。
「特に新人二人、よく周りを見てました。今日はそれで充分」
HINAが、少しだけ胸を張った。
私も嬉しかった。
RIKA先輩は、机の端でキュー表をまとめている。私と目が合うと、一度だけ頷いた。
それはたぶん、よくできたという意味だった。
でも、私たちはどちらもそこから先の言葉を足さなかった。
全員が帰る準備を始めたころ、私は控室にイヤーモニターのケースを置き忘れたことに気づいた。
HINAには先に帰ってもらい、私は一人で廊下を戻る。
球場は、さっきまでの混雑が嘘のように静かだった。遠くで排水の音がする。通路の窓から見えるグラウンドには、まだ大きなシートがかかっている。
試合はなかったことになる。
でも、今日ここにいた人たちの時間まで消えるわけではない。
控室の近くまで来たとき、細い歌声が聞こえた。
最初は、どこかのスタッフが音楽を流しているのかと思った。
けれど伴奏はない。誰かが、低く、丁寧に歌っている。
歌詞は聞き取れなかった。雨の音に紛れるくらいの声で、長い息を使って一つの音を伸ばしている。舞台で聞くRIKA先輩の声とは違った。もっと近くて、少しだけ危うい声だった。
私は足を止めた。
声は、控室の隣にある小さな練習室から聞こえていた。
扉が完全には閉まっていない。中を覗くつもりはなかったのに、曲が終わると同時に、私は息を吸ってしまった。
「誰?」
RIKA先輩の声がした。
見つかった。
私は慌てて扉の前へ出た。
「すみません。イヤーモニター、忘れて……」
「YOSHINO」
練習室には、鏡と古いスピーカーしかない。RIKA先輩は窓際に立ち、濡れた髪をタオルで拭いていた。メイクはほとんど落としていて、ステージで見る顔より少し幼く見える。
「盗み聞きするつもりじゃなくて」
「分かってる。扉、閉めてなかったし」
先輩はそう言ったけれど、すぐに笑うことはなかった。
私も、逃げるように戻るべきだと思った。でも、さっきの歌が耳に残っていて、足が動かない。
「すごく、きれいでした」
言うと、RIKA先輩は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
「あれ、何の曲ですか」
「昔、養成所で歌ってた課題曲」
私は、顔を上げた。
養成所。
RIKA先輩がアイドルを目指していたことは、メンバーの間では知られている。でも、本人から聞くのは初めてだった。
「ずっと歌ってたんですか」
「高校のころから。歌もダンスも、ステージに立つことも好きだったから」
「それで、アイドルに?」
「うん」
先輩は短く答え、鏡のほうを見た。
そこには、濡れた髪の自分が映っている。
「RIKAって名前も、たぶんもっと華やかな由来があると思ってた?」
私は思わず頷いた。
先輩は初めて、少しだけ楽しそうに笑った。
「理科の理科。学校で一番得意だった科目」
「え」
「本当。歌の成績より、生物と化学のほうがよかった」
私は笑ってしまった。
笑っていいのか迷ったけれど、RIKA先輩も笑っていた。
「意外です」
「よく言われる」
「でも、なんか、先輩らしいです」
「どこが?」
「ちゃんと理由があるところ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
先輩はタオルを畳み、椅子の背へかけた。
「YOSHINOは、どうしてYOSHINOなの」
心臓が跳ねた。
活動名の由来を聞かれるのは初めてではない。でも、RIKA先輩に聞かれると、急に大事なことのように思える。
「苗字です。吉野紬の、吉野」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「なんとなく。名前っぽく名乗ってるのに、苗字っぽい顔してるから」
「苗字っぽい顔って何ですか」
「分かんない。でも、YOSHINOはYOSHINOって感じがする」
その言い方が可笑しくて、私はまた笑った。
さっきまで控室にあった重さが、少しだけ薄くなる。
しばらく、雨音だけが続いた。
RIKA先輩は、壁際に置かれた小さなスピーカーを指先で撫でていた。
「養成所ではね、十代のうちに声がかからなかったら、別の道を考えた方がいいってよく言われた」
急に、先輩はそう言った。
私は黙って聞いた。
「怖がらせるために言ってるんじゃない。あの世界は、そういうところがあるから。何人も見送って、何人かだけが残る」
「RIKA先輩は、残れなかったんですか」
聞いてから、あまりに直接的だったと思った。
でも先輩は怒らなかった。
「どこにも選ばれなかった。私より可愛い子も、歌がうまい子も、いっぱいいたし」
淡々とした言い方だった。
きっと、何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのだと思う。
「ORBITを紹介されたとき、最初は、ここで何をするんだろうって思った。私はアイドルになるために踊ってきたのに、野球のために踊るんだって」
先輩は窓の外を見た。
シートのかかったグラウンドは、照明が落とされて黒く見える。
「でも、やってみたら好きだった。こんなに毎日違うことが起きる場所、他にないから。勝てば知らない人と抱き合って、負ければ知らない人のため息を聞く。誰かの一日を、ほんの少しだけ明るくできる」
声が、少しだけ揺れた。
「だから、余計に困るの。好きなのに、これでいいって言ったら、昔の自分を裏切るみたいで」
私は何も言えなかった。
RIKA先輩は、チアの仕事を軽く見ているのではない。むしろ好きになってしまったから、夢を諦めたと認めることが怖いのかもしれない。
その痛みを、私はまだ全部は分からない。
でも、分からないまま黙っていることならできた。
「YOSHINOは、本当にここで満足なの?」
先輩が聞いた。
雨の音が、少し強くなった気がした。
私は考えた。
プロ野球のチアになるのが夢だった。それは本当だ。入団試験に受かった日、これ以上ないくらい嬉しかった。今も、ユニフォームを着るたびに嬉しい。
でも、満足という言葉は、なぜか少し違う。
「満足、ではないです」
私は言った。
「まだ何もできてないから。先輩みたいにMCもできないし、試合を見て演出を変えることも、雨の日に何をすればいいかも分からない」
「うん」
「でも、ここで終わりたいわけじゃないです。ここで、もっとできるようになりたい」
言葉にしてみると、それは自分でも少し驚くほどまっすぐだった。
RIKA先輩は、私を見た。
「そう」
それだけ言って、少し笑った。
その笑顔には、いつものステージ上の強さよりも、かすかな寂しさが混じっていた。
「YOSHINOは、そう言えるんだね」
「変ですか」
「変じゃない。羨ましいだけ」
私は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
先輩はもう一度、窓の外へ視線を戻した。
「今日の誘導、よかったよ。さっき見てた」
「見てたんですか」
「うん。あの子を探してたお母さん、落ち着かせてたでしょう」
「私は、警備さんを呼んだだけです」
「呼ぶべき人を呼べるのは、ちゃんと仕事が見えてる人だけ」
先輩は、今度こそいつものように微笑んだ。
「YOSHINOは、踊れない日に何をするか、もう少し分かってきてると思う」
胸の奥に、小さな灯りがついた。
褒められたかったわけではない、と言えば嘘になる。
でも、今日はそれだけではなかった。先輩が私のことを見て、言葉を選んでくれたことが嬉しかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
RIKA先輩は、練習室のドアへ向かった。
「忘れ物、取りに行くんでしょう」
「はい」
「傘、持ってる?」
「持ってないです」
「じゃあ、駅まで入って。私の、少し大きいから」
先輩は壁際に立てかけてあった黒い傘を取った。
私は断ろうとして、やめた。
「お願いします」
球場を出るころには、雨は細くなっていた。
一つの傘の下を、私とRIKA先輩は少し間を空けて歩く。肩が触れないように気をつけているのに、風が吹くたび、傘の端から雨が入りそうになる。
先輩が黙って、私のほうへ傘を傾けた。
そのせいで、先輩の右肩が少し濡れた。
「先輩、そっちが」
「大丈夫」
「でも」
「今日、YOSHINOはよく働いたから」
理由になっていない。
そう思ったのに、私は何も言えなかった。
駅までの道には、試合が中止になった球場から帰る人たちが、まだぽつぽつ歩いている。手には濡れた応援タオル。足元には水たまり。誰も勝利の歌を口ずさんでいない。
それでも、また来るのだろうと思った。
そのときまでに、私はもう少し上手に、白線の外側で立っていたい。
隣の人の夢も、迷いも、まだ全部は分からないまま。
雨の夜の帰り道だけは、同じ傘の下にいた。
駅までの道が、もう少し遠ければいいのにと一瞬思って、自分で驚いた。




