21 大人への階段を一段上がった夜
額に触れた柔らかな感触は間違いなくザッシュウェルの唇で、惚けたイリスは額から離れた彼の唇から目が離せなかった。
「 嬉しすぎて、つい……すまない…… 」
間近でイリスを見つめるザッシュウェルの眼差しは蜂蜜を溶かしたように潤み、眦は情欲に染まっているようでもあり、イリスの反応を不安げに窺う仔犬のようでもあった。
先日の別れ際のザッシュウェルは、捨てられた仔犬のような瞳で手を握ってきたのが無性に可愛く思えてしまった。 ――だから、つい衝動的にイリスから頬に口づけてしまったのだ。
自分からしたイリスですら、彼と別れた後自分のした行為に恥ずかしさで悶えたというのに、される側になっても言葉にならない羞恥で顔に熱が集まり酩酊してしまったかのよう。
「 ……ザッシュは、私の事が好き……なの? 」
「 好きだ……ずっと……本当は墓場までこの想いは持っていくつもりだったのに…………俺は堪え性がないな…… 」
「 ほ、本当に? 」
自嘲しながらも想いを隠すことのないザッシュウェルの言葉に、形容しがたい想いが溢れ出し、上擦る声で確かめるように躊躇いがちに問う。
今の危機的状況で何をやっているのかと自分を叱咤する感情。 自分自身に呆れる感情。 幼馴染なのに甘い空気に包まれて気恥ずかしい感覚。 それでも自分の初恋が実った嬉しさで自然と笑みが零れてしまいそうな想い。
ぐるぐる混ざる様々な感覚に翻弄されるイリス。 構うことなく自分の想いを紡ぎ続けるザッシュウェル。
「 誓って嘘など言わない。 十年以上、ずっと好きで……堪らなかった」
優しく、甘く、ゆっくりと紡がれる声音はイリスを求めて乞い続ける。
イリスの頬を覆う彼の両掌から伝わる温かさは、イリスの心も体も包み込む温もりだった。
明日の夜会に向けて、緊張感や不安まで溶かすような彼の熱の籠った眼差しに、無意識に口角が僅かに上がってしまう。
本当はまだ彼への気持ちを打ち明けるタイミングではなかった。
明日の夜会はイリスたちの行動次第で、どのような結果が待っているかわからないからだ。
無事にメイロードも国も救うためには、自分の恋心に振り回されている場合ではない。
それなのに、イリスはついザッシュウェルへの想いが溢れてしまった。 彼はイリスの言葉を聞き逃さず、都合よく解釈した。 ――まるでイリスが彼に好きだと告白したかのように。
イリスがザッシュウェルに恋慕の情を抱いているのは確かだ。 ――だがその想いを伝えるのは、難局を乗り越えた後のハズだった。
二日前の自分の軽率な行動が原因で、ザッシュウェルもイリスも感情を抑えきれなくなっていたのかもしれない。 ――これは完全にイリスの失態だ。
誤魔化してでも彼を落ち着かせ、明日の夜会に向けて気持ちを整えるべきだった。 それなのに、自分のザッシュウェルへの恋心をうまくコントロールできなかった。
川の流れのように自分の唇からでた言葉は、彼の思慕の念を煽る言葉となった。
「 ――私も…… 」
掠れて聞き取りにくい小さな声音でも、ザッシュウェルの耳には確かにイリスの返事が届いていた。
「 最高だ!! 」
表情はぱぁっと弾けるように明るくなり、蕩けるような笑みを浮かべるとぎゅうっとイリスを抱きしめた。
大きな体に包み込まれて、どくんどくんと伝わる彼の胸の鼓動。 彼の温もり。 微かに香る彼の汗の香り。 首元にかかる彼の吐息。
否応にも自分の想いが彼と交わった事を全身で理解した。
今の状況が恥ずかしくてたまらないのに、存外心地よく満たされる感覚。
ずっとこのままで居たいとすら感じてしまう。
「 ……もう、我慢しなくていいか? 」
抱きしめられて溢れる愛を一身に浴びながら、幸せを噛みしめて惚けていたイリスは流れるようにコクリと小さく頷いていた。 ――深く考えることもなく。
返事と共に抱きしめるザッシュウェルの腕の力が更に強くなった。 身を任せたままのイリスの耳元では、ごくりと唾液を嚥下する音が微かに聞こえた。
「 ザッシュ……? 」
僅かに漂う空気が更に甘く変わった気がしたのは気のせいではなかったと思う。
力強い腕の力がふっと抜けると、イリスとほんの少し距離を取った彼は熱の籠った眼差しでこちらを見下ろした。
甘すぎる程蕩けた蜂蜜色の瞳と目が合い、火傷しそうなほどの熱の籠った眼差しにイリスは反射的に目を逸らしかけた。 しかし、逃がさんとばかりに視線を逸らそうとした頬に手を添えられて、唇には感じたことのない柔らかい何かが触れた。
突然の意図しなかった状況。
【 我慢 】とは感情の事ではなかったのだろうか。
起こった事を受け止め切れず、イリスは目を大きく見開いて固まった。
時間にして深呼吸するよりも短かく、彼の名前を呼ぶよりも長かった。
決して偶然でも事故でもなく、その感触は意図してされた好意なのだと知らしめるには十分な時間続いた。
これが二人にとって初めての口づけだった。
名残惜しく離れる唇を無意識に瞳で追っていたイリスは、ハッと我に返ると即座にザッシュウェルと明確な距離を取った。
「 な、なぜ…… 」
「 我慢するつもりだった……だが……想いが通じてまで我慢なんて無理だ。 それに俺が今どれだけメルの前で苦しい想いをしているかは、イリスが一番わかっているだろう? ご褒美でも良いと思わないか? 」
「 ――で、でも口づけは……まだ早いのでは―― 」
先程まで不安も喜びも露にして、仔犬のように微かに震えてすらいたザッシュウェルは、すでにいつもの彼に戻っていた。
冷静沈着、何事にも動揺せず生真面目な淡々としたいつもの彼、だ。
自分はまだ動揺しているというのに、その差がなんだか気に入らなくて思わず不貞腐れたくなってしまう。
言葉は上擦り掠れ、紡ぐのもやっとやっとになりながらも抗議する。 しかし、イリスの想いを受け取ったザッシュウェルには迷いも憂いも感じられない。 ――微かに眦が朱に染まり瞳に熱が籠っているだけ。
「 ――全身にはしない。 だが、唇は許してくれ。 いいだろう? 」
「 ぜ、全身⁈ 何を仰って―― 」
とんでもない発言に困惑するイリスは、彼の言葉をそのまま頭の中に映し出してしまった。
ベッドに横たわるあられもない自分の姿と妖艶な眼差しのザッシュウェルの迫ってくる姿。
思考が乱れ狂い、顔を真っ赤にして言葉を詰まらせていたイリスに、被せるように絡みつくような甘く熱の籠った眼差しを向けながらザッシュウェルは続ける。
「 ――心配するな。 今は状況が状況だと理解している 」
「 だったら―― 」
「 ――だが、心が通じ合ったのに何もせずにいられるほど俺は紳士ではない 」
イリスの言葉に被せ続け、顔を近づけたザッシュウェルは甘く掠れる声音で囁くように答えていく。
「 ~~~~~っ!! 」
動揺して言葉を詰まらせるイリスに、余裕綽々の押しの強い笑みを浮かべるザッシュウェルからは躊躇いも迷いも感じない。
彼の一言一言に頬を赤らめ、思考は乱れ続けるのはイリスだけ。 ただただ彼から与えられる甘い言葉に翻弄され酩酊したように、頭の芯がぼうっと甘く痺れていく。
平静を保てない自分が情けないのに、その乱れが存外心地よく幸せに感じてしまう矛盾。 静かな室内でどくんどくんと高鳴る胸の鼓動が響き渡ってしまいそうで不安になった。
自分らしさを見失い、頬は火照り、頭は困惑したままのイリスは耐えきれず視線を俯かせた。
「 少し煽りすぎてしまったようだな。 ……すまない 」
くつくつと笑いを堪えるような声音が零れた後、胎に響くような優しい低音の声音と彼の腕にふわっと身体を包み込まれた。
暖かくて筋肉質なザッシュウェルの腕の中は、先程までのドクドクと早鐘を打つような彼の胸の鼓動は凪いで、イリスを包む慈愛で満ちているようだった。
「 イリスが嫌がることはしない。 それに、明日何が起きようと……絶対に俺はお前と一緒だ 」
曖昧で無責任ともとれるような言葉を嫌う彼が、初めて口にした不確定な願いのような決意の言葉。
聖女にすでに二度も魅了され、自信を喪失したザッシュウェル。 イリスを守る資格などないと幾度となく思い知ったはず。 ――絶望的な状況でも逃げずに抗い、自分の信念を貫こうと言葉にする彼の想いだった。
覚悟の籠った彼の言葉が心を揺さぶり、「 ほんの少しなら…… 」などとイリスはあっけなく丸め込まれたのだった。
「 私も……何が起ころうとザッシュを守りますわ。 」
朝日を迎えるまでのわずかな時間、二人は恋人になって初めての甘いひと時を過ごした。




