◯5-10 残滓
キルカは疲れ始めていた。
拾い上げた数メートルの大きな鉄板を使って、頑張って巨大な瓦礫の山を押しのけた。
しかしその代償なのか、ひどい空腹と脱力感が身体を包んでいる。クタクタのままその場のノリでハルトに思い切りハイタッチしたあと、キルカは車の後部座席のドアを開けた。
助手席にはルナ。後ろにはケンゴとリンカがいて、すぐそばの席にはマリアとカギリ。
瓦礫の山の手前にいた人達も歩き出していた。
キルカを助けに来てくれたルナが一番混乱しているようで、助手席に座り込んだ今も呆然とその汚れた両手を見つめている。
しかしそんな状況をまるで無視するかのように。
ばんっ、と車のボディに何かぶつかる音がした。
「んだてめぇ! 邪魔すんじゃねえ!」
キルカがカギリの隣に座ろうとしたとき、クロイワの怒鳴り声が聴こえた。
咄嗟にキルカは、声の聴こえた車の背面を見た。
「……あ、っぶねぇな……!」
ハルトの右腕が服ごと斜めに裂け、そこからはぼたぼたと血が流れ出ていた。クロイワを背中から抑え込み、白いバンの後部へと体重をかけて抑え込んでいる。
さっきまで黒いコートを着ていたクロイワは黒い長袖のインナー姿になっていた。
右目の花や植物は茶色に枯れ始め、左の肩口から指先までの全てが、桜の咲いた細い枝に『置き換わって』いる。車内にいたカギリ以外の面々は、窓越しのそれを見て絶句していた。
キルカもハルトの出血量をみて、思考が停まってしまう。
「クソッ……なんで気付くんだよ!」
クロイワは大量の汗をかきながら銀色の髪を乱し、必死の形相でハルトに腕と頭を押さえ込まれている。
「その『音』は昔っから……夢ん中でも散々聞いてんだよ……!」
ハルトは歯を食いしばって、クロイワの顔を車の窓にぶつけた。
その様子にはっとして、キルカは飛び出した。
「ハルト! かわる!」
クロイワの持つナイフを刃ごと握り潰して奪い取り、誰もいない雑居ビルへ投げつけ、そのままクロイワを抑え込む役目をハルトから交代した。
両腕を取って身体を持ち上げ、両足を地面に付けさせずに、車へと彼の胸を強く押し付けた。
クロイワ。トマリを刺した男だ。右目も左腕もカギリの魔法で植物に置き換えられ、おそらくそのためにカギリに報復しに来たのだ。
ケンゴ達のいた場に居なかったのは、すでにカギリに退けられていたからなのだろう。
「なに逃げおおせてんだガキ! てめっ、サクライさんはどうした!」
「うるさいな! サクライはどっかにいったよ! 知らないなら、おまえはサクライに『切られた』んでしょ!」
キルカが言うと、クロイワの呼吸が荒くなって身を捩った。肺を激しく膨らませて、しかし抵抗する力はキルカにとって問題にならない。
ハルトは背負っていたリュックから結束バンドを取り出していた。
それほど暴れもせず、低く唸り声をあげるクロイワ。その右腕を左腕の植物とともに縛り、キルカが力ずくで引っ張って両足首も縛った。
そのまま車に背中を預けさせ、暴れないようキルカが足と肩を抑えた。
「この人どこから現れたの?」
「車の後ろから出てきた。たぶん、トマリさんを刺したとき、車にポータル用の穴を描いてたんだと思う」
そんなものが描かれていたのか。
クロイワはまだ健在の左目で、キルカとハルトを睨みつける。
「なに見てんだ」
クロイワは無力化している。こんなやつと会話をして得られるものはない。ただ苛つかされるだけだ。
しかし、ハルトはクロイワをじっと見つめていた。
「……あんたはサクライのなんなんだ。なんでこんなになってまで、あいつの下で動くんだよ」
キルカのすぐ後ろで訊ねた。ハルトは腕から血を流しているのに、それを全く気にしていないようだった。
「は? てめぇには関係ねぇだろ」
ハルトはクロイワのすぐそばにきた。
「あるから訊いてんだ」
目を細め、クロイワの髪を見つめている。
「それにいま気付いたけど……銀髪にその目と顔、なんだか妙に引っ掛かる」
クロイワは左目を見開く。
「……あんた、イケブクロの通り魔事件の、犯人の関係者か?」
キルカは声を出しそうになって、クロイワを抑える手を緩めかけた。
もう八年くらい前の事件。ハルトもその場にいて、母親と妹をそこで失ったというのも、キルカは以前話してもらっていた。
「怒った顔とか叫んでる顔。バーで見てたときは落ち着いてたからそう見えなかったけど……今のあんたを見てると、あのとき捕まったあいつを思い出す」
「……『あいつ』だと?」
クロイワが反応すると、ハルトはあからさまに舌打ちをした。苛立ちをまるで隠さず、車を掌で叩いた。
「あいつだよ。俺は、あいつに母さんと妹を殺されてんだ。……サクライに従って、ポータルを扱って、しかもあいつに似てるあんたは、事件に関係してないとは思えない」
イケブクロの事件の犯人は女の魔人。顔は一般には非公開だけれど、現場を見ていたハルトなら、それを知っている。
ましてやそれを考えたとき。
キルカは監禁されていた際の、右目を失くしたクロイワが呟いていた言葉を、思い出した。
「さっきクロイワは目を押さえて、『お姉さんと同じ』って……」
キルカが呟くと、ハルトとクロイワは同時に目を丸くした。
クロイワは口を開け、ぱくぱくと何かを言おうとしながら、しかしすぐに口を閉じた。彼が抵抗する力は、明らかに弱まった。
「……そうか、そういうことか。……あいつも、眼帯してたもんな……」
クロイワの様子を見たハルトは、悲しそうに笑った。
「あいつはあんたの姉貴かよ」
ハルトは顔を反らしたまま呼吸を荒くしていた。自分の服の胸元を強く握りしめて、それが千切れてしまいそうだった。
クロイワは目を伏せている。
「……姉が犯人として捕まったんなら、家族含めてその後の人生めちゃくちゃになるよな。俺が知ってるあの女の苗字だって『クロイワ』じゃない。あんたは元の名前を隠さないと、ろくに生きていけなかったんだろ」
加害者家族。被害者遺族。ニュースでよく見るような単語がよぎって、キルカは奥歯を噛み締める。
「いや。そういうことなら……。あんたは通り魔事件のあと……どっかでサクライに拾われて、関わりを持つようになったんじゃないのか?」
「覚えてねえな」
クロイワにとってのサクライと、ハルトにとってのヨシノ。もしかしたら二人は通り魔事件をきっかけにその『彼』と出会って。過去からいままでも同じように黒い鈴の音を聞かされていて。
もしかしたら同じように、『彼』を慕っていたのかもしれない。
「……こういうヤツを、洗脳してたってことかよ……」
ハルトはぼそりと呟いた。
「洗脳? なに言ってんだ」
クロイワは拘束されているのに動じていない。
キルカが抑え込んでいても、顔だけはハルトに向いていて。
ハルトはそのすぐそばで、自分の髪を掴んでいる。
「あんたがサクライに従うのも、さっきみたいに車を落として人殺しに躊躇しないのも、サクライに操られてたからだろ。まともな人間ならそんなことできない。……姉貴がそんなことやってたなら、尚更そんなのできねえだろうが」
ハルトは、クロイワをじっと睨んでいた。
「トマリさんのことだって殺そうとしやがって。そんでカギリさんに目も腕も奪われて、それなのにまた性懲りもなく殺しにきたってことだよな?」
「ちょっと、ハルト……」
話しながらハルトの声は大きくなっていた。
キルカが制する間もなく、彼はクロイワの頭を強く掴んだ。
「……あんたはサクライに言われたことしかできなくなってるから、簡単に人を攻撃して、しかも自分が滅茶苦茶になっていても、何回だって……、人殺しの姉貴と同じことができるんだろ」
「黙れ」
「黙るかよ。言われるがままただやらされて……それをろくに考えもしないから……自分自身に起きてることすら、気付くこともできないんだろ……!」
クロイワは困惑した表情を浮かべる。キルカもハルトの刺々しい声に、開いた口を閉じられなかった。
「そうして何も考えてないから……! 洗脳なんかされんちまうんだ……!」
「ハルト、なに言って……」
そんなことを言ってしまったら。
「――他人に操られちまうような馬鹿だから! 人を簡単に傷付けられんだろうが!」
ハルトは掴んだままのクロイワの頭を、車の窓に叩きつけた。
「ハルト!」
鈍い音が響いた。
ルナが疲れた顔をして助手席から降りてきた。
「まって! なにやってるのハルト! やめて!」
キルカはクロイワを抑えつつ、その頭を掴むハルトの手を払った。ハルトは息を荒くして一度その場を離れ、車のそばをうろうろと歩き、茶色の髪を荒くかき乱していた。
「いてぇなクソガキ! てめえ調子に乗ってんじゃ――」
「お前がまともじゃないから言ってんだろ!!」
掠れた怒鳴り声が響いた。
シブヤから逃げ出し始めていた住民たちも、眉をひそめて遠巻きにキルカ達を避けて歩いていた。
「なにがあったらそうなんだよ! お前も! お前の姉貴も! どうやって生きてりゃそんなことになるんだ! 誰彼構わず攻撃したってなんにもならねえだろうが!」
「……ハルト」
キルカは忘れていた。
ハルトはいつも落ち着いているし、今回だってずっと色々考えてくれていた。
前に飲んだときも、昔の通り魔事件のことに感情的になりきらなかったし、キルカのこぼした身の上話だってちゃん受け止めてくれた。
だから彼は、自分の気持ちをしっかり飲み込める人間なのだと勝手に思っていた。
けれど、なにかがきっかけで限界になってしまったのだ。ハルトとキルカは同い年で、普通の二〇歳でしかない。
気持ちの整理がついてるなんてことは、なかったんだ。
「お前はサクライに言われたからやったんだろ」
銃を向けてきたサクライのことも。
サクライであり、彼が慕ってきたヨシノのことも。
危害を加えてくるクロイワのことも。
「――サクライの魔業で洗脳されてたからやりましたって! 言えよ!」
クロイワの姉に家族を奪われたことも。
「そこにお前の意志があるなら……当たり前にそんなのがやれんなら! 尚更わけわかんなくなんだろうが!」
たぶん、ハルト自身のことも。
「おまえがそうなら……! ……俺だって……っ!」
彼の声は上ずっていた。たくさん考えているはずなのに。考えて導き出せるはずの辻褄が、合わなくなってしまったのかもしれない。
「うるせえわ、こいつ」
クロイワは興味が無さそうな顔で睨んでいた。
「こいつの言ってること、さっきからさっぱり意味がわからねえ。だいたいサクライさんと姉貴は関係ねえだろ」
キルカはどちらの口を止めたらいいのかもわからずにいた。
一方でハルトは、目を見開いて顔を赤くしていた。
「ないわけ、ないだろ!」
ハルトはクロイワに殴りかかろうと手を振り上げる。そんなことをして欲しくなくて、キルカはそれを阻むため、クロイワから手を離そうとした。
「ちょっ、と!」
そこで、そばにやってきていたルナが、ハルトを横から羽交い締めにした。
ハルトはルナを振り払うようなことはせず、クロイワにもう一歩踏み出そうとして、ぱたりとやめた。
「なに? どうしたのこの人。さっきから言ってることめちゃくちゃなんだけど」
ルナが呆れた様子で呟いた。クロイワは苛立った顔を見せ、ハルトに向けて唾を吐き捨てた。
「急にイカれやがって。要するにてめえはオレが気に入らねえんだ。……どうせ、人殺しの家族は黙って死んどけって言いてえだけなんだろ。国に右目もがれて暴れたイカれ女とその家族なんて、世の中には要らねえってか?」
「なにを、言ってんだよ……」
ハルトは喉を震わせていた。小刻みに細く息を吸い、僅かに涙を流しているようにも聴こえた。
「だったらてめえがオレを殺せよ。オレにはもう目も腕もねえ。このまま惨めに生きるより、遺族にボコられ殺されて――世間様に同情でもされてえもんだな!」
ハルトは自分の顔を掌で隠し、目元を摺り潰すみたいに強く締め付けた。
「……そんなのは、俺のやりたいことじゃない……俺は、ちゃんと、人を……」
ルナがハルトを離すと、彼はその場で、深く溜め意をついた。
「だからお前を、『そうしたい』なんて……」
キルカはハルトの身体を支えたかったけれど。
ぐちゃぐちゃに混乱している姿へかける言葉が、見つからなかった。
ハルトは赤くなった顔を落ち着かせるように深く呼吸をした。
その唇は乾いていて、震えていた。
「……なあ、クロイワさん。あんたは生まれつきそういう人間だったのか? 姉のせいで仕方なくか? サクライに会ってから、そういう風に変えられたのか?」
クロイワはハルトの言っていることがわからないようで、ずっと首をひねっていた。
「あんたを見てたら、自分がいつから『こう』だったのかもわからなくなる」
「んだコイツ、わけわかんねえ……」
ハルトはクロイワから顔を逸らし、ふらついた足で運転席の方へ歩き出した。
もう人影の見えなくなったシブヤのほうで、まだいくつかの瓦礫がポータルにより落とされている。
「……俺が一番、わけわかんねえよ」
なにかが砕け散る音の中で、ハルトは呟いていた。
◇
「とりあえず病院な!」
ケンゴが車を走らせ、リンカは助手席に乗っていた。
ハルトがクロイワにナイフで斬られた腕の傷は大したことがないとのことだが、ケンゴかすぐに運転を名乗り出た。
真ん中の列には、カギリとキルカとルナ。
一番後ろにマリアとハルト、という座席で座りなおしていた。
マリアがハルトの止血をして、二人はいくつかの言葉を交わしていたらしかったけれど、キルカは気にしないようにしていた。
ハルトがクロイワを連れていくと言ったため、クロイワの口を縛って車の最後尾の荷物スペースに詰め込んだ。
どこに連れていくのかを訊ねると、トマリと同じ病院に連れていくのだとハルトは言った。
カギリの魔法によって目や腕が失われたことで、近いうちに身体に問題が出るだろうとのことだった。
キルカはクロイワを助けたいとは思わなかったけれど、怒ったり悲しんでいたハルトがすごく苦しそうで、その行動についてなにも言うことが出来なかった。
クロイワも抵抗するのはとっくに諦めていて、ろくに喋らずに詰め込まれたまま。さっきハルトに言われたことを考えているようでもあった。
「ねーキルカ」
「へ?」
車内をぼんやり眺めていると、ルナがキルカの袖を引っ張った。ルナは指輪、『魔女の天秤』を外していて、キルカに差し出していた。
「ああ、もういらない?」
ルナが頷く。キルカはそれを受け取って、指輪を二重に嵌めた。
「いやほんと。さっきの含めて、なんか超疲れた……」
スマートフォンを操作しながらルナは溜め息をつく。
もう少し何か言おうとしていたけれど、車の中には人がたくさんいる。
「……とりあえずさ。キルカのせいでシン国行けなくなったから、もうちょい身の振り方考えねーとなーって感じになっちゃったんだけど」
「お。『わたしの友達』のせい」
ルナは笑った。
「まぁ、うん、そうだ。ちなみに今回の件でヤバい動画いっぱい撮れたんで何かのネタにすっから。あのシブヤがニュースになったら、メディアとかにも売れっかもなー」
「その動画きっかけでもっとやばいことになっても知らないからね」
車内ではリンカがぼそぼそと話していて、ハルト達はぜんぜん会話する様子がなかった。
「あとさ、キルカ」
ルナは改まったように呼吸した。身体がすぐそばで隣接しているから、なんとなくルナが緊張しているのも肌でわかってしまう。
「なに?」
ルナが息を飲んだ。
「キルカの力。実際借りたらわかったけど、めちゃくちゃ強くてやばくて。これで半分!? って感じだった」
「まあ……、こんなんだから海外需要も有るってわけ。すごいでしょ?」
冗談めかして言うと、ルナは自分の両手をひらいて見つめた。
そのまま一度頷き、隣にいるキルカに顔を向けた。
「すごいよ。殴っても簡単にヒトぶっ飛ばせるし、鉄板とか持ち上げても平気だし、瓦礫落ちたのぶつかってきても、傷ひとつ付かないし」
うんうん、とキルカは頷いてみせる。
「あとは……身体じゅう『めちゃくちゃ痛い』っていうのも、わかった」
「……あー」
傷はつかないのだから、慣れれば大したものではない。
「力使うたびになんか違和感あったんだけどさ。考えてみりゃ銃食らった時も痛かったし、殴った分は普通に手ぇ痛いし、さっき瓦礫押すときなんて筋肉ヤバいし、手とか頭とか色々バカスカ当たって、もうアレ死ぬほど痛くて。なにやってんだろって思いながら、止めるわけにもいかなくてマジでビビってた」
「まあまあ。そこはもう、ルナのおかげでほんとに助かったんだよ」
キルカも痛みを感じていたかもしれない。しかしルナだってそれでも逃げずにやりきってくれたのだから、とても頼もしかったし、無茶に付き合ってくれたのは嬉しかった。
「それでわたし、去年さ……」
ルナはしばらく黙ったあと、鼻をすすった。
「こんなに痛いのぜんぜんわかってないのに、なんで遊廓のことどうにかしなかったんだとか、強いんだからなんとかしろみたいなこと、めちゃくちゃ好き勝手言って、そのまま逃げたじゃん?」
キルカは返事をしなかった。
「それって、キルカにこういう痛い思いさせてまで、自分らのこと助けてくれなかったじゃねーかって言ってたってことでしょ。……もうそれ、ほんとわたし、勝手なことばっかで何様なんだよって……急に、思ってきて……」
ルナはまた鼻をすすった。
キルカは、隣で震えるルナの肩を抱いて揺すった。その身体は震えていて妙に体温が高く、キルカにもその熱が移ってしまいそうだった。
「ほんと最悪なんだけどさ……あのとき何考えてたのかもあんま覚えてなくって。わたし、ただカッとなって思ったことぶつけて。なんならちょっと忘れてたくらいで……なんかほんとクズすぎて、どうしようって、思って……」
キルカもルナに言われたことは思い出し切れない。ただ、あのときのルナが涙を浮かべていたのは思い出せる。
その時のルナにとっては、そうしなければどうにもならなかったのかもしれない。
「キルカぁ……」
「うん?」
「……あのときのこと。本当に、ごめんなさい……」
謝られてしまった。あのときのことは心情も含めてしまえば、半分以上がルナの言うとおりだと思っていた。
だけどそれだって今更のこと。謝られたって辛かった過去はそのままでしかないし、お互いの過去の落としどころは、今のルナとはすでに見つかっているのではないだろうか。
「なんだっけ。あのときルナ、あたしになんて言ったんだっけ?」
明るく言って、両腕でルナを抱えるようにして揺らした。
ルナは鼻を啜りながら、キルカの額に側頭部をこつんと当ててきた。
「覚えてないならなんも言わねーし……」
「えー言ってよ。せっかくだから言ってみて」
「……いやまって。まってマジで。性格わるいなこいつ……」
キルカはルナの肩を抱きしめてまた揺らした。彼女を抱きしめるのに、魔人の力は必要なかった。
「……たぶんね。こういうの、謝るとか許すとかの話じゃないんじゃないかなって、あたし思ってるんだ」
「え?」
「あ、もちろんあたしも悪かったからごめんだし、ルナが謝るのはちゃんと受け入れたいつもり、なんだけど」
ルナも鼻をすすった。
「なんか、その時々で考えてることちがうし。余裕あったらなにも感じないときだってあるだろうし。そういう色んなタイミングのせいでたまたまおかしくなっちゃうのは、たぶんこれからもあるんじゃないかな、って……」
ルナもキルカの腕をしっかりとつかんできた。
キルカよりも、ずっと弱い力だった。
「だからなにかあったって。……たとえばまた会ったとき、思いついて連絡とかしてみたとき、そのとき何事もなかったみたいに普通に話せるんなら、あたしは十分嬉しいなって、ちょっと思ってたよ」
あのときのことはほとんど覚えているけれど、それだってもう過去のことでしかない。
消化不良のなにかを自覚することは確かにあるけれど、それを抱えて前面に押し出し続けるのも、なんだか大変だし、そのたびにその時を思い出し続けなくてはいけなくなってしまう。
無理して考え続けないで、自然にしているときの距離感でその人や物事と付き合えたら、と、思う。
割り切れないことは沢山あるのだろうけど。
辛さや悲しさを抱え続けるのは、苦しいだけ。
「なにそれ。なんか悟ったの?」
「悟ったっていうか……」
キルカは振り返らず、ハルトの呼吸に耳をそばだてた。
「昔のことで苦しくなる人、結構いっぱいいるから」
そこからの距離の取り方や付き合い方を以前ハルトとたくさん話していて。きっとあのときのおかげで、こんなふうに考えられている。
「だけどあたしは、いま元気で居られるなら、それでいいのかなって」
ぜんぶが『あんとき化』していくのを受け入れながら生きるしかないのだと思えば、今を少しだけ楽に過ごして生きられる。
その概念をサクライからもたらされていると思うと、なんだかモヤっとするけれど。
「あっ!」
運転席のケンゴが高い声でわめいた。
「ナビの病院近いぜ! 重症者のみんな! 保険証の準備はいいか!」
キルカは持っていなかった。他の面々も本当に持っていないのか疲れているのかはわからないけれど、ろくに返事をしなかった。
「……えっ!! 全員持ってねーの!? いやーオレも色々あって持ってなくてぇ!」
ケンゴが適当に話している。
カフェバーで働いているときの雑音みたいで、なんだか少しだけ懐かしいような気持ちになる。
隣ですぅすぅと寝息を立てるカギリも、きっとそこに戻るため、ハルトと一緒にキルカを助けに来てくれた。
植物まみれだった街も、カギリが魔法を使うことで、もたらされたものなのだ。
あれだけの街の変化をもたらしたのなら当然、いまみたいに眠ってしまうのは仕方ないのだろう。
「……あれ」
映像で観た、首都高崩落事件に酷似したあの景色と、さっきのシブヤの景色。
六年前のあのときからの記憶のない、赤い髪の彼女。
その頃のカギリは、どこでなにをしていたのだろう。
「まあ、いいや」
緊張の糸がぷつりと切れた。
もっとみんなと話してみたくなったけれど、身体がクタクタになっていて声が出なかった。
いまはキルカもカギリのように寝ていたい。車内の全員それぞれも、かなり疲れてしまっている。
瓦礫のように散らかって重たい身体。
ケンゴしかしゃべっていない気だるい空気。
正午まわったばかりなのに、まるで深夜二時みたいな疲労感が車内全体のしかかっている。
だけどみんなが助けてくれたから、キルカはこれから帰ることができる。改めて話し合う時間も、みんなのおかげでたくさんもらえている。
だから今だけ。
せめてこの日が終わるまでは、なにも考えずにいたかった。
「カギリさん、ありがとうございました」
「……ん?」
小声で囁いたら起きてしまった。
カギリの瞳はほとんど開いていなくて、まだ眠そうだった。
「あ。おみせ、いつから開けるんですか」
「ねー。あの運転手さんに店の窓割られたから、しばらく無理かなー」
「えぇ……、あいつ、あとでどつき回すか……?」
キルカは隣のルナを腕に抱えながら、反対側のカギリにも身を寄せた。二人の体温が心地よくて、今はただそれに挟まれていたくなった。
今週のバイトのシフトを全部休みへと脳内変換し、営業再開の目処はいつ立つのだろうと、ぼんやり思いを馳せながら。
キルカは重くなったまぶたを、ゆっくりと閉じはじめた。




