↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

第四章 センターは誰のもの

 センターに立つとき、私は客席を見ないようにしている。

 正確には、見えていても、見られていることを考えないようにしている。

 中央に立てば、自然に視線は集まる。隣のメンバーより一歩前に出る。カメラが寄る。音楽が鳴る。その全部を受け取ってしまえば、踊りはすぐに自分のものになる。

 ORBITのセンターは、私のための位置ではない。

 選手紹介の声を届けるため。客席の手拍子を揃えるため。隣に立つメンバーがそれぞれきれいに見えるようにするため。

 そう分かっているから、私は鏡を見ない。

「RIKA、次、入りが半拍遅い」

 MAYUが鏡の向こうから言った。

「ごめん」

 私は音楽を止め、息を整えた。

 七月の最初の週。アークスの夏季イベントに向けて、ORBITは午前からレッスンスタジオに入っている。子ども向け野球教室のオープニング、午後のステージ、翌日のホームゲームで流す短い動画。試合のない日なのに、覚えることは普段より多かった。

 スタジオの隅には、青いミニバットと子ども用のポンポンが段ボールに詰められている。床には、誰がどの時間にどの場所へ立つかを書いた養生テープが貼られていた。

「もう一回、頭から」

 MAYUが言う。

 音楽が流れ始める。

 私は最初の位置についた。

 右前方にYOSHINOがいる。開幕のころより、動きが変わった。肩を上げすぎない。客席へ向ける目線を長く取りすぎない。何より、曲が途切れても慌てない。

 この前、雨天中止のあとに一緒の傘で駅まで歩いた。

 あのときのYOSHINOは、少しだけ私を許してくれたように見えた。

 それが嬉しかった。

 嬉しかったから、困っている。

 私は彼女のことを、後輩として気にかけるだけで済ませたかった。

 そういう立場でいられるはずだった。


 レッスンの休憩中、私はスマートフォンを確認した。

 通知は一件だけだった。

 差出人の名前を見た瞬間、画面を閉じたくなった。

 南雲先生。

 高校を卒業してから二年通った、アイドル養成所の歌唱コーチだ。レッスンの終わりに「今日は息が浅い」と言いながら、いつも私より先にスタジオの電気を消していた人。

 メッセージを開く。

『久しぶり。急な話だけど、知り合いの事務所が五人組の新ユニットを作ってる。歌える子を探していて、玲奈のことを思い出した。年齢条件にはまだ入る。興味があるなら、今週中に一度会わない?』

 画面の文字は短い。

 なのに、読んだあとしばらく指が動かなかった。

 年齢条件にはまだ入る。

 その言い方が、先生らしかった。

 十代のうちに声がかからなかった人間にとって、二十三歳は若いとも遅いとも言えない年齢だ。誰かにとってはまだ入口で、誰かにとってはすでに次の人を探す年齢。

 私はもう、養成所を辞めたはずだった。

 RIKAという名前で球場に立つようになって、四年目になる。ここでの私は、歌がうまい人でも、落ちた人でもない。アークスの試合開始を告げる人で、勝っても負けてもマイクを持つ人だ。

 それでいいはずだった。

「RIKAさん?」

 顔を上げると、YOSHINOが目の前に立っていた。

「大丈夫ですか。次、始まります」

「うん。大丈夫」

 私は反射的に笑い、スマートフォンを伏せた。

 YOSHINOはそれ以上聞かなかった。

 聞かないでいてくれることに、私は少し安心して、少しだけ残念になった。


 翌日のアークス夏祭りは、朝から暑かった。

 東雲アークスパークの外周に、小さなテントが並ぶ。選手会が開く野球教室、球団スタッフによるグラウンドツアー、地元商店街の屋台。ORBITは、開会のミニステージと、子どもたちへの応援ダンス体験を任されていた。

 ステージに立つのは短い時間だ。

 それより長いのは、その前後だった。小さな子がフィールドへ走り出さないようにする。バットを振る位置を確認する。保護者が写真を撮る間も、通路を塞がないよう声をかける。暑さで顔色が悪くなった子がいれば、すぐスタッフへ繋ぐ。

 それでも、子どもたちは楽しそうだった。

 プロの選手が目の前でキャッチボールをするだけで、大きな歓声が上がる。私たちが教えた簡単な手拍子を、見よう見まねで繰り返す。振付というより、ただ好きだと伝えるための動きだった。

 最初に子どもたちの前へ出たのはHINAだった。肩を大きく使う、彼女らしい元気な動き。上の学年の子たちはすぐ真似をしたが、背の低い子が二人、カウントに追いつけずに手を止める。

 HINAはすぐに自分の動きを止めた。

「ごめん、私の速さだった。いったん、腕を大きく回すのなし。小さくやろう」

 笑って言ったけれど、頬は少し赤かった。

「じゃあ、次はYOSHINO先生!」

 MAYUがマイクで呼ぶと、子どもたちが一斉にYOSHINOを見る。

 YOSHINOは一瞬だけ驚いた顔をして、それから前へ出た。

「先生っていうほどじゃないけど」

 小さく笑い、子どもたちと同じ高さになるように膝を曲げる。

「打った選手が走るとき、みんなは何する?」

「おうえん!」

「そう。じゃあ、応援の手を作ろう」

 彼女は、両手を胸の前で軽く握った。

 大きく見せるための動きではない。小さな子でもできて、隣の人と合わせられる動き。タイミングを外しても、笑ってやり直せる。

 子どもたちが真似をする。

 一人の女の子が、うまく手を上げられずに立ち尽くしていた。YOSHINOはすぐ近くへ行き、女の子の腕を無理に持ち上げるのではなく、自分の動きをゆっくり小さくした。

「ここまでで大丈夫。できたね」

 女の子はようやく笑った。

 その笑顔を見たとき、私は喉の奥が少し詰まった。

 少し離れたところで見ていたHINAが、YOSHINOの横へ寄った。

「私、踊れる子に合わせすぎた」

「HINAの動きが好きな子もいたよ」

「じゃあ、最初は小さくして、後半だけ大きくする。できる子も、まだ難しい子も置いていかない」

 HINAは自分のポンポンを見てから、今度は少しだけ笑った。

 YOSHINOは、私が教えたとおりに動いているわけではない。

 彼女なりのやり方で、目の前の人に届くものを探している。

 それが分かるから、嬉しい。

 嬉しいのに、どうして胸の底が落ち着かないのか、私は知っていた。


 昼休み、相原さんに呼ばれた。

 球場の会議室には、広報のスタッフとカメラマンが集まっている。翌日のホームゲームに流す、夏休みキャンペーンの短い動画についての打ち合わせだった。

「今回、“はじめての野球観戦”がテーマなんです」

 広報の女性が資料をめくった。

「ORBITの皆さんに、観戦中の楽しみ方を紹介してもらいます。RIKAさんはナレーションと締めをお願いしたくて」

「分かりました」

「それから、現場で子どもたちとのやり取りがすごく自然だったので、YOSHINOさんをメインに撮りたいです」

 私は一度、資料から目を上げた。

 YOSHINOは会議室の外で、子どもたちの片づけを手伝っている。ガラス越しに見える背中は、汗で少し髪が首に張りついていた。

「もちろん、全員出ます」

 広報の女性が補足する。

「でも最初に映るのはYOSHINOさんがいいかなと。SNSでも、新人のなかでは反応が早いので」

 私の中に、ほんの小さな棘が立った。

 自分でも情けないと思う。

 YOSHINOが選ばれるべきだと思う。若くて、愛嬌があって、子どもの目線に降りられる。球場に初めて来る人を迎える顔として、これ以上ない。

 それでも、最初に映るのが自分ではないと聞いて、身体のどこかが緊張した。

 センターに立つことを、自分のために考えないようにしてきた。

 けれど、私が立たなくていい場所が増えることは、思っていたより怖かった。

「いいと思います」

 私は言った。

 声は、ちゃんといつもどおりだった。


 撮影は、午後の強い日差しのなかで始まった。

 YOSHINOはカメラの前でも変わらなかった。台本を読むより、目の前にいる子どもへ自然に話しかける。取り直しになっても焦らない。スタッフが「今の、もう少しゆっくり」と言えば、次はきちんと直す。

 私なら、もっと正しい声を出せる。

 もっと上手に、カメラへ笑いかけられる。

 でも、YOSHINOの前では、それが大したことではないように見えた。

 彼女は上手く見せようとしていないのに、見ていたくなる。

 そのことが、羨ましかった。

 撮影の合間、彼女が私の隣へ来た。

「RIKA先輩、私、最初で大丈夫ですか」

「何が?」

「動画です。先輩が最初の方が、ちゃんとするかなって」

 私は一瞬、言葉を失った。

 YOSHINOは本当に、私を立てようとしている。私の機嫌を取っているのではなく、作品が良くなると思って言っているのだ。

 だから余計に、腹が立った。

「広報が決めたんでしょう。なら、それでいい」

 少し強い声になった。

 YOSHINOの表情が固まる。

「はい」

 彼女はそれだけ言い、すぐ撮影位置へ戻った。

 私は自分の腕を掴んだ。

 何をしているのだろう。

 後輩が自分を気遣うほど、私は小さくなる。


 イベントが終わったあと、私は誰もいない三塁側の通路へ逃げた。

 観客席には、まだ夏の熱が残っている。掃除のスタッフが、紙コップを回収していた。

 スマートフォンを見る。

 南雲先生から、もう一通来ていた。

『詳細を送るね。一次は動画審査。歌と自己紹介。締切は来週水曜』

 添付された募集要項には、事務所の名前と、五人組ユニットのコンセプトが書かれていた。

 “日常に、少しだけ特別な光を。”

 見慣れた言葉だった。

 私もずっと、そういう人になりたかった。

 誰かの退屈な帰り道を変える人。画面の向こうで笑っていて、学校や仕事が嫌な日に思い出してもらえる人。客席の端ではなく、真ん中で拍手を受ける人。

 今の私は、何者なのだろう。

 ORBITで一番人気だと言われる。声がいいと言われる。MCを任される。

 それでも、アイドルになれなかった人間だという事実は、どこにも消えない。

「先輩」

 振り返ると、YOSHINOがいた。

 荷物を抱えたまま、通路の入口で立ち止まっている。

「忘れ物?」

「違います。MAYU先輩が、先に帰っていいって」

「そう」

 私はスマートフォンを伏せた。

 YOSHINOはしばらく動かなかった。何か言いたいことがあるのだとすぐ分かる。

「さっき、すみませんでした」

「何が?」

「動画のこと。私、先輩がやりたかったなら、ちゃんと断ればよかったです」

 まただ。

 彼女は、自分が選ばれたことまで謝ろうとする。

 私は、それがどうしようもなく嫌だった。

「YOSHINOは、このままずっとORBITで踊りたいの?」

 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。

 YOSHINOが目を丸くした。

「え?」

「プロのチアになるのが夢だったんでしょう。叶ったなら、次はどうするの」

 言葉は、考えるより先に続いた。

「もっと前に出られる。テレビにも出られる。歌だって、演技だって、やろうと思えばできる。なのに、どうしてここで満足しようとするの」

 YOSHINOの顔から、少しずつ笑顔が消えた。

「私は、満足しようとしてません」

「じゃあ、何?」

「ここで、もっとできるようになりたいって思ってます」

 雨の日に聞いた答えと同じだった。

 あのときは、まっすぐで羨ましいと思った。

 今は、そのまっすぐさに置いていかれる気がする。

「それでいいの?」

 私の声は、思ったより冷たかった。

「私は、よくないと思う」

「どうしてですか」

「YOSHINOなら、もっと行けるから」

「先輩が、ここを途中だと思うのは勝手です」

 その言葉で、息が止まった。

 YOSHINOは震えていた。でも、目を逸らさなかった。

「でも、私まで同じように思わないでください。ORBITは、私にとって途中じゃありません」

 正しい。

 あまりに正しくて、何も返せない。

 私がここを仮の場所と呼んでいることを、彼女はずっと気づいていたのかもしれない。

 それでも私は、引けなかった。

「あなたは、私を見てORBITに入ったんでしょう」

 YOSHINOの目が揺れた。

「だったら、私より先に、ここを正解にしないで」

 言った瞬間、自分が何を言ったのか分かった。

 YOSHINOに向けた言葉ではない。何年も前、養成所の鏡の前に立っていた自分へ向けた、みっともない言葉だ。

 でも、取り消すことはできなかった。

「……先輩、私のこと、可愛がってくれてるんだと思ってました」

 YOSHINOは小さく言った。

 その声の方が、怒鳴られるよりずっと痛かった。

「でも、先輩は私に、先輩と同じように困ってほしいんですね」

 私は何も言えなかった。

 YOSHINOは一度だけ頭を下げ、そのまま通路の向こうへ歩いていった。

 呼び止めるべきだった。

 謝るべきだった。

 なのに私は、手に持ったスマートフォンの画面すら見られず、その場に立ち尽くしていた。


 帰り支度をしていると、MAYUが控室の外で私を待っていた。

 彼女はいつも、誰かが残していった物を最後に確認する。今日も、床に落ちたテープと、水筒と、私の顔を見比べていた。

「YOSHINO、先に帰ったよ」

「うん」

「泣いてた?」

「泣いてない」

「そう」

 MAYUはそれ以上聞かなかった。

 でも、私が黙っていると、やがて小さく言った。

「RIKAは、あの子を育てたいのか、止めたいのか、どっち?」

 答えられなかった。

「……分からない」

「分からないなら、傷つける前に黙っててもいいんだよ」

 その言葉に、私は笑いそうになった。

 遅い。もう傷つけたあとだった。

 MAYUは私の手元を見た。

 スマートフォンの画面には、募集要項のままの文字が残っている。

「何か来た?」

「昔の先生から。オーディションの話」

 MAYUは少しだけ驚いたが、すぐに表情を戻した。

「受けるの?」

「分からない」

「そっか」

 彼女は、肯定も否定もしなかった。

「受けるなら、ちゃんと受けなよ。ORBITを言い訳にしないで」

 言われて、胸の奥が痛んだ。

 YOSHINOにも似たようなことを言った。もっと前へ行けるのに、ここに留まるなと。

 でも、本当に留まっているのは誰なのだろう。


 翌日のホームゲームは、夏休みキャンペーンの初日だった。

 球場のビジョンに、昨日撮った動画が流れる。最初に映ったのは、青いポンポンを持ったYOSHINOだった。

 “はじめての観戦、ようこそ。”

 彼女はカメラの向こうの誰かへ、少し照れながら笑っている。

 客席の子どもたちが、昨日教えた小さな手拍子を真似した。

 私は三塁側の待機スペースで、その映像を見ていた。

 YOSHINOは、私の後ろを歩くためにここへ来たわけではない。

 そんな当たり前のことを、私は勝手に忘れていた。

 試合開始直前、彼女が列の前方に入ってくる。

 目が合った。

 YOSHINOはいつもなら会釈をする。今日は一瞬迷ってから、それでも小さく頭を下げた。

 私は返した。

 それしかできなかった。

 アナウンスの合図が入る。

 私はマイクを握った。

 客席の歓声を受け、いつもの言葉を言う。

「皆さん、お待たせしました」

 声は、きちんと出た。

 その夜、アークスは七回まで二点を追っていた。

 試合の流れは悪くない。先発投手は早い回で失点したあと粘っているし、打線も何度か得点圏まで走者を進めている。ただ、あと一本だけが出ない。応援歌が終わるたびに、客席から低いため息が漏れた。

 私は八回表の守備中、三塁側の通路で次のコールの準備をしていた。

 少し前に、七回裏の新しいRALLYを使った。YOSHINOが中心ではない。全員が同じ位置に散り、誰か一人を目立たせない振付だ。

 それでも、彼女はすぐに分かった。

 客席へ向ける手の高さも、打席へ戻す視線も、開幕のころよりずっと自然になっている。自分が前へ出たいと思う勢いを、彼女はなくしたのではない。必要なときにだけ出せるようになった。

 私が教えたからではない。

 彼女が、自分で考えたからだ。

 それが分かるたび、胸の奥が少し痛む。

『ORBIT、八裏。キッズカメラからホーム応援へ、そのまま繋げます』

 相原さんの声が入った。

 ビジョンに、初めての観戦らしい家族を映す企画だ。客席を盛り上げる短いコーナーだが、試合が動きそうなときは、すぐ打席へ視線を戻す必要がある。

 カメラは一塁側の、まだ小さな子どもを映した。

 青いユニフォームが少し大きい男の子。隣にいる父親が、何度もスコアボードを見ている。

 男の子は、周りの人が手を叩き始めても、どうすればいいのか分からないようだった。

 YOSHINOが通路の端に立つ。

 カメラのためではなく、その男の子のためだけに、昨日の野球教室で教えていた小さな手拍子を始めた。

 胸の前で、二回。休んで、二回。

 男の子が真似をする。

 父親が笑う。

 近くの人たちも、自然に同じ拍子を打ち始めた。

 私はマイクを持ったまま、その場面を見ていた。

 声を足す必要はなかった。YOSHINOが作った小さな輪が、打席の方へ向かっていく。カメラはすぐに打者を映し、客席の拍手だけが残った。

 次の球を、アークスの代打が振り抜いた。

 打球は左中間を破り、二者が生還する。同点。

 球場の屋根が揺れるほどの歓声が上がった。

 私はその歓声に合わせ、次のコールを入れた。声が勝手に高くなる。ORBITはすぐに所定の位置へ散り、選手が二塁へ滑り込む姿を邪魔しない角度で腕を上げた。

 続く打者の犠牲フライで、アークスが勝ち越す。

 八回裏の攻撃が終わったとき、スタンドにはさっきまでとは違う熱があった。

 私たちが試合を変えたわけではない。

 YOSHINOの手拍子が打球を飛ばしたわけでもない。

 ただ、打席へ立つ選手を待つ人たちの気持ちが、同じ瞬間にひとつの音になった。その場所に彼女がいた。

 それだけで、十分だった。


 アークスは三対二で勝った。

 連敗が止まった日の勝利パフォーマンスは、開幕戦より少しだけ長かった。選手が外野前に並び、客席へ手を振る。私たちはその脇で踊り、主役たちの背中を明るく見せる。

 YOSHINOはいつもの位置にいた。

 終演後、列を離れる直前に、客席の男の子が彼女へ両手を上げた。YOSHINOも同じ動きで返す。

 それだけのやりとりを見て、私は胸の奥にあった棘が、少しだけ鈍くなるのを感じた。

 彼女はここで、もう十分に自分の場所を作り始めている。

 それを怖いと思うのは、YOSHINOが間違っているからではない。私が、自分の場所をまだ自分で選べていないからだ。

 控室へ戻る途中、私は一度だけ彼女の近くを通った。

 謝る言葉は、まだ見つからない。

 それでも、何も言わずに通り過ぎるのは卑怯だと思った。

「YOSHINO」

 彼女が振り返る。

「さっきの、よかった」

 私はそれだけ言った。

 謝罪ではない。動画のことも、通路で言ったことも、何ひとつなかったことにはできない。それでも、彼女が今日の仕事をしたことまで、私の意地で黙っていたくはなかった。

 YOSHINOの表情はすぐにはほどけなかった。けれど、ゆっくりと頷く。

「ありがとうございます」

 前と同じ言葉だった。

 でも、前と同じ距離ではなかった。

 控室の鏡には、勝利パフォーマンスを終えたORBITの姿が映っている。汗で崩れた髪、少しずつ違う笑顔、片づけを急ぐ手。誰か一人だけが光っているわけではない。私はその中にいて、まだ自分がどこへ行きたいのか決められずにいた。

 メンバーの話し声を背中に受けながら、私は控室の外へ出た。

 スマートフォンにはまだ、応募フォームを開くためのリンクが残っている。

 私はどちらの画面も見ないまま、白線の外側へ歩き出した。

 その迷いを、まだ誰にも見せるわけにはいかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。