第四章 センターは誰のもの
センターに立つとき、私は客席を見ないようにしている。
正確には、見えていても、見られていることを考えないようにしている。
中央に立てば、自然に視線は集まる。隣のメンバーより一歩前に出る。カメラが寄る。音楽が鳴る。その全部を受け取ってしまえば、踊りはすぐに自分のものになる。
ORBITのセンターは、私のための位置ではない。
選手紹介の声を届けるため。客席の手拍子を揃えるため。隣に立つメンバーがそれぞれきれいに見えるようにするため。
そう分かっているから、私は鏡を見ない。
「RIKA、次、入りが半拍遅い」
MAYUが鏡の向こうから言った。
「ごめん」
私は音楽を止め、息を整えた。
七月の最初の週。アークスの夏季イベントに向けて、ORBITは午前からレッスンスタジオに入っている。子ども向け野球教室のオープニング、午後のステージ、翌日のホームゲームで流す短い動画。試合のない日なのに、覚えることは普段より多かった。
スタジオの隅には、青いミニバットと子ども用のポンポンが段ボールに詰められている。床には、誰がどの時間にどの場所へ立つかを書いた養生テープが貼られていた。
「もう一回、頭から」
MAYUが言う。
音楽が流れ始める。
私は最初の位置についた。
右前方にYOSHINOがいる。開幕のころより、動きが変わった。肩を上げすぎない。客席へ向ける目線を長く取りすぎない。何より、曲が途切れても慌てない。
この前、雨天中止のあとに一緒の傘で駅まで歩いた。
あのときのYOSHINOは、少しだけ私を許してくれたように見えた。
それが嬉しかった。
嬉しかったから、困っている。
私は彼女のことを、後輩として気にかけるだけで済ませたかった。
そういう立場でいられるはずだった。
レッスンの休憩中、私はスマートフォンを確認した。
通知は一件だけだった。
差出人の名前を見た瞬間、画面を閉じたくなった。
南雲先生。
高校を卒業してから二年通った、アイドル養成所の歌唱コーチだ。レッスンの終わりに「今日は息が浅い」と言いながら、いつも私より先にスタジオの電気を消していた人。
メッセージを開く。
『久しぶり。急な話だけど、知り合いの事務所が五人組の新ユニットを作ってる。歌える子を探していて、玲奈のことを思い出した。年齢条件にはまだ入る。興味があるなら、今週中に一度会わない?』
画面の文字は短い。
なのに、読んだあとしばらく指が動かなかった。
年齢条件にはまだ入る。
その言い方が、先生らしかった。
十代のうちに声がかからなかった人間にとって、二十三歳は若いとも遅いとも言えない年齢だ。誰かにとってはまだ入口で、誰かにとってはすでに次の人を探す年齢。
私はもう、養成所を辞めたはずだった。
RIKAという名前で球場に立つようになって、四年目になる。ここでの私は、歌がうまい人でも、落ちた人でもない。アークスの試合開始を告げる人で、勝っても負けてもマイクを持つ人だ。
それでいいはずだった。
「RIKAさん?」
顔を上げると、YOSHINOが目の前に立っていた。
「大丈夫ですか。次、始まります」
「うん。大丈夫」
私は反射的に笑い、スマートフォンを伏せた。
YOSHINOはそれ以上聞かなかった。
聞かないでいてくれることに、私は少し安心して、少しだけ残念になった。
翌日のアークス夏祭りは、朝から暑かった。
東雲アークスパークの外周に、小さなテントが並ぶ。選手会が開く野球教室、球団スタッフによるグラウンドツアー、地元商店街の屋台。ORBITは、開会のミニステージと、子どもたちへの応援ダンス体験を任されていた。
ステージに立つのは短い時間だ。
それより長いのは、その前後だった。小さな子がフィールドへ走り出さないようにする。バットを振る位置を確認する。保護者が写真を撮る間も、通路を塞がないよう声をかける。暑さで顔色が悪くなった子がいれば、すぐスタッフへ繋ぐ。
それでも、子どもたちは楽しそうだった。
プロの選手が目の前でキャッチボールをするだけで、大きな歓声が上がる。私たちが教えた簡単な手拍子を、見よう見まねで繰り返す。振付というより、ただ好きだと伝えるための動きだった。
最初に子どもたちの前へ出たのはHINAだった。肩を大きく使う、彼女らしい元気な動き。上の学年の子たちはすぐ真似をしたが、背の低い子が二人、カウントに追いつけずに手を止める。
HINAはすぐに自分の動きを止めた。
「ごめん、私の速さだった。いったん、腕を大きく回すのなし。小さくやろう」
笑って言ったけれど、頬は少し赤かった。
「じゃあ、次はYOSHINO先生!」
MAYUがマイクで呼ぶと、子どもたちが一斉にYOSHINOを見る。
YOSHINOは一瞬だけ驚いた顔をして、それから前へ出た。
「先生っていうほどじゃないけど」
小さく笑い、子どもたちと同じ高さになるように膝を曲げる。
「打った選手が走るとき、みんなは何する?」
「おうえん!」
「そう。じゃあ、応援の手を作ろう」
彼女は、両手を胸の前で軽く握った。
大きく見せるための動きではない。小さな子でもできて、隣の人と合わせられる動き。タイミングを外しても、笑ってやり直せる。
子どもたちが真似をする。
一人の女の子が、うまく手を上げられずに立ち尽くしていた。YOSHINOはすぐ近くへ行き、女の子の腕を無理に持ち上げるのではなく、自分の動きをゆっくり小さくした。
「ここまでで大丈夫。できたね」
女の子はようやく笑った。
その笑顔を見たとき、私は喉の奥が少し詰まった。
少し離れたところで見ていたHINAが、YOSHINOの横へ寄った。
「私、踊れる子に合わせすぎた」
「HINAの動きが好きな子もいたよ」
「じゃあ、最初は小さくして、後半だけ大きくする。できる子も、まだ難しい子も置いていかない」
HINAは自分のポンポンを見てから、今度は少しだけ笑った。
YOSHINOは、私が教えたとおりに動いているわけではない。
彼女なりのやり方で、目の前の人に届くものを探している。
それが分かるから、嬉しい。
嬉しいのに、どうして胸の底が落ち着かないのか、私は知っていた。
昼休み、相原さんに呼ばれた。
球場の会議室には、広報のスタッフとカメラマンが集まっている。翌日のホームゲームに流す、夏休みキャンペーンの短い動画についての打ち合わせだった。
「今回、“はじめての野球観戦”がテーマなんです」
広報の女性が資料をめくった。
「ORBITの皆さんに、観戦中の楽しみ方を紹介してもらいます。RIKAさんはナレーションと締めをお願いしたくて」
「分かりました」
「それから、現場で子どもたちとのやり取りがすごく自然だったので、YOSHINOさんをメインに撮りたいです」
私は一度、資料から目を上げた。
YOSHINOは会議室の外で、子どもたちの片づけを手伝っている。ガラス越しに見える背中は、汗で少し髪が首に張りついていた。
「もちろん、全員出ます」
広報の女性が補足する。
「でも最初に映るのはYOSHINOさんがいいかなと。SNSでも、新人のなかでは反応が早いので」
私の中に、ほんの小さな棘が立った。
自分でも情けないと思う。
YOSHINOが選ばれるべきだと思う。若くて、愛嬌があって、子どもの目線に降りられる。球場に初めて来る人を迎える顔として、これ以上ない。
それでも、最初に映るのが自分ではないと聞いて、身体のどこかが緊張した。
センターに立つことを、自分のために考えないようにしてきた。
けれど、私が立たなくていい場所が増えることは、思っていたより怖かった。
「いいと思います」
私は言った。
声は、ちゃんといつもどおりだった。
撮影は、午後の強い日差しのなかで始まった。
YOSHINOはカメラの前でも変わらなかった。台本を読むより、目の前にいる子どもへ自然に話しかける。取り直しになっても焦らない。スタッフが「今の、もう少しゆっくり」と言えば、次はきちんと直す。
私なら、もっと正しい声を出せる。
もっと上手に、カメラへ笑いかけられる。
でも、YOSHINOの前では、それが大したことではないように見えた。
彼女は上手く見せようとしていないのに、見ていたくなる。
そのことが、羨ましかった。
撮影の合間、彼女が私の隣へ来た。
「RIKA先輩、私、最初で大丈夫ですか」
「何が?」
「動画です。先輩が最初の方が、ちゃんとするかなって」
私は一瞬、言葉を失った。
YOSHINOは本当に、私を立てようとしている。私の機嫌を取っているのではなく、作品が良くなると思って言っているのだ。
だから余計に、腹が立った。
「広報が決めたんでしょう。なら、それでいい」
少し強い声になった。
YOSHINOの表情が固まる。
「はい」
彼女はそれだけ言い、すぐ撮影位置へ戻った。
私は自分の腕を掴んだ。
何をしているのだろう。
後輩が自分を気遣うほど、私は小さくなる。
イベントが終わったあと、私は誰もいない三塁側の通路へ逃げた。
観客席には、まだ夏の熱が残っている。掃除のスタッフが、紙コップを回収していた。
スマートフォンを見る。
南雲先生から、もう一通来ていた。
『詳細を送るね。一次は動画審査。歌と自己紹介。締切は来週水曜』
添付された募集要項には、事務所の名前と、五人組ユニットのコンセプトが書かれていた。
“日常に、少しだけ特別な光を。”
見慣れた言葉だった。
私もずっと、そういう人になりたかった。
誰かの退屈な帰り道を変える人。画面の向こうで笑っていて、学校や仕事が嫌な日に思い出してもらえる人。客席の端ではなく、真ん中で拍手を受ける人。
今の私は、何者なのだろう。
ORBITで一番人気だと言われる。声がいいと言われる。MCを任される。
それでも、アイドルになれなかった人間だという事実は、どこにも消えない。
「先輩」
振り返ると、YOSHINOがいた。
荷物を抱えたまま、通路の入口で立ち止まっている。
「忘れ物?」
「違います。MAYU先輩が、先に帰っていいって」
「そう」
私はスマートフォンを伏せた。
YOSHINOはしばらく動かなかった。何か言いたいことがあるのだとすぐ分かる。
「さっき、すみませんでした」
「何が?」
「動画のこと。私、先輩がやりたかったなら、ちゃんと断ればよかったです」
まただ。
彼女は、自分が選ばれたことまで謝ろうとする。
私は、それがどうしようもなく嫌だった。
「YOSHINOは、このままずっとORBITで踊りたいの?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
YOSHINOが目を丸くした。
「え?」
「プロのチアになるのが夢だったんでしょう。叶ったなら、次はどうするの」
言葉は、考えるより先に続いた。
「もっと前に出られる。テレビにも出られる。歌だって、演技だって、やろうと思えばできる。なのに、どうしてここで満足しようとするの」
YOSHINOの顔から、少しずつ笑顔が消えた。
「私は、満足しようとしてません」
「じゃあ、何?」
「ここで、もっとできるようになりたいって思ってます」
雨の日に聞いた答えと同じだった。
あのときは、まっすぐで羨ましいと思った。
今は、そのまっすぐさに置いていかれる気がする。
「それでいいの?」
私の声は、思ったより冷たかった。
「私は、よくないと思う」
「どうしてですか」
「YOSHINOなら、もっと行けるから」
「先輩が、ここを途中だと思うのは勝手です」
その言葉で、息が止まった。
YOSHINOは震えていた。でも、目を逸らさなかった。
「でも、私まで同じように思わないでください。ORBITは、私にとって途中じゃありません」
正しい。
あまりに正しくて、何も返せない。
私がここを仮の場所と呼んでいることを、彼女はずっと気づいていたのかもしれない。
それでも私は、引けなかった。
「あなたは、私を見てORBITに入ったんでしょう」
YOSHINOの目が揺れた。
「だったら、私より先に、ここを正解にしないで」
言った瞬間、自分が何を言ったのか分かった。
YOSHINOに向けた言葉ではない。何年も前、養成所の鏡の前に立っていた自分へ向けた、みっともない言葉だ。
でも、取り消すことはできなかった。
「……先輩、私のこと、可愛がってくれてるんだと思ってました」
YOSHINOは小さく言った。
その声の方が、怒鳴られるよりずっと痛かった。
「でも、先輩は私に、先輩と同じように困ってほしいんですね」
私は何も言えなかった。
YOSHINOは一度だけ頭を下げ、そのまま通路の向こうへ歩いていった。
呼び止めるべきだった。
謝るべきだった。
なのに私は、手に持ったスマートフォンの画面すら見られず、その場に立ち尽くしていた。
帰り支度をしていると、MAYUが控室の外で私を待っていた。
彼女はいつも、誰かが残していった物を最後に確認する。今日も、床に落ちたテープと、水筒と、私の顔を見比べていた。
「YOSHINO、先に帰ったよ」
「うん」
「泣いてた?」
「泣いてない」
「そう」
MAYUはそれ以上聞かなかった。
でも、私が黙っていると、やがて小さく言った。
「RIKAは、あの子を育てたいのか、止めたいのか、どっち?」
答えられなかった。
「……分からない」
「分からないなら、傷つける前に黙っててもいいんだよ」
その言葉に、私は笑いそうになった。
遅い。もう傷つけたあとだった。
MAYUは私の手元を見た。
スマートフォンの画面には、募集要項のままの文字が残っている。
「何か来た?」
「昔の先生から。オーディションの話」
MAYUは少しだけ驚いたが、すぐに表情を戻した。
「受けるの?」
「分からない」
「そっか」
彼女は、肯定も否定もしなかった。
「受けるなら、ちゃんと受けなよ。ORBITを言い訳にしないで」
言われて、胸の奥が痛んだ。
YOSHINOにも似たようなことを言った。もっと前へ行けるのに、ここに留まるなと。
でも、本当に留まっているのは誰なのだろう。
翌日のホームゲームは、夏休みキャンペーンの初日だった。
球場のビジョンに、昨日撮った動画が流れる。最初に映ったのは、青いポンポンを持ったYOSHINOだった。
“はじめての観戦、ようこそ。”
彼女はカメラの向こうの誰かへ、少し照れながら笑っている。
客席の子どもたちが、昨日教えた小さな手拍子を真似した。
私は三塁側の待機スペースで、その映像を見ていた。
YOSHINOは、私の後ろを歩くためにここへ来たわけではない。
そんな当たり前のことを、私は勝手に忘れていた。
試合開始直前、彼女が列の前方に入ってくる。
目が合った。
YOSHINOはいつもなら会釈をする。今日は一瞬迷ってから、それでも小さく頭を下げた。
私は返した。
それしかできなかった。
アナウンスの合図が入る。
私はマイクを握った。
客席の歓声を受け、いつもの言葉を言う。
「皆さん、お待たせしました」
声は、きちんと出た。
その夜、アークスは七回まで二点を追っていた。
試合の流れは悪くない。先発投手は早い回で失点したあと粘っているし、打線も何度か得点圏まで走者を進めている。ただ、あと一本だけが出ない。応援歌が終わるたびに、客席から低いため息が漏れた。
私は八回表の守備中、三塁側の通路で次のコールの準備をしていた。
少し前に、七回裏の新しいRALLYを使った。YOSHINOが中心ではない。全員が同じ位置に散り、誰か一人を目立たせない振付だ。
それでも、彼女はすぐに分かった。
客席へ向ける手の高さも、打席へ戻す視線も、開幕のころよりずっと自然になっている。自分が前へ出たいと思う勢いを、彼女はなくしたのではない。必要なときにだけ出せるようになった。
私が教えたからではない。
彼女が、自分で考えたからだ。
それが分かるたび、胸の奥が少し痛む。
『ORBIT、八裏。キッズカメラからホーム応援へ、そのまま繋げます』
相原さんの声が入った。
ビジョンに、初めての観戦らしい家族を映す企画だ。客席を盛り上げる短いコーナーだが、試合が動きそうなときは、すぐ打席へ視線を戻す必要がある。
カメラは一塁側の、まだ小さな子どもを映した。
青いユニフォームが少し大きい男の子。隣にいる父親が、何度もスコアボードを見ている。
男の子は、周りの人が手を叩き始めても、どうすればいいのか分からないようだった。
YOSHINOが通路の端に立つ。
カメラのためではなく、その男の子のためだけに、昨日の野球教室で教えていた小さな手拍子を始めた。
胸の前で、二回。休んで、二回。
男の子が真似をする。
父親が笑う。
近くの人たちも、自然に同じ拍子を打ち始めた。
私はマイクを持ったまま、その場面を見ていた。
声を足す必要はなかった。YOSHINOが作った小さな輪が、打席の方へ向かっていく。カメラはすぐに打者を映し、客席の拍手だけが残った。
次の球を、アークスの代打が振り抜いた。
打球は左中間を破り、二者が生還する。同点。
球場の屋根が揺れるほどの歓声が上がった。
私はその歓声に合わせ、次のコールを入れた。声が勝手に高くなる。ORBITはすぐに所定の位置へ散り、選手が二塁へ滑り込む姿を邪魔しない角度で腕を上げた。
続く打者の犠牲フライで、アークスが勝ち越す。
八回裏の攻撃が終わったとき、スタンドにはさっきまでとは違う熱があった。
私たちが試合を変えたわけではない。
YOSHINOの手拍子が打球を飛ばしたわけでもない。
ただ、打席へ立つ選手を待つ人たちの気持ちが、同じ瞬間にひとつの音になった。その場所に彼女がいた。
それだけで、十分だった。
アークスは三対二で勝った。
連敗が止まった日の勝利パフォーマンスは、開幕戦より少しだけ長かった。選手が外野前に並び、客席へ手を振る。私たちはその脇で踊り、主役たちの背中を明るく見せる。
YOSHINOはいつもの位置にいた。
終演後、列を離れる直前に、客席の男の子が彼女へ両手を上げた。YOSHINOも同じ動きで返す。
それだけのやりとりを見て、私は胸の奥にあった棘が、少しだけ鈍くなるのを感じた。
彼女はここで、もう十分に自分の場所を作り始めている。
それを怖いと思うのは、YOSHINOが間違っているからではない。私が、自分の場所をまだ自分で選べていないからだ。
控室へ戻る途中、私は一度だけ彼女の近くを通った。
謝る言葉は、まだ見つからない。
それでも、何も言わずに通り過ぎるのは卑怯だと思った。
「YOSHINO」
彼女が振り返る。
「さっきの、よかった」
私はそれだけ言った。
謝罪ではない。動画のことも、通路で言ったことも、何ひとつなかったことにはできない。それでも、彼女が今日の仕事をしたことまで、私の意地で黙っていたくはなかった。
YOSHINOの表情はすぐにはほどけなかった。けれど、ゆっくりと頷く。
「ありがとうございます」
前と同じ言葉だった。
でも、前と同じ距離ではなかった。
控室の鏡には、勝利パフォーマンスを終えたORBITの姿が映っている。汗で崩れた髪、少しずつ違う笑顔、片づけを急ぐ手。誰か一人だけが光っているわけではない。私はその中にいて、まだ自分がどこへ行きたいのか決められずにいた。
メンバーの話し声を背中に受けながら、私は控室の外へ出た。
スマートフォンにはまだ、応募フォームを開くためのリンクが残っている。
私はどちらの画面も見ないまま、白線の外側へ歩き出した。
その迷いを、まだ誰にも見せるわけにはいかなかった。




