〇3-6 マリア
土曜日。キルカは待ち合わせ時刻に向けて準備を終え、新品のピンク色のスニーカーに足を通す。立ち上がってふと横を見ると、玄関の靴箱の上に、ハルトから渡された銀色のイヤーカフが放置されていた。
魔業だ。
彼はなんでこんなものを持っていたのだろうと思いつつ、指でつまんだ。装着するのはあまり気が進まないが、ハルトなりに心配してくれているのを無碍にするのも違う気がした。
玄関にある小さい鏡を覗く。真っ黒な髪は仕事と同じようにツインテールにして整えた。しっかり艶があり、巻き加減もいい感じ。着ている服は白ニットと細い銀色のネックレスと黒スカートに地味な色のジャケット。
ナチュラルメイクした肌の色だけれど、この色のイヤーカフが付いていても不自然ではない。仕方ないので右耳に付けた。そんなに悪い感じではなかったので、とりあえずよしとした。
緊張で喉が渇いている。我慢してドアを開けた。
なんのへんてつもない昼。予報通り晴れていたけれど、最寄りの駅に来たあたりで視界に違和感を覚えた。イヤーカフのせいかもしれない。耳に触りながら周囲を見回す。雑音が聞こえた気がした。一応確認したがハルトは近くに居ない。本日キルカが休みなので、ハルトは昼営業のバイトにも入っているはずなのである。
人通りは多かった。たくさんの人、観光客も見られる。格好もそれぞれだから、視界は建物の広告も相まってカラフルだった。立ち止まったらぶつかられるので、歩きながら人の流れから外れ、スマートフォンで待ち合わせ場所を確認した。
「あ。思ったより遠いなぁー……」
時間に遅れそうだったので、キルカは駆け足になって改札を通り電車に飛び乗った。シンジュク区画内の一駅ぶんだけど、歩くよりずっと速い。
◇
待ち合わせ場所のコーヒーチェーン店の前に行くと、マリアが立っていた。
褐色の肌は変わらず。焦げ茶色の髪は、以前のセミロングから整ったショートヘアになってすっきりした印象だった。赤いタートルネックと黒いロングスカートに黒いブーツで、カーキの上着を羽織り、小さな革のショルダーバッグ。ハルトが好きそうな格好だと不意に思った。
黒いサングラス越しに、どこかうわの空のように晴れた空を見ている。よく見るとワイヤレスイヤホンをしていた。
「マリー?」
彼女の視界の横から、キルカがおそるおそる顔を出して手を振った。
キルカを見て笑顔になった女性は、サングラスを外した。
一瞬キルカはどきりとした。
よく似た別の人に声を掛けたのかと勘違いした。
女性の瞳は、灰色の瞳だった。
以前のマリアの瞳の色は、角膜である部分が白で、一般に白目と呼ばれる強膜も同じく白。眼球全体が真っ白な眼だった。
日常的にはカラーコンタクトを入れたりして白目の角膜を黒目に見せていたけれど、いまの彼女の瞳は、カラコンではない自然な灰色の瞳に見える。
「キルちゃん! ほんものー!」
声と表情がマリアだった。
「ほんものしかいないよー!」
久しぶりで少し緊張していたなか、すぐに全く問題ないことがわかり、強張っていた全身の力が抜けた。その勢いでハグした。マリアはキルカより身長が高く、しっかり受け止めてくれるので頼もしい。
「すごい。ほんとに会ってもらえるもんなんだ」
「キルちゃんが連絡くれたからだよ」
二人で少し歩き、紅茶専門の喫茶店に向かった。キルカが席だけ予約していたのでスムーズに入店する。
席は二人掛けの二階の窓際だった。壁際の花の装飾の隙間の窓から店外の通りを見下ろすことができる。外は人通りが多く混み合っているが、この店内は喧騒から断絶され、静かで落ち着いた音楽が聴こえていた。
「マリーは普段お紅茶飲むんだっけ」
「『お紅茶』?」
「お紅茶っていえば上品っぽくない?」
マリアは口元に手を寄せて笑った。右手の薬指には木製のような指輪があった。
「あたしいつもコーヒーだから新鮮なんだ」
「私も飲まないかな。普段は水だけ」
「みず!」
メニュー表からサラダとワッフルを注文し、キルカが少し前のめりで座ると、マリアは背筋を伸ばした。灰色の瞳をひらいて、じっとキルカを見つめる。
「久しぶりのキルちゃんの顔、なんだかすごく元気にみえるね」
「あたしもマリーに同じこと言おうとしてた」
「キルちゃんは例の新しいアルバイトの子でしょ。私に電話掛けろって言った」
「まー。たぶん?」
キルカは鼻先を掻いた。
「こないだもふたりで飲みに行って、あたしが腕相撲で勝って全部払わせたよ」
「えぇっ。キルちゃんにかなう人いないでしょ」
「ね。なんでああなったんだろ。超酔ったからあたしも覚えてないけど、あたしの力が楽しいみたい」
「あらあら……ふたりでたくさん楽しんで……」
マリアはわざとらしく口元を隠して笑った。
「ほんとね、全然そういうへんな雰囲気になんなくて助かるんだよその人。仕事中も結構なんでもやってくれるし超便利だし。ちゃんと会話できる感じだし」
実感を口にしてみたが、まあまあ気持ち悪いことを言った、と思った。しかしマリアは楽しげに笑っている。
「あー。カギリさんと違って?」
「いやいや、カギリさんはマイペースだからこそいいの。あのふわっとした感じ、相変わらずで安定感あるよ」
「ね。安定感は大事。ちょっと怖いけど」
マリアは何度か頷いた。
「キルちゃんは今の職場なら、私たちのときみたいに愚痴大会にはならなそうだね」
「あー! たしかにヤツ、あんま愚痴言わないな。じゃあまだイジりしろある」
「無理に愚痴言わなくてもいいんじゃない。やっぱりよくない感じもするし、私も今は愚痴とかないよ」
「でもほら、あのサカナのサカモトさんの話はあるよ! こないだだって朝に釣った生魚、昼前にお店にいっぱい持ってきたから大変で。結局あたしが魚屋さんに持ってって、ニオイが袖について取れなくて……」
ぽつりと湧いてきたので、マリアがいた時の常連の話をした。マリアも全く興味がないわけでもない様子で、当事の客たちの話や出来事がぶり返してくる。
顔を見て話すだけで以前の調子に戻れてしまうのがなんだかうれしくて、キルカは余計な文句まで彼女に漏らした。やっぱり魔人は面倒だとか、酔っ払いはどうしようもない大人の贅沢だとか。
キルカはマリアとの会話で、『久しぶりに友達に会って話す』という感覚についてなんとなく理解できた気がした。
小学生の友達には会えていないし、中学校もほとんど通っていないから、いままで旧友という概念がなかった。これはあまり知り得てこなかったもので、もうすこし味わいたいくらい新鮮だった。
「マリーも前より元気そうだね。バイトしてたときなんて、目つきとかすごいことあったから」
「今はとっても元気。病院通ってて、毎日体調管理もしてるし」
「え? どこか悪いの」
「ううん。治験」
「ちけん?」
「そう。薬だけもらって血液検査とかしたり、3食ちゃんと食べて、睡眠時間の記録つけて、運動もして、たまに面談して、たまに入院して、みたいな」
キルカは少し考えて、自分の手を組んだ。
「それってちなみになんの治験?」
「本当は他言しちゃダメなんだけど、内緒にしてね」
キルカが頷くと、マリアは他の客には聞こえないよう、顔を寄せてコソコソした素振りで口を開く。
「身体から魔素をなくす薬」
キルカは目を丸くした。
キルカとマリアは魔人についてよく二人でよく話し合っていた。
店に来る厄介な魔人や、その特殊能力由来の迷惑行為だけでなく。お互い魔人同士であることに、ひとつの共通項をもっていた。
キルカは過剰な力。マリアは魔素が見えてしまう目と、その白すぎる瞳そのものについて。魔人であることの特性により、『普通』でいられないことのコンプレックスのようなものを持ちながら、二人で笑い合っていた。
こんなのなくてもいいのにね、と。
マリアは灰色に輝く瞳で、すっきりとした笑顔を見せてきた。
「この治験がうまくいけば、きっとお父さんにもちゃんと会えるんだ」
マリアのお父さん。キルカは街の一角に貼られていた選挙ポスターを思い出した。
「政治家さんだから、外向きには魔人との関わりを見せられないんだったっけ」
マリアの父親は魔業の規制強化を訴える政治家で、母親はシンジュクのスナックを経営している魔人だと聞いていた。そのために魔人の生活の幅を狭めうるマリアの父の活動は、母との仲を悪化させていて、その反動か、マリア自身に対してその父は優しかったらしい。
マリアの父親は、危険な魔業の拡大を社会規模で自浄させるために国内での厳罰化を推進しており、魔人に広く真っ当な汎人社会への適応を促すのが目的であるという。ゆえに魔人の存在はむしろ尊重しているというのが、マリアによる父についての弁だった。
そしてマリア自身は、優しい父と家族らしく居られないのが嫌で、父を嫌っている母親からも離れている。
「それももういいの。薬の開発が進んだらそのうち、私は魔人を辞められる」
注文したワッフルとサラダが並べられていくのをキルカは見下ろす。
皿の上に飾られたそれらから、材料である白い卵の黄身、割れた卵の殻、収穫された小麦、瑞々しい野菜とその種子や土が無意識に想起された。
ワッフルやサラダになったものはどうしたって元からそれでしかない。
『魔人を辞められる』とは、なにをすればそういえるのだろう。
「今日会ったのも、せっかくだからキルちゃんもどうかなって思って」
「あたしも?」
「身体の魔素さえなくせば、私達みたいな体質とさよならできるよ」
マリーは楽しげに、大きく瞳を見開いてみせた。
「私の眼を見たらよくわかるよね」
彼女の言うとおり、その瞳は以前と異なっているために、彼女自身がどこか今までと違った人間のようにも思えた。おそらくマリア自身が自分の瞳でキルカを直視することが今までなかったためで、現在ではその経過こそが、自信のようなものをその表情に与えている。
キルカは返事に窮した。
その自分自身の反応で、キルカは自己の魔人の特性をそれほど嫌っていないのがわかった。
「そーだね。あたしも考えてみよ」
「それがいいと思う。それにまだ治験の段階だから、ちゃんと報酬も貰えるよ」
「意外とマリーも抜け目ないなー」
談笑しながら食事と紅茶を満喫し、デザートのフルーツタルトを食べていると、マリアが腕時計を見た。
キルカが思っていたよりもゆっくりと過ごせていたため、それなりの時間が経っていたのかもしれなかった。
「マリーこのあと用事あるんだっけ」
「うん。でも急いではいないから、夕方までは大丈夫」
キルカは少し考える。万が一、ハルトの心配が的中してしまう可能性がわずかにでもあるなら、明るいうちに解散したほうがいいのかもしれない。
キルカは追加で注文していた、甘い香りの紅茶を飲み干した。
飲み干したのに、喉の渇きを感じた。
「そういえばマリー」
「うん?」
「クズリさん、借りてるもの返せって言ってたよ」
手元のティーカップを持ち上げようとしたマリアの動きが止まった。
「実は、この間会ったときに言われてたんだ。具体的になんのことかは聞いてないけど、マリーに言えばわかるとか。連絡先も変わってないから……って、一応、伝えた……」
彼女は口角をあげていた。目は笑っていない。
見慣れはじめた彼女の灰色の瞳は、キルカを見ていない。
「そっか」
マリアは足元の籠に入れていた自分のハンドバッグを取り出した。
「マリー、帰るの?」
「ううん。お会計済ませようかなって」
キルカは自分の心音が高鳴るのを感じた。
「『借りてるもの』。心当たりあるのかな」
「あるよ」
マリアは隠しごとをするような様子は見せず、右手を開いて見せてきた。
その薬指には、白、茶、黒と、色の異なる木材を組み合わせたようなデザインの指輪が嵌められている。
「これ。借りてる」
キルカにはそれが具体的にどんなものかはわからなかったが、なんなのかは分かった気がした。
「……魔業?」
マリアは『しーっ』と指を口に当て、指輪を嵌めた手をキルカに見せつけた。
「荷物と一緒に入ってたメモには、魔人の力や魔素を調整する指輪だって書いてて。私は魔素を抑えるのに使ってる」
治験と目的が一緒だ。
「前に言ってたマリーが『探してたもの』って、それだっていうことなのかな。それが見つかったから、バイトいきなり辞めちゃったの?」
「ううん。こんな魔業だとは思ってなかったよ。これは、あくまで結果的にそうだっただけ」
「クズリさんの仕事を手伝ってた理由は、そういう魔業が見つかるかもしれないから?」
「最初はただの興味本位。私は魔業に関わってこなかったし、お父さんが問題視するものを知りたかったから。それで、検品してたときに見つけた魔業がたまたまこれだっただけ。キルちゃんの分もあるよ。いまも持ってる」
「あたしの分って……」
マリアは自分の手を握るように組んでいる。
「……それ、クズリさんには言ったの?」
首を左右に振った。
「黙って借りた。薬の効果が安定してきたらちゃんと返すつもりだよ。いまはこの指輪がちゃんと機能してるから、使わせてもらってる」
「…………」
それは盗んだということだ。
キルカはマリアの『借りてるもの』について一抹の疑いをもっていたが、問題が露わになってしまった。
誰かが配達物に紛れ込ませていた魔業をマリアが拝借してしまったなら、発送先のどこかで必ず問題になる。普通の配達物でも決して軽微な問題ではないのに、このケースに至っては、それは魔業だ。
サクライが『ポータル』を扱っていたように、マリアの持つ魔業も、どこかの誰かが製造して顧客に引き渡そうとしていたということ。魔業のやりとりをしている者なんて、少なくとも一般人ではない。
あのときクズリは『待てねえ』とも言っていた。
きっと客がクズリを詰めるのは簡単だ。依頼物が届かないだけでなく、たとえば違法な魔業の取り扱いがなされている業者だと通報でもされれば、しばらく仕事ができなくなるのは目に見えている。クズリは元の送り主になんらかの圧力をかけられ、仕事の責任者としてマリアを探していたのかもしれない。
「これのおかげで私、普通の人の眼になれてる」
嬉しそうにマリアが言った。
キルカは一瞬、言葉が出なくなった。
普段の雑談のなかでも、マリアは自分の瞳が嫌いなのだと何度も聞いていた。
その瞳は彼女の魔素由来のもので、生まれ持った体質から発現した不幸だとも。魔素が視える瞳は視界に魔素が重なるため、魔人の顔がろくに見えないことも。自分の瞳でなく、写真越しにしか他の魔人や本来のキルカの姿を見られないことも。裸眼で人に会うと驚かれることも。汎人には目も合わせてもらえないことも。真っ白な瞳が気持ち悪いと言われることも。
毎日カラーコンタクトをつける自分も。それを剥がしたあとの自分も。カラーコンタクトを忘れると、怖くて街をろくに歩けなくなる自分も。
両親それぞれの、マリアへの視線も。
それらを彼女は、ときおり涙を浮かべるくらいに嫌がっていた。
「キルちゃんの顔。今日は本当に明るくみえるんだ」
このマリアの満足そうな笑顔は、何によってもたらされたものなのだろう。
「元々はね。シンジュクで、『みちる』だとかのアルバイトの人達がそこを辞めてしばらくしたら、魔人の特性を失くすって話をきいてた。もしかしたら私もそうなれるのかなって思って、あそこのバイト始めたの」
キルカにはまるで心当たりのない話だった。
「なにそれ、どこできいたの?」
「お父さんの秘書さんから。その関係のSNSの動画もあったんだ。キルちゃんはSNS嫌いだから言わなかったけど……元はシンジュクのWEBの記事が発端みたいで、もっと前からシンジュクでは『みちる』以外でも、繁華街の魔人が魔素を失うことが実際にあったっていう話だよ。『みちる』もいくつかある『シンジュクの某店』のひとつで、探すのは秘書さんに手伝ってもらった」
ふいにキルカの耳にノイズが聴こえた気がした。
「それで私は家出して『みちる』に来た。それからしばらくなにもなかったけど、辞める間際になってから色々話す機会をもらって、今の治験を紹介してもらえた」
「だれに」
マリアは勿体ぶる様子もなかった。
「『みちる』のオーナーさん」
電話の『オオノさん』って聞き間違えだったんだ。
一瞬、キルカは無感情な言葉が浮かんだ。
ハルトのようにメモでも書いて整理がしたかった。
店のオーナーはトマリだ。なぜ彼の存在がここで出てくるのか理解できなかった。彼がその治験に関わっているということなのか。
大学病院で医者をしていたという彼。
父や母とそこで関わりがあったという彼。
彼が、マリアに声をかけたということなのか。
ぐるぐると疑問が浮かび、同時に嫌な感じがした。キルカは自分のこめかみに冷や汗をかいていることに気付いた。
魔人でなくなる薬。
他のアルバイト達も、トマリからその治験に勧誘されてバイトを辞めていたということだとしたら、次から次へと辞めていくのはそのせいなのか。
キルカが考えているうちに、マリアはぽかんと口をあけて、窓の際の木の装飾の隙間から、店の外を見下ろすように眺めていた。
「……やっぱり私、帰ろうかな」
「えっ、と……指輪、どうする?」
マリアはキルカを見て、萎れた植物のように弱々しい笑みを浮かべた。
「返すよ。ちゃんと返すから」
マリアは爪で指輪を引っ掻くように無でた。
すぐに、ではないのだろう。
「できれば早めにね。クズリさんも焦ってるかもしれないし……もし気まずいとか怖いとかだったら、あたしもついてくから」
「ありがとうキルちゃん」
強要したくなくてそう伝えた。マリアに告げてから、昨年の自らの暴行事件を思い出した。また同じ事をしているのかもしれないと気付いて、はっと息を呑んだ。
マリアはハンドバッグを肩に掛け、上着のコートを着込んだ。コートはフードつきで、そのフードは目深に被れるくらい大きい。
それを見ながら、キルカも店を出る準備をした。
「支払いは私がするよ」
「えっ? 半分こじゃ」
キルカの反応を待たずにマリアは伝票を取った。早足で階段を降りて一階のレジまで歩いていき、会計を済ませてしまう。
店の一階では紅茶の葉やお菓子が売っている。帰りがけに見ていこうと食事しながら話していたが、マリアはフードを被り、からんと鈴の音を鳴らして、すぐに店を出ていった。
追いかけようか迷った。もしこのままマリアがクズリと接触しようとしなかったらきっとよくない。しかし、キルカがそれについてどこまで首を突っ込んでいいものなのかも分からなかった。
マリアの瞳のことは何度も聞いていたから、その背景を理解していたつもりだった。けれどそれが、無断で盗みを働いてしまうほどの切実さであったというのは、キルカは想像もしていなかった。
キルカは自分の瞳の色が好きだったから、なおさら彼女を追及することはできないと感じていた。
魔業を持つのはあまりよくないことだとか、クズリとの関係を心配するだとか、マリア自身がそんなことを理解していないはずもない。
マリアはそれだけの考えをもって、あの指輪を手に取ることにしたのだ。
シンジュクの路上でルナに言われた言葉を、頭のなかで繰り返す。
『余計なお世話』。
下手に自分が行動するとろくなことにならないというのは身を持って理解している。ついこの間もスリの勘違いをしているし、ハルトが居なければ揉めていたかもしれない。
くわえて、もしキルカがキルカなりの考えでマリアの事情に無理に踏み込んだ時、キルカの意見を聞いてくれるのかもわからなかった。
そのときマリアがキルカに向けて、どんな表情や言葉を向けてくるのかも想像したくなかった。
知らない人間からなら何を言われても関係ないと思っているけれど。
あのときルナに言われたような言葉を、そう何度も聞けるほど強くなれてはいない。
マリアを見送ったキルカはしばらく考えたのち、喫茶店の前から歩き出そうとした。
するとシンジュクの混雑のなかで、視界の端にほとんど動かない人影を認めた。
もちろん他にもたくさんの人がいるから、立ち止まったり何かを待っていたりで、様々な動かない理由があるのだろう。
それでもキルカにはその人影をすぐに認識できた。
思わず早足になった。
朝。玄関を出てからわずかな違和感を覚えていた。なんとなくいつもと違う空気。足音の響き。すれ違う人との距離感や、キルカが顔をあげたときの風景。なにかが身体にまとわりついていた感じがした。
それがどこか普段と違うような気持ち悪さがあり、あえて電車に走って飛び乗った。
その理由がようやくわかった。
見慣れた存在が、ずっと周囲をうろついていたからだ。
『その人』は頭に黒いフードを被って、キルカに気づいたのか背中を向けて歩き出した。
すぐに駆け出したキルカは、その腕を強く掴んだ。
「まって」
訊ねた相手はぴたりと止まった。
「……尾けてたの?」
少しの間を置いてから。
『その人』はフードを外した。
キルカにとって見覚えのある顔が、そこにあった。




