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◯5-7 天秤

 ヨシノさん。


 キルカはあいた口を閉じられなかった。

 ハルトと二人で飲んだ日、キルカはヨシノについていくつかのことを聞いていた。ハルトがヨシノと出会った経緯や、それからのヨシノとの関係。ハルトはヨシノを慕っている様子で、いまもシンジュクでの生活のなかでヨシノの仕事を手伝っているのだと。

 あのとき話していたハルトは楽しそうで、キルカはそれがすこし羨ましかった。トマリやカギリは、そういうタイプの人ではなかったから。


 ルナにはサクライと呼ばれ。

 ハルトにヨシノと呼ばれた男がすぐそこにいる。


 男はキルカが最後に会ったときのサクライの容姿とは少し異なっていた。一年半前は茶髪で小太りのスーツ姿だったけれど、いまはかなり痩せて、パーマのかかった長めの黒髪に、銀縁眼鏡と細身の黒いカジュアルスーツ。あの頃の外観は彼から見て取れない。

 けれど、他人を値踏みするような雰囲気はそのまま。シンジュクの街にぬるりと溶け込んでしまいそうなその姿に、演劇の小道具のような妙に小さな拳銃を握っている。


「へっへっ、最初からそういう手筈だったろ」


 笑い方や目つきはサクライのそれだ。

 サクライの右手の銃口は、相対するハルトへと向けられていた。また一方で、左手には黒い金属のような鈴をぶら提げている。

 マリアはハルトをじっと睨み、ルナは口を閉じて壁際に立っていた。


「まあ、想定よりうまく潜れてたのは認めてやる」


 ハルトは足元にあるリュックを掴んだ。


「魔法使い相手によく『削れた』。あれが好き勝手に暴れたら終わってたからな」


 キルカは動けなかった。

 サクライの言っていることを飲み込もうとすると、どうしてもそれは嫌な景色にしかならない。

 イヤーカフの魔業では聴こえていたカギリの声。ハルトと居たはずのカギリがここに来れなかった理由が、そのハルトにあるのだというなら、それは。


「あとはクロイワがうまくやる」


 サクライは拳銃の先をキルカに何度か振った。


「……まあしかし、キルカについてはもうちょい上手く懐柔できたんじゃねーのかよ」


 小馬鹿にする口調で言うと、ハルトの頭が素早く動いた。


「それ――」


 鈴の音が聴こえた。

 ハルトはサクライを見たまましばらく固まっているようだった。

 しかし何かを思い出したかのように、異様に長い溜め息をつき、サクライに背を向けてキルカへ振り返ってきた。


「……」


 その表情は、まるで何事もなかったかのように普段のハルトの顔。バイトの時みたいないつもの瞳で、座るキルカを見据えている。

 サクライに銃を突きつけられているけれど、こちらに何かを示してくれるかもしれない。

 彼の動きを見逃さないよう、視線を合わせた。


「普通に無理っすよ。下手打ったらコイツに殺されんでしょ」

「……ぇ」


 つい、キルカは瞬きを繰り返す。

 また鈴の音が聴こえる。


「あのヤバい力。ヨシノさんも前にやられてんなら、コイツの馬鹿力の怖さわかってますよね」


 サクライは鼻で笑う。

 ハルトはキルカに指を向けた。


「こんなのと居るだけでほんとに寿命が縮む。ちょっとは俺の負担も考えてくださいよ」


 まるで愚痴でもこぼすみたいにハルトは苦笑いをした。毎日一緒に働いていたのに、急に何を言い出すのだ。


「ねぇ……」

「あぁ、あとそう。あんときも危なかった。酔った勢いにしたってちょっと考えろっつーの」


 あのときだって。すこしの時間だけれど、彼とは気楽に過ごせていたつもりだったのに。


「腕。折られるかと思ったんだ」


 一緒にたくさん泣いて、具合が悪くなるくらい飲んで、なんだかよくわからないなかで笑っていたはずなのに。


「……はる、……」

「話してったらいきなりガキみたいなこと言い出すし。なんか距離感も変だし、どうにも扱いづらくてキツかった」


 目の奥がじわじわとくすぐったくなって、視界がにじんでいく。


「極めつけはあの『魔法使い』ですよ。こんなん、命がいくつあっても足りないっての」


 ぐらりと部屋が揺れた気がした。キルカの身体だけが、支柱のようなものが折れてしまったように曲がって、縮んだような気になった。

 それを正そうとして息を余分に吸ってしまって、苦しい。


「だから、魔人は嫌なんだ」


「……なんで……」


 なんで、こんなことになってるんだろう。


「仕事ってのはそういうもんだろうが」

「それはそう。ただの愚痴ですよ」

「まぁ今日で終わんだから大目に見ろよ」

「はいはい」


 ハルトは適当に頷いて顔を背けた。

 キルカはスツールの上で俯いた。首と頭のつなぎ目がぐったりと重い。身体には力が入らなくて、大きな肉のかたまりを首からぶらさげているみたいだった。


 今日で終わりだなんて。

 終わりも、なにも。


「キルちゃん! ハイジマさんは――!」


 ぱん、と乾いた音がした。

 サクライの拳銃から煙があがった。


「黙れよ『白目』。おまえはテキトーこいてこっから逃げてえだけだろ。便利なキルカを利用してな」


 目を見開いて静止するマリアの背後の壁には、発砲にによる銃痕ができていた。


「利用、なんて……」


 マリアは小さな声で呟く。

 確かにさきほどマリアはキルカを詰めてきた。もし、ただここから逃げるためだけにキルカを焚き付けようとしていたのなら、途端に怖くなる。

 マリアと話す時間があったから、ハルトがここに来てくれたとき、キルカ自身も「戦える」「大丈夫」「みんなと逃げられる」だなんて思っていた。


「あー。政治家の娘なら、ヒト操るの好きそう」


 ハルトは笑いながら言った。キルカの胸から、なにか黒いものが割れて漏れ出している気がした。

 みんながそれぞれに考えることはあるのはわかる。自分が助かるための行動もとる。それが間違いなわけがなくて、キルカだってたぶんそうすることはある。

 ただ、それをはっきりと言葉にしてしまうのが嫌なだけ。

 そのときのマリアがそうなのだと言ってしまったら。

 キルカがそのとき『そうしたい』と思ったことも、誘導されて引きずり出されたものではないかと、疑ってしまいそうになる。


「もう……、……」


 キルカは性懲りもなく、何度だって同じことを繰り返していた。人と繋がれば繋がるほどにこんなことになって。こんなふうに生きるのが苦しくなってしまうのに、またそうなった。


 だけどわかった。

 今度こそ理解できた。

 言葉や理屈なんかじゃなくて。

 キルカはただ悲しくなってしまっていた。

 そんな実感が、ちゃんとこの胸のなかにあった。


「……もう、いいや」


 そんなのは。

 ぜんぶ捨ててしまったほうが、ずっと楽だ。


「おら、ここを出るぞ」


 サクライがキルカに向けて大股で歩いてきた。銃を片手に腕を強く掴んで、力任せに引っ張ってきた。抵抗はしなかった。その場でキルカは立ち上がろうとして、縛られた足のせいでふらつく。

 ハルトはマリアの方へ歩き、彼女の腕をサクライと同じように掴んだ。マリアは一度抵抗したが、すぐにおとなしくなっていた。

 ハルトがそこで、「あ」と口をあけた。


「金髪の人。マリアさんで手ぇ塞がっちゃうんで、そのリュック持ってもらえますか」


 ハルトはルナに言う。さっきハルトが十徳ナイフを取り出したリュックはスツールのそばに転がっている。

 マリアはそのリュックを睨むようにじっと見つめており、ルナはリュックへ向けて手を伸ばそうとした。


「待てルナ。お前は触るな」


 銃を向けながらサクライが言った。ルナはそのまま壁際に戻り、キルカと目が合った。ルナは頭を掻きながら目を伏せ、部屋の中の全員を無表情に見渡した。


「『天秤』はどこだ? 回収してんだろ」


 サクライはキルカの腹に拳銃を向けながらリュックを拾い、ハルトへ投げ渡す。


「あります。確認しますか」


 サクライは数秒立ち止まって考えた様子だった。


「……いや、いい。お前が管理しろ」

「そうすか」


 サクライはキルカの腕を引き、前に立つように促してきた。背骨の中心あたりに硬い拳銃を押し当てられる。


「歩けよキルカ。これからすぐにシブヤを出んだ」


 控室のドアは明け放たれたままだ。


「……足のテープ、切ってもらわなきゃ歩けないんだけど」


 当たり前のことを呟いた。サクライは舌打ちをして、キルカの肩を突き飛ばすようにしてソファに座らせた。

 サクライはマリアのほうに歩いていき、今度は彼女の腕を掴む。


「ハルト。切れ」


 ハルトは雑に返事をして、さきほどの十徳ナイフを手に、ソファに座るキルカの足のそばでしゃがんだ。持参したリュックは、ハルトのすぐ横の床に置かれる。

 縛られた両足首を伸ばすようにキルカが足を挙げると、ハルトは片手で足首を掴んで持ち上げた。


「やたらしっかり巻いてんな……」


 その姿を見て。

 一緒に買いものに行き、キルカが買う靴を合わせてもらった時のことを思い出した。

 あのとき買ったスニーカーはちゃんと履いてきた。いまも問題なく履けているし、見てもらえたから歩きやすい、なんて軽口を反射的に叩こうとしてしまった。

 お姫さま気分で差し出した足を、彼は当たり前に受け止めてくれたから。


「っ……」


 ふいにその日のことを話して、さっきみたいなことを言われるのを想像した。いまのことは勝手に言っていればいいけれど、過去に遡ってまでひどいことを言われたくなかった。

 わざわざ思い返したくなるようなことは、いままでのキルカにはあまりなかったから。

 足を縛る黒いビニールテープは、ハルトのナイフで簡単に切られていく。すぐに、ぷちん、とテープが千切れ、足だけは自由になる。


「よし切れた」


 小さなナイフを仕舞って、すぐに遠ざかっていきそうな彼の手。

 キルカはまぶたが震えるのを耐えられなくて、思い切って目を閉じた。


「ほらこれで……」


 ハルトはその場で固まっていた。


「……ん?」


 キルカはぐるぐる巻きになった両手で、足を掴んでいるハルトの手を、離れてしまわないように抑えていた。


「……」


 睨もうとしたのに、キルカは瞳を見開いて彼を見つめた。何か言おうと考えただけで苦しくなって、奥歯を噛み締めてこらえた。顎や肩に力がこもり、両手は意味もなく震えてしまう。


「ハルト。ちんたらしてねえで行くぞ」


 ちりんちりん、と鈴が鳴る。

 しゃがんでいたハルトはキルカの顔を見上げた。どこか不可解そうに、眉根を寄せてキルカを見つめてきた。


「……こんなの、」


 口から言葉が漏れた。胸を引っ掻きたくなった。

 辛くなるだけの感情なんて投げ捨ててしまえばいいのに、そんなことすらできない自分がなさけなかった。


 ついさっき、ボロボロになった彼に会えてすごく嬉しかった。

 その感覚を信じていたかったから、いま起きてることを信じたくなかった。

 わからないことしかない。

 たすけてほしいなんて言えない。

 サクライに従う彼は、きっともう、何も受け止めてくれない。

 彼と二人でたくさん話して、キルカは簡単に心を軽くしてしまった。そうして過去から目をそらして楽になったことの、ばちが当たったのだ。

 きっとキルカがほんとうにひとりになるまで。

 何度だって、こんなことが繰り返される。 


「こんなの……『あんとき』になんて、ならないじゃん……」


 瞳から、涙がぽろぽろと零れおちていた。


 キルカを見るハルトは眉根を寄せたままで。

 その額に、たくさんの脂汗を浮かせていた。


「なに言って――」


 突然、ハルトは横から飛んできた黒いものに押しのけられ、キルカの視界からいなくなった。

 ルナがハルトの肩に向かって飛び蹴りを浴びせ、室内の黒いローテーブルの上へ、ハルトの身体を弾き飛ばしていた。

 ルナはハルトのリュックを拾い上げており、すぐに中身を床にぶちまけてしゃがんだ。


「おいルナてめえ――!」


 ルナに銃口を向けて怒声を放ったサクライの顔面に向かって、両手を縛られたマリアが、飛びつくように体当たりした。


「ルナさん白いケース! 『天秤』!」


 ぱん、と乾いた音が鳴った。

 しかし拳銃を撃ったはずのサクライのほうが悲鳴をあげていた。

 マリアはサクライの手に噛みつき、サクライの取り落とした銃を蹴飛ばした。マリアはサクライの足の間に足を差し込んで、そのまま床へ身体ごと無理矢理倒れ込んだ。

 キルカは一瞬、なにが起こったかわからなかった。


「おい! 暴れんじゃ! ねえ!」


 サクライはマリアに倒されたまま、マリアの頭を押しのけるように肘で何度か小突いた。

 キルカはそれを見て一気に頭に血が昇り、ソファから立ち上がった勢いのまま、倒れているサクライの顔を蹴ろうとした。しかし両手が縛られていてバランスが取れず、そのままサクライの足を踏みながら転倒した。


「あった!」


 テーブル越しのルナはリュックから指輪を見つけていた。ルナはリングケースを投げ捨て、躊躇なくその指輪を手にとって右手の中指に嵌めた。

 同時にキルカの身体にも、急激に血流が増すようなどくどくとした違和感が巡り、心音が跳ね上がった。


 ルナが『魔女の天秤』をつけた。

 『天秤』の効力は、ひとつだけ嵌めても力が拡散する。けれどふたつをそれぞれを嵌めあえば、指輪を嵌めたもの同士の魔人の力を互いに分け与える。

 キルカの魔人の力の半分はキルカに戻り。

 あとの力は、ルナに行き渡る。


「ってえな! ざけんじゃねえぞクソガキども!」


 サクライが片膝を立てながら、マリアの髪を掴んで叫んだ。

 しかしすぐさま、サクライの身体の数センチ横を、室内にあった大きな黒いテーブルが水平に飛んできた。

 サクライの腕にテーブルの脚が巻き込まれて弾き飛ばされ、そのテーブルが壁にぶつかると、激しい衝撃で部屋が揺れた。


「――ふざけてんのはそっちだろうが!!」


 ルナが叫ぶ。あまりにも大きな声で、控室にはその音圧がびりびりと響いた。

 黒いテーブルは控室の壁にぶつかって割れて、その壁には亀裂を走らせていた。

 ルナの手前で仰向けに倒れていたハルトが立ち上がろうとしていると、すかさずルナはハルトの胸倉を掴んだ。


「おまえ! キルカ助けに来たんじゃないのかよ!」


 有無を言わさずルナはハルトを片手で持ち上げ、ハルトの顔面を、その身体ごと平手打ちではたき飛ばした。

 ハルトは声すらあげられず、ゴム人形のように飛んでソファの後ろの壁に転がった。


「ずっとあんたを待ってたのに! わたしの友達泣かせてんじゃねえよこのクソ野郎!」


 キルカは自分の両手首を縛るビニールテープを引き千切った。壁際まで飛んだハルトを見て、ついルナのほうへと駆け出した。


「まってルナ! 力の加減が――!」


 キルカの力は、たとえ半分だっていきなり使いこなせるものではない。子どもの頃のキルカもたくさんの物を壊してきたから、きっとあぶない。


「てめえら勝手に動くんじゃねえ!」


 ルナとハルトの方へ向かったキルカの背後で、マリアの短い悲鳴が聴こえた。

 サクライはさきほどマリアの蹴飛ばした拳銃を確保しており、無理矢理に引きずりあげたマリアの側頭部へ、その銃口を押し付けていた。


「クソっ! これだから魔人ってのは……!」


 サクライは拳銃を持った右手に口を寄せ、マリアを左腕で抱えつつ、左手の鈴を激しく鳴らした。


「――おいクズリ聴こえるか! いますぐ『全部起動しろ』! この件はもうバラす! 『天秤』を奪われた!」


 サクライはそう言いながら、マリアを引きずって控室から出ようと下がっていく。


「逃げんな!」


 ルナが履いていた靴をサクライへ投げつけた。

 サクライが靴に反応し、頭を横に振ったのを見て、キルカはサクライへと駆け出した。

 するとそれを見計らったのか、サクライはマリアの背中を押し出すように蹴り飛ばす。キルカは倒れ込んでくるマリアを、素早く屈んで受け止めた。


 その直後、ぱん、と音がした。


「……っ!」


 キルカは銃撃の盾になるように身を翻し、マリアを抱きしめた。

 ぱん、ぱん、と、乾いた銃声が続けて響いた。

 しかし撃たれた衝撃はなかった。キルカも、抱きとめたマリアもサクライに撃たれてはいない。

 ただ一瞬、停まったような空気のなかで、心臓だけがうるさく鳴っていた。


「……あ、キルカ?」


 キルカは素早くルナを見た。

 控室のドアは開け放たれ、サクライの走る音がどんどん遠ざかっていった。


「あんた意外と……頑丈じゃ、ないんだ」


 ルナは部屋の奥に立ったまま。

 撃たれたためか右頬を切って真っ赤な血を垂れ流して。

 黒いジャージを着たその腹あたりには。

 小さな穴が、ふたつ空いていた。


 それから数秒もしないうちに。

 控室のなかは、さっきのようにずしんと揺れた。


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