〇3-1 とあるひ
夜。閉店間際の『みちる』内のテーブルを拭きながら、キルカは後悔していた。
「はぁー、服買わなきゃ……」
ハイジマ・ハルトに煽られた勢いとはいえ、もう辞めた元バイト仲間のマリアと連絡を取ってしまい、会う約束まで取り付けてしまった。
これではマリアに会いたいみたいだ。
いいやもちろん会いたい。けれど会いたいからと望んで会ってしまったら、自分自身がいずれ困ったことになることは想像がついていた。
きっと友達みたいに甘えてしまう。人に甘えても良いことなんてないことはわかっているのに、なんとなく寂しいからと接触のきっかけを探してしまう。
楽しさばかりに目を向けていると、どうせ何らかの反動がやってくる。自身が楽しさに逃げる人間だと分かっていたから、キルカはできるだけ他人との接触を避けるようにしていたのだ。
キルカがトマリに連れられ『みちる』に勤め始め、気付けばもう一年が経っていた。
バーの仕事にも慣れて常連の顔も覚えたし、昼の営業では年配の人達との会話も楽しめるようになれている。
オーナーであるトマリとは、出会った初日以来数えるほどしか会っていない。
カギリはほぼ毎日顔を合わせているが、キルカとしては彼女はちょっと変わった雰囲気の人だとこの期間で知った。踏み込みすぎても肩透かしを食らうし、歩み寄らないと自然と会話もなくなる、フラットすぎる空気感。キルカは基本的に営業モードでカギリと接するようにして、ストレスのない関係を構築することにしていた。
いままでのアルバイト達は、トマリ達に事前に言われていたように結構な頻度で入っては辞めていた。理由は様々で、突然バックレていなくなる者もいれば、客と喧嘩して辞める者もいれば、キルカと関係を持とうと迫ってくるのを無視していたら急に辞めたヤツもいた。
キルカはシンジュクという土地柄も含めて、そういうものなのだろうと受け流すことにしていた。
三ヶ月前の年明けに入ったマリアは、周囲の人や、それまでのバイトたちとは少し違っていた。
彼女はキルカより年齢は一つ上で、まともに雑談や愚痴を言える間柄。少しおっとりしているけれど、お互いの考えをもって自然な会話ができる同年代の相手は、キルカにとって貴重だった。
常連客のクズリの仕事を手伝い始め、そのうちに突然アルバイトをやめてしまったことを除けば、現在のキルカからすれば最も親しい相手だと思っていた。
「キルカ服ないの?」
バーカウンターを片付けていたハルトがキルカに訊いてきた。
彼も今までのバイトの同僚たちとは異なる、わりと『普通』の仕事仲間。同い年にしては、ちょっと落ち着いている印象もある。
「うぁ、きいてたハルト」
「聴こえてたよ。意外じゃん」
閉店時間ながら、お互い今日は飲酒していないのでシラフだ。キルカが掃除しているテーブルのそばのソファには、最近店によく来る若い魔人の男性が黒いフードを被って寝転び、二人居た仲間に取り残されてイビキをかいていた。
彼らのグループは最近、誰かしらがよく放置されている。暴れるわけではないのでいつもスルーしていた。
「意外でしょ。あたし服持ってないんっすよ」
「マリアさんに会うときの服ってこと?」
「うん」
「前も会ってたならその時の服でいいじゃん」
キルカは前髪をかき上げた。ついでに、頭の白いメイドカチューシャも外してスカートのポケットに差し込んだ。
「わかってないなぁ。わかってなくない?」
「知らんけど……というか、会う日程って決まったの?」
「来週の土曜。昼営業のあとに休みもらってるんだ」
「それなら買いに行くタイミングありそうでは」
それはそうだ。毎週水曜が店の定休日なので、次の水曜に買い物をすればさらにその次の土曜の夕方には余裕で間に合う。
お店の定休日か。
キルカはテーブルを拭く布巾を拡げ、表裏をひっくり返した。
「ハルトって次の水曜ヒマ?」
「ヒマ」
「じゃあ付き合って」
キルカがハルトに向いて言うと、バーカウンターのグラスやコースターを片付けていたハルトは一瞬動きを止めた。見るからに怪訝そうな顔になって、ゆっくりと首だけをキルカのほうに向けてきた。
「荷物持ちっすか」
「わかってんじゃーん。車の運転も上手だって聞いたよ」
ねーカギリさん! とキッチンの方へ呼び掛けたが、カギリからの反応はなかった。物置のほうに行っているのかもしれない。
その代わりにソファで寝ていた客が咳をして、ようやく目を覚ましたようだった。
「よし行く。車借りとくから脚はまかしとけ」
「やったぁたすかる! よっパシリ! 便利屋ぁ! ありがとハルト!」
「便利屋は許す。パシリは許さねー」
ハルトは寝ている客の方へやってきて、男性客を起こした。客の足取りは覚束ない。被っていた黒いフードが脱げて、短い銀髪と黒いピアスが見えた。ハルトはその客に付き添い、伝票を渡して支払いをさせ、一緒に店の外まで連れ立っていった。
キルカが誰もいなくなった店内の掃除と片付けを済ませたところで、バーテンダー風の恰好に黒いエプロンを付けていたカギリが、キッチンのほうからやってきた。
「よんだ?」
「カギリさんお疲れさまです。清掃おわりました」
「ありがとー」
二人でハルトの残した片付けを進め、グラス等を持ってキッチンに行こうというところで、カギリは突然動きを止めた。
「ハルト君は外?」
「はい。寝てたお客さま連れて」
「んー」
カギリは不審そうに眉をひそめ、店のドアのほうを眺めている。
やがて数秒くらい経ち、カギリが首を捻った。
「……なんか変だ」
「へ?」
カギリは急に早足になり、足音を荒く立てながらバーカウンターをまわって、店の表の出入口に向かった。その様子が珍しかったので、キルカも駆け足でカギリの後ろについていった。
カギリが勢いよくドアを開けた。がらんっ、と出入口のドアについた鈴が鳴る。
店の正面の表通りは暗い。周りの中華料理屋や居酒屋も閉店している。車同士がギリギリすれ違える程度の幅の道にある弱々しい街灯の下、ドアの左手側の数メートル先にハルトが立っていた。
彼の後ろ姿がある。薄暗い道路の先、誰もいない住宅街の方を向いて、肩で呼吸をしているようだった。
「ハルト君?」
カギリがハルトの方へ歩いていったので、キルカもついていく。
キルカは横から近付いて、ハルトの顔を覗いた。
「汗すご。どうしたのハルト」
ハルトは瞳と口を開けて固まっていた。呼吸だけは荒く、気が動転している様子だった。
薄暗い光源でも、彼の茶色の前髪の隙間に、脂汗が浮いているのがわかった。
「ちょっと、ミスった……」
「魔業かな」
カギリはハルトの正面に立った。
ハルトはまさに今カギリに気付いたように、まばたきを繰り返しながら彼女に目を合わせた。
「あぁ……あの、さっきの銀髪のやつが」
「なにかされた?」
カギリが落ち着いた声で訊ねると、ハルトは首を左右に振った。
その時、キルカは一瞬だけハルトと目が合った。何故だか少し、ハルトは申し訳なさそうに顔を歪めたように見えた。
「ちょっと、びっくりしただけです。酔ってた客、指揮棒みたいなので地面に長方形の落書きし始めて。落書きのなかが溶けるみたいに開いたら、そいつ、そこに飛び降りてここから居なくなって、穴が閉じた」
「え? どこでもドア?」
キルカは反射的に訊いた。どこでもドアのような抜け穴を地面に描いたのかとイメージした。
「へー。移動用の魔業かな」
さらりとカギリは言うが、キルカはそんな便利な魔業があることは知らなかった。
「そんなに驚くようなものじゃないよ。違法かもしれないけど、単なる道具」
カギリは落ち着いていた。ハルトを落ち着かせるためのようでもあった。しかしハルトは狼狽している様子で、自分の口元を右手で抑える。
「……驚いたのは、その穴自体じゃないんです。その穴が開いた時と、閉じた時の音。風とか、なんか空間が無理矢理吸い込まれるような気持ち悪い音で」
ハルトは眉間に皺を寄せた。
「……あれを昔、すぐそばで聴いたことがあったの、思い出して……」
「むかし?」
カギリは目を細めていた。
キルカがハルトをよく見ると、その顔は血の気が引いて白くなっていた。身体を支えようとハルトの腕と肩を掴むと、小刻みに震えている感触がある。
「俺小学生のとき、イケブクロで買い物してたんですよ。普通にふらっと、家族三人で人混みの中歩いて。そしたらいきなり、俺の後ろから『あの音』が聴こえてきて、なにかと思って振り返ったんです」
ハルトは鼻から息を吸った。
「そしたら母さんと妹が、いつの間にか地面にあった黒い穴に引っ掛かってた。崖にでも落ちそうになってるみたいに、上半身だけ地面に這いつくばってた。……それで、その地面の穴は、すぐに気持ち悪い音を立てて、一気に閉じた」
ハルトがふらついたので、キルカは肩を掴んだ。
どこか虚ろになった彼の瞳は、何も見ていなかった。
「俺はその音を聴きながら……ただ突っ立ったまま二人を眺めてたんだ」




