〇3-5 あんとき
キルカは酔った頭で、懐かしい遊郭の情景や同僚達の顔を想起する。数年前のことだからそれはなんだかぼんやりとしていて、どこか輪郭は不明瞭だった。
「あたし、ちょっと前までヨシワラ遊郭に居たんだ」
息を吸って。ハルトに話した。
鳴牙組のサクライが遊郭の常連で、キルカに魔業ビジネスの手伝いをさせようとしてきたこと。彼を拒絶したことで遊郭を追放され、一方でその部下は遊郭で暴れていたこと。結果的にそのために、かつての同僚と仲違いしたこと。
話しているうちに喉奥がもやもやとして、キルカは余分に酒を飲んだ。
「……だいたいこんな感じ。それで心がバキバキになっちゃったときにトマリさんに拾ってもらって、イマみたいな」
「なんだよ蜂とか意味わかんねえし……。サクライも大概だけど、なんかみんなめちゃくちゃだって思っちゃったよ。……キルカ、しばらく相当辛かっただろ」
話しているあいだ、彼は静かにキルカを見ていた。寄り添ってくるような過度な同情ではなく、事実を飲み込んで咀嚼しているようだった。
キルカは咳をした。自分にはよくわからない自嘲するような笑いが喉元からこみ上げてきて、つい口が開くのを止められなかった。
「ほんと困っちゃったよね。まー正直あたしもひどくてめちゃくちゃだったと思うよ。振り返ってみると、何ヶ月もなんであんな生活してたんだろって思うし。トーキョーで周りの魔人のヒトも行き場のない環境だったから、慣れちゃってたのかなって感じで」
手元が落ち着かなくて、自分の腕を掴んだ。
「たぶんそういうの……もっと最初からね、あのときあたしが力ずくでお店ぶっ壊して飛び込んで、サクライ達を一人残らずボッコボコにすれば良かったのかなー、って思うよ。やればできるのにあたしは何もしなかった。思い切れなかったんだ。前の職場の友達だってもっと、今よりいい状況を維持できてたのかもしれないし……お母さんにも、叩かれなくてよかったのかもしれない」
「……それは」
「いまだってどうしたらいいのかわかんないけど、『どうしたらいいのかわかんない』のも、本当は悪いことなんだよ。だからあたしがこうなっちゃったのも結局全部あたしのせい。生きてて起きたことみんな、できてこなかったことみんな、ちゃんと行動してこなかったあたしの責任だって思って、いまは」
「そんなわけないだろ」
ハルトは間を空けずに言うと、キルカを見ながらむっと口を閉じて、鼻から深くゆっくりと息を吐いた。
「あのときああしとけばとか、自分にもっとなんか出来たのかも、ってのはめちゃくちゃ思うよ。考え出したら寝られなくなるし、夢にまで出てくる」
キルカはさきほど事件を思い出していた彼のその表情を思い出した。
急に胸の奥が詰まったような感じがして、気持ち悪くなってきた。
「だけど。そういうのが全部ひとりのせいになるなんてことは、絶対ない」
ハルトにも、この考えに実感がある。
「……そんなに物事が簡単じゃないってことは。こっちに暮らし始めてから、やっと少しは考えられるようになってきたんだ」
きっと彼も同じようなことを過去に何度も考えてしまっているのが、今の様子でわかってしまった。
「あたし、は……」
よくないと思った。
この感覚をおそらく共有できてしまえるから、キルカはこのまま話して、抱えてしまっているものを預けて、楽になろうとしている自分を自覚した。
ハルトは少しだけキルカの先を歩いているから。
ずっと燻っている自己否定を、おそらく似たものを抱えてきた彼に、否定してほしくなってしまっている。
「あ……っ……、あのっ、あと……あとね? もっと前にも、親とうまくいかなかったことあって……。おみせ、お母さんと遊郭に行くことになったのも、原因、あたしにあるんだ。お父さんが事故に巻き込まれちゃったのは、あたしがあのとき、お父さんに、何回も何回もわがまま言ったからで、……っ!」
少しだけ苦しそうなハルトの瞳と視線がぶつかった。
キルカの鼻の奥が一気に痛くなって、掌で口元を押さえた。
「……あぶなっ。やめる」
「うん、やめよう」
「違うの。ちゃんと聞いてもらってると思ったら、なんか……、なんかドバドバ全部吐き出したくなっちゃって……、だめだ、こんなの……」
ハルトがおしぼりを店員に頼んだ。
すぐに温かいおしぼりが手元にやってきて、キルカは顔を天井に向け、おしぼりを目元に強く押し付けるように覆った。
「……はーっ。別のものがドバる」
しばらくしてからおしぼりを手放した。
「安心しろよキルカ。お互い仕事柄ゲロの処理なら慣れてるんだ。どんだけドバらせようが受け入れる覚悟」
「ほんと最悪なフォローありがとー!」
切り替えてそれから結局、閉店の午前零時まで二人で飲み食いし続けた。
途中からはもう何の話をしたのかも覚えていないくらい泥酔して、キルカは話しながら、泣いたり鼻水を垂らして笑って、おそらくハルトも鼻をすすりながらたくさん酒を飲んだ。
父親を遊園地に誘ったことで首都高の事件に巻き込んでしまったことも、それからずっと母親が怖くなってしまったこともほとんど彼に話した。なぜか彼も母親を怖がっていた時期があったらしくて、そこも共感して笑ってしまった。
どんな話し方になったのかはわからなかった。けれどみぞおちのあたりが少しだけ楽になっていたから、頭のなかでぐちゃぐちゃに仕舞い込んできたそれを、いくつかの言葉にして吐き出してしまえたのだろうとキルカは思えていた。
昔のことは誰にも言えなかった。
言うつもりもなかった。
口に出したらなにかが崩れてしまう気がしたから。
けれどあれから少しだけ時間が経って。母と距離を置いて居られたこともあって。ようやくずっと抱え込んでいたものを掴めたような気がした。
これはくだらない不幸自慢なのかもしれない。しかしそんなことすら考えられないくらいがぶがぶと酒を飲んでしまっていた。抱えていた想いも吐き気も勝手に身体から溢れだしていくのが、いまは自然だった。
「あたし、ひとつ思いついた」
「はい先輩」
「目標。みつけたよ」
キルカは多少具合を悪くしながら、ほとんどなにも考えずに口をひらいた。ハルトも重そうに頭を抱えていたが、眠そうな顔を正してキルカを見る。
「あたしのおごりでみんなでランドにいく。いま会えてない子たちみんな捕まえて、なんならお母さんも連れていく」
「ぉお、……思ったよりちゃんと目標らしい目標だ。すごい……」
乗り越えようとするべき一線はまずそこではないかと、キルカはほとんど考えずに口に出していた。
「色々話してたらイケるような気になってきた。昔のことだって『おはなし』にしてったら、とりあえず事実は事実なんだって飲み込めてるような気がしてる。お父さんのこともお母さんのこともちょっとだけ……ぐぅっ、ちょっとだけっすね……」
「それはもう行くしかないな」
「うん。いまあたしメガトンキルカだからね」
「無敵ってこと?」
「そ。ムテキルカ」
「それ語呂がいい」
ばかなことを繰り返して口に出しているうちに、キルカはなんだか無敵になり始めているのを自覚する。いつか自分が無敵だと思えていたこともあったし、今でもきっと本当は無敵だ。
言葉にしていくほどに頭のなかにある概念がわかりやすくなって、口に出すのを憚らなければいけないものでもないというのは、どこか感覚としてわかってきていた。
「じゃあがんばろうぜ。せっかくのいい目標」
ハルトは拳を差し出してきた。
「がんばるよ。酒さえあれば。がんばれる」
「アル中川柳かよ」
キルカはその拳に向けて、自分の拳を突き返した。
最後の会計はなぜか腕相撲で決めることになり、キルカが手加減せずにハルトを瞬殺した結果、床にひっくり返ったハルトが飲み代を全額支払った。
ハルトは床に転がされて一人でものすごく笑っていた。堪えようとすると腕が折れるから吹っ飛ぶしかないとのことだが、やたらと楽しそうだった。
「ねーそんな面白い? 車持ち上げた時も笑ってた」
「まじでヤバい。キルカの力がすごすぎて楽しくなってる」
「意味わかんない」
「なんていうのかな……その力もってんのがキルカで良かったと思う」
「はぁー? 持ってるなりにたいへんなんですけど。怖がられたり利用されたり色々あるんですけど」
「そう?」
「そーだよ。こんなのいらないって思うこともあるもん。普通じゃないし、化け物っていわれるし、かわいくないし」
ハルトは「かわいさなんだ」と笑った。
「だけどそんだけの力があっても、キルカは自分の都合でそれをつかう考えが無さそうじゃん?」
「んー、ないことはないが……」
「それって多分すごいことだよ。そんだけパワーがあったら普通、良くも悪くも、もっと何かしらに利用しようとすると思う」
「……ちょっとバカにされてるな……?」
「褒めてるよ。俺なら、そうはできないから」
「ぜったい褒めてないんだよなー」
力についての考えかたは、同じ魔人である父親に何度か話をしてもらっていた。父親の話していた具体的な言葉は怪しいけれど、キルカがあまり力を振り回さないようにしている理由は、父親にあると思っている。
キルカはなんとなく機嫌をよくして、『天竜』のドアを勢いよくあけた。
「ああ、そうだキルカ」
帰りがけの路上で、足取りのおぼつかないハルトが呼び止めてきた。
「これ渡しておく」
ポケットから出してきたのは、銀色の半分の輪だった。イヤーカフだ。
「なにこれ」
「緊急電話用の魔業」
ハルトは同じ形のイヤーカフを見せた。彼の手元のものには黒い紐のようなものが巻き付いていて、彼はそれを右耳に付けた。
キルカも真似して付けて、いくつかやり取りを実演された結果、確かに遠隔で会話が出来るようだった。
「例の日。なんかあった時のために付けといてくれ」
「服に合わなかったらつけなくていい?」
「いいよ」
ハルトは噴き出して笑った。ペアになるのはちょっと気まずいと思ったので、本当に付けるかは怪しかった。
「あと……お互い色々あると思うけど、俺がいま世話になってるヨシノさんからの言葉を授ける」
深酒していくなかでハルトとの会話のなかで出てきた人物だ。彼はヨシノについて、自分の父親以上の信頼を寄せている様子だった。
「『あんときはヤバかったって笑えるようになれ』」
「――ちょっと! いま! あたし今だよしんどいのはー!」
けらけらと笑った。二人とも理性が壊れかけていて、話し声すらかなり大きくなっていた。
暗く静かな路上に声が響く。どうしたって迷惑なのに、夜風も相まって少し気持ちがいい。
「俺も散々自分責めたり、無言で親父にプレッシャーかけられた時期とかしばらくあったけど……まあ、今にして思えば『あんときはヤバかった』。まだそう言い切れてもいないけど、そんな距離感でいい気はしてきてる」
「あたしのそれっていつになるんだよー」
「たぶん気づけば、『今』が『あんとき』になるんじゃねーの。なんなら折り合いがついててもついてなくても、とにかく生きてたらそのうち、全部が『あんとき』になってくんだ。中年のおっさんが言ってたんだから、きっとそれは間違いない」
「……あんとき」
キルカは一四年両親と過ごして、四年ほどは『ジュリエット』、ネットカフェ生活を経て、一年『みちる』にいる。
それぞれの時期を振り返るたび、現在まで積み上げてきた人生越しに過去を見据えることになるのは体感的に理解できた。
いまは『みちる』にいる自分越しに。ネットカフェで過ごした日々、ジュリエットの仲間といた日々、両親といた日々を俯瞰する。もっと過去にいた自分は、それよりも前の記憶だけを振り返りながら。
過去にいる自分はそれよりも過去の自分とはちがう。今の自分とは異なる視点で生きていて、過去の自分が生きてきた結果が、過去からつづく今の自分を地続きに作り続けている。
過去は時間が経つほど、当時の視点からは距離が離れていく。だんだんと記憶も薄れていって、もしかしたら実感からも遠ざかっていく。
けれど現在を生きていくなかで削り落とされて残ったものなら、触れても痛くないものに移り変わってくれるのかもしれない。
きっとそういえるときが『あんとき』なのだ。今日のようにハルトや、誰かとそれを話し合えるくらいに過去のことを『あんとき』として抱え込んであげられるのなら、生きるのがすこしだけ楽になるような気がした。
「つまりあたしもハルトもどんな人生も。すべていつかは『あんとき化』するんだ」
「そう言われると重くて軽いな……、なんだよすべてが『あんとき化』って。すげえユルそう」
「ねーやばいお団子食べたくなってきた」
「『あん』に引っ張られすぎでしょ」
「とりあえずコンビニ寄って帰るね」
「あっ、俺も甘いもの買う……」
二人ともひどい泥酔状態で、もう会話になっていないレベルで勝手にぼそぼそとしゃべりながらコンビニに入った。
キルカが次に気付いた時には、一人で自室のベッドに頭を突っ込んで寝ていた。とりあえず無事に帰宅していたようだった。
明日は絶対に二日酔い。土曜にはマリアと会うのに、思い切り顔がむくんでしまうようなことを何故してしまったのか。なんて自分は愚かなのだと反省する。
キルカはまどろみの中で後悔しながら、まぶたの奥で瞳を転がした。
思考は言葉にすらならない文字、線、そして点描のような概念になりながら、次々と形を持たずに破裂して、めまいに等しい身体のだるさと交ざりあって溶けてゆく。
泥のようになった現在の景色は、眠気で塗り潰して過去へと『あんとき化』していく必要がある。
よし。
『体調不良なので日勤休みます。ごめんなさい。夜は行けます。ハルトのせいです』
時間すらわからないなかで店長のカギリにメッセージを送った。
返事を待つことはせず、キルカはそのままドブとまぐわうように、ぐったりとベッドに身を委ねた。




