□2-4 やばい。
アルバイトに合格して四日が経った。ハルトは午前中にシンジュク管内の引っ越しバイトをこなした後、勤務開始一時間前の夕方に『みちる』の店舗裏にやってきた。
「こんちは」
休憩室兼事務作業部屋の中心にある折りたたみ式の長テーブルに、キルカが突っ伏して寝ていた。やはり彼女のいつもの業務中のスタイルの、黒いウェーブのロングヘアをツインテールにして白黒メイド服を着込んでいた。
浅い呼吸を繰り返している。挨拶に反応もなく、ハルトが荷物をロッカー室に置いて、従業員指定の黒いエプロンを付けて戻ってきた後も、その体勢に変わりはなかった。
キルカを起こそうと椅子の背もたれに手を伸ばしたところで、彼女のポケットのスマートフォンのアラームが鳴り出した。流行りの曲のインストだった。
「――ぅわっ!」
音に反応したキルカは寝ていた背筋を真っ直ぐに伸ばして飛び起きた。その反動でパイプ椅子がぎしりと揺れ、椅子ごと背中から倒れそうになったので、背もたれをおさえた。
「おはよう先輩」
キルカはスマホのアラームを止め、大きな瞳と口を開き、隣に立っているハルトを見上げた。口の端に垂れていたよだれに気付き、ハルトから目を逸らさずに薄紫色のハンカチをスカートのポケットから取り出して拭いた。
「ろ……労働がはじまるのか……」
「おきて早々追い詰められてる」
「なんでハルトいるんだっけ。あたしがなんか教えなきゃいけないんだっけ?」
「お通しとかメニューの説明してもらえると聞いたので来ました。初日から片付けと掃除しかしてないし」
それか、と呟きながらキルカは立ち上がり、ハルトについてくるよう促しながらキッチンへ向かう。
「ハルトタイムカード押した?」
「仕事のちょい前に押すよ」
「忘れそうだし押しなよ。あたしよく忘れるんだよね」
「忘れもの多い人なんだ」
「興味ないことすぐ忘れんの。こまるー」
わかるー、と雑に呼応して、ハルトはタイムカードを押してからキッチンに入った。業務用冷蔵庫の扉をあけると、中には、出来合いのおでんセットの袋がたくさん入っていた。
「これお通し。お客さん来たらとりあえずこれをボウルに出して、小さいお椀に移してレンチンして出して」
ハルトは話は理解しつつ、扉のあいた冷蔵庫の中を腕を組んで眺めた。冷蔵庫内は和洋中問わず、全て出来合いのものが詰め込まれている。コンビニで買える焼き魚のようなものもある。
「基本ほぼレンチンで、たまに冷凍の揚げものはやるかな。カギリさんは料理あぶないから、あたしかハルトが担当ね」
「あぶない?」
「たまーにうっかりしてるみたいな。味付けもできないみたいな」
バイトに入ってから主にキッチン内で洗い物や掃除をしていたため、ハルトも雰囲気はわかっていた。カギリは基本的に酒やコーヒーなどの飲み物しか出さないことにしていて、それ以外の仕事は全てキルカが行っている。
「とりあえずキルカが出てたほうがみんな楽しそうだし、裏方は俺がやるよ」
「じゃあ分担はそんな感じで。カギリさんも割とテキトーだし、あたしたちでいいようにやるよ」
キルカが冷蔵庫を閉じた。その後はバー営業の基本メニューについて説明を受け、大方の内容は理解した。
「質問いいすか」
「どーぞ」
「この店、食べ物は作らないの? 全部出来合いのもの盛り付けたりでおっけー?」
「ふん」
キルカはメイド姿で腕を組み、偉そうな表情であごをあげた。
「カギリさんはパンケーキしか焼けない。そしてあたしはなにもできないが」
「ドヤ顔どうも」
「それ言ってくるってことは、ハルトは料理できる人なの」
「昔は母親にこき使われてたから最低限なら」
「へぇー、カギリさんに言っとこ。料理できるやつゲットしたぜー」
「誤解されそうだから俺から言うね」
料理ができない人の『料理』のイメージとなると『ちゃんとした料理』のような気がした。
「ハルトシェフの得意料理なに?」
「シェフは肉じゃが作る。自炊は家でもたまにやってるよ」
「まじ? いいじゃんそれ、ふろしきの味!」
「なに……おふくろの味?」
「そうとも言うの」
「そうとしか言わねーでしょ」
ろくに意識したことはなかったが、おふくろの味と言われれば確かにそうだ。母はいつも分量を計らず、味見しながらいつもの味に調えていた。方法としてはおふくろの味らしくはないかもしれないが、その程度の精度ならハルトにも作れる。断じて風呂敷ではない。
「今度キッチンで作ってよ。ここね、炊飯器も立派なのあるのに米すら炊いてないから」
「店長次第では」
「たぶんいいって言うよ。否定されたことないもん」
まかないとか食べたいなー、等と話しつつ。キルカはその他の説明を終え、ハルトへ開店の準備を促した。
◇
「お客さま三名ー!」
一週間ほど後の夜営業。バーカウンター付近にいたキルカがキッチンへ呼びかけた。
ハルトは先日の話からカギリと相談して制作したお通しの肉じゃがを用意し、すぐにキルカへ渡した。
金曜の夜の営業はだいたい夜九時から客が増え始める。近場での一次会を終えた客が来ているようだった。ハルトの以前の居酒屋バイトは一次会に使われることが多かったが、『みちる』はそのような店から出た二次会の客の受け皿としても機能している。
客層は存外に広かった。早い時間には年配の客が中心で、遅い時間になるほど年齢層が下がる。中年から年配の客は昼営業の常連もいるらしく、カギリが相手をしている場面が見られていた。
「肉じゃが好評ー。おかわりだって」
カウンターにいたカギリが、空いた肉じゃがの容器をもってキッチンにやってきた。
「なにしろカギリさんが作ってますからね」
ハルトは洗い物をしながら容器を受け取った。
「私が作ったことにするの結構イヤなんだけどなー。料理のこと訊かれてもわからないし」
「わかってると思いますけど……というか、お客さんはべつに料理のことを聞きたいわけじゃないし、困ったらYouTube見ろって言えばいいんですよ」
「いいかなー」
カギリはそれなりに料理に取り組んでから諦めたようなので、一般的な料理の知識はある。味覚が鈍いから調整が出来ないのだと本人からも聞いていた。
「そうそう、ハルトくんの肉じゃが甘いんだって」
ハルトは作り置きの肉じゃがを手に取った。
「もともと甘いですけど、コレは塩分も濃いめにしてます。酒のアテってことで味の具合はキルカと調整しました。ちなみに試作は全部キルカにあげた」
「あ。だからキルカちゃんしばらくお芋食べられないって言ってたんだ」
キルカは当初「ごはん代が浮く!」と息巻いていたが、ハルトが三日連続で夕方に肉じゃがをたくさん食べさせたので、今はゼリーとヨーグルトしか食べていない。
「あれでめちゃくちゃ食べるから容赦なくいきました」
「味の感想が上手だし、なんでもあげたくなっちゃうよねー」
「そうなんですよ。実験みたいで楽しい」
「ね。私もコーヒーの実験してるよー」
「もうモルモットっすね。喋るモルモット」
「かわいいおしゃべりモルモット」
カギリの言うようにキルカは味についての言語化が得意なようで、材料や分量や手順を変えるとすぐわかるらしく、キルカという判定機があると作りがいもある。
「ちなみに他にもあるのかな。ふろしきの味」
「おふくろの味ね」
「そうとも言うらしいねー」
魔人特有の定型句なのかな。
ハルトはスルーすることを学習した。
「まあ、あるにはありますけど……」
――『なんでてめーはここで飲んでんだよ!』
店のほうから女性の怒号が聴こえてきた。
ハルトは驚いてカギリを思わず見ると、彼女は無表情でカウンターの方に歩いていった。
ハルトも店に出ると、店内の奥のソファ席で飲んでいた三人の若い男達に向かい、茶髪のロングヘアの女が怒りを露わにしていた。服装は白いブラウスと濃い青のスカートで小綺麗な印象があるが、ピアスやネックレスや指輪は銀色の重そうなデザイン。
キルカは彼らから距離をおいて立ち、困り眉でハルトに振り返った。
店長のカギリはといえば、カウンターの内側で、黙って腕を組んで立っている。
「ちょ……姫、落ち着こう?」
男達の一人である茶髪が立ち上がり、優しげな声で制した。装飾のないスーツ姿で、普通の会社員に見える風貌だ。よくよく見ると額のあたりに黒いツノが見えた。ツノ系魔人だ。
「ケンゴのためにこっちは売るもん全部売ってきてたのに! なに勝手に飛んでんだよ! 私が掛け分払ったらトンズラか!」
「飛んでない飛んでない。普通に筋通して辞めてっから」
「私には一言もなかったじゃねーか! なめんじゃねーよこんな探させやがって!」
元ホストと客のようだった。女は黒いショルダーバッグを振りながら声を荒げており、ガラスのコップや酒瓶にぶつけて割りそうな剣幕である。
キルカはそれを危惧しているのか、女の側面でそわそわした様子で両手を宙に彷徨わせている。
「ほら姫、ここのお店に迷惑かけちゃうから、ちょっと……」
『姫』。ろくに名前も憶えていない様子である。カギリはじっと腕を組んで黙っていたため、ハルトはキルカのほうへ近付く。
怒号を浴びせる女の様子から、次には物に当たって暴れだしそうな雰囲気があった。
「店の一番じゃなくても、私の一番ならいいって言ってたのに……!」
女は声を震わせて怒り、そばにあったアイスペールを手に取った。
「だからそんな姫の応援もあったから、オレも肝臓とか色々考えて昼職に――」
女はアイスペールの水と氷を思い切り男にぶちまけ、空になったプラスチックのそれを男に投げつけた。
「あの店にいないんだったら意味ないじゃん! 私ケンゴがいなきゃ生きてけないよぉ! 勝手にいなくなっちゃうなんておかしい! 私のこと捨てたんだ!」
「拭くもの……」
びしょ濡れのソファを見たキルカがバックヤードに向かおうとすると、元ホストはそれに気付いた様子で手をあげた。
「いーよキルカちゃん! 迷惑かけちゃうしすぐ出てくから」
「……は?」
細身の女から重たい声色が出た。
「『キルカちゃん』ってなに?」
ハルトは帰りたくなったが堪えた。
「あたしは『姫』で、こいつは『キルカちゃん』?」
元ホストとその仲間の男、そしてキルカは同じような絶望的な表情になった。
女はその場にあった水割り焼酎の入ったコップを素早く掴んで、キルカの顔に向かって中身をぶちまけた。中にあった酒と氷が、キルカの額にぶつかって弾けた。
思わずハルトがキルカの前に出ようとすると、キルカはびしょ濡れになったメイド姿のまま、ハルトを制するように手を開いて向けてきた。
「ケンゴはコイツに入れ込んでるってわけ! 私のことほっといて!」
「まじでちげーよ姫、ほんとに何やってんだよ、やめてくれよ……」
その場にいる全員が驚いてろくに動いていない。ハルトはタオルを取りに行こうと思いつつも、まだ暴れそうなため離れられなかった。
「こんな顔だけの女、ケンゴのこと考えてくれないじゃん! 他にもいっぱい男いんだよこんなヤツ! 私はそんなんじゃないのに……こんなクサい街でも安心できる匂いの人、やっと見つけたのに!」
キルカは濡れた前髪越しに女をじっと見ていた。
怒っている様子ではなかった。遠くの海でも眺めているような、どこか焦点の合っていない瞳だった。
「てめーはなに見てんだよ。かわいそーな女だって言いたいの?」
女はキルカを睨みつけた。ケンゴがなにかを察したのか、中身が半分ほど入った緑色の焼酎のビンに慌てて手を伸ばしたが、女のほうが速くそれを掴んだ。
「おまえみたいな女のせいで、みんな不幸になるってわかんねーのかよ!」
激昂した女はビンの首をつかみ取って、振り上げた。何度か振り回して、中身の焼酎がこぼれた。
「っぶねえ! やめろよ姫! だめだめだめ!」
ケンゴは喚きながら首をすぼめ、女はビンを振り回す。ケンゴの仲間二人は彼女を刺激しないためか、ソファに詰めておとなしく縮こまって座っていた。
女の様子をしばらく見つめていたキルカは、突然ちらりとビンを見上げた。
女がビンを思い切り振りかぶったところを見計らったように、キルカは女の懐に向かって一歩踏み込み、迷わずそのメイドカチューシャ付きの頭を差し出した。
「キ――」
ビンが割れる音が店内に響いた。
キルカの頭の上で焼酎のビンが粉々に砕け、振り抜いた女の手にはビンの首しか残らなかった。
「え……? え?」
キルカを瓶で殴った女のほうが、気が動転した表情を見せる。
「――やっ! きゃぁ!」
首だけになったビンを、キルカのメイド服のスカートに向けて投げつけた。女の手には、瓶で切ったのかわずかに血が付着していた。
その次の瞬間には、目を見開いたケンゴが素早く立ち上がり、女の腕を強く掴んだ。
「……来い」
「痛いっ……なに!」
「来い! 表出ろリンカ! ふざけんじゃねーよてめえ!」
「痛い! ケンゴ! 引っ張んな! 私の名前おぼえてんじゃねーか! なんなんだよ!」
ケンゴは力ずくで女を引っ張る。がらんっ、と大きな鈴の音を立てて店の表のドアが開き、暴言を吐き散らしながら二人は出ていった。
数十秒ほど静かになり、うっすらと店内BGMが聴こえた。
「キルカ、怪我は? 血が見えたような」
キルカは何か考えている様子だったが、至って普通の表情でハルトを見た。
「無いよ。あたし超頑丈だし、ガラスの破片も刺さらないから」
そういう問題ではないとハルトは言おうとしたが、キルカはろくに気にしている様子がない。自分に硝子の破片が刺さらないことを知っているというのは、そのような状況に以前もなったことがあるということではないのか。
ハルトはわずかに頭に血がのぼるような熱を感じた。しかしキルカの冷めた表情を見ていると、彼女になにかしらを告げるのは憚られた。
「なんで止めたの。酒かけられた時点で、もう出るとこ出ないとダメじゃねーかな」
「あーいうのは爆発させたほうがいいの。実際あの人、びっくりして怒るのやめたよ」
キルカはそのまま片付けを始めようとしたが、ハルトはそのびしょ濡れの細い手首を掴んだ。
「なに?」
「色々言いたいことあんだけど……とりあえず今日はもう着替えて帰れよ。あとはやっとくから」
キルカは口をむっと閉じてハルトを見た。
「じゃーまかせる」
反論はなく、キルカは濡れた格好のままカウンターのほうへ向かって、カギリとすれ違いざまに目を合わせた。
「カギリさん、あたし引っ込むね」
「うん。お疲れさま」
この間もカギリは、カウンターの横でずっと腕を組んで突っ立っていた。どういうつもりでそうしていたのか、キルカの前では訊けない気がした。
ハルトはバックヤードに入り、新聞紙にゴム手袋、ちりとりと雑巾とバケツを持って、気まずそうにソファに座っていたケンゴの連れの二人に声を掛けた。
「すみません、あんま良くないんですけど片付け手伝ってください。割れ物は俺がやるんで、拭くのだけ。あと足元とか、怪我しないように……」
ハルトはその二人と掃除を行った。
幸い客は少なく、その他にはカウンターに座っていた男性二名。彼らは何事もなかったかのように、カギリと雑談の続きを始めた。
がらんっ、と店のドアがまた鈴を鳴らした。
大柄な男が一人。掃除をしているハルトのほうへ歩いてきた。
「あ、いらっしゃいませ。すみませんちょっと掃除中で」
しゃがんでいたハルトは立ち上がって応じた。男は、掃除を手伝う客の男性たちを覗き込むように見た。
「あ? ケンゴが女とヤバいって聞いて来たんだけど居ねえな」
「クズリさんお疲れ様です! さすが速いっす」
「朝からナゴヤ往復してちょうど家居たわ。ケンゴは?」
「女連れて出てっちゃいましたよ!」
男性客二人が立ち上がって挨拶する。
大柄の男はクズリというらしい。
三〇代には満たないくらいの雰囲気で、短い金髪を刈り込んでおり、左頬に炎のようなデザインの黒い入れ墨が入っている。右手にはメリケンサックのように黒い指輪が無数についており、光沢のある白いアウターと黒いスウェットにサンダル。近くに住んでいるのかもしれない。
「マジかよ。どーすんだ」
「ケンゴブチ切れてたんでわかんねっす」
「なんでブチ切れてんだよ」
「女がキルカちゃんに酒かけたり瓶で殴ったんで、ケンゴがキレて女をシメに出てきました」
「はぁ? それはやべーだろ女のほうが。キルカちゃんは?」
「バイト君が帰しましたよ。ね?」
男達は雑談をしながら片付けを続けた。
クズリは無言でハルトからちりとりを奪った。
「わりーなバイト君。うちの社員の揉め事に巻き込んだみてーだわ」
「いえ。はじめましてハルトです」
クズリはにやりと笑った。
「おーハルト君な。俺のことクズリって呼んで。まあまあ『みちる』には来てっからヨロシク」
「よろしくお願いしますクズリさん」
「今度キルカちゃんにも詫び入れに来るわ。テキトーに対応したら殺されっかもしんねーから」
笑いながら言った。そのまま掃除を進めるなかで、クズリは男達のほうに声をかけた。
「つーか、女はどうやっていきなりケンゴんとこ来たんだ? あいつスマホ捨ててただろ」
「あー……ケンゴが言ってましたけど、あの女、犬より嗅覚がヤバい魔人らしいっすよ。香水とかめっちゃつけても、街にいるだけで嗅ぎつけられるとか……」
「超やべえ女」
匂いについては確かに女も言っていたかもしれない。ハルトは魔人の特性に感心した。
クズリ達は一通り掃除を終え、三人でカギリに支払いと謝罪をして店を出ていった。
「ハルトくん」
カギリは始終カウンターのそばにいた。今も、ハルトがゴミを片付け、カウンターの後ろを通るために近付いただけだった。
「ごめんね。これあげる」
小さな透明グラスと、なみなみに注がれた水。グラスの下にはこぼれた水を受ける小皿。
ハルトはどう応えていいかわからないながら、ゴミを片手にグラスを受け取って一気飲みした。
「――げほっ! 日本酒じゃないですか!」
カギリは「お客さんのおごり」と説明した。常連らしい白髪の男性が注文したようで、ハルトに会釈して緩く笑った。
「バイトさんも大変だと思うけど、まあ頑張って。カギリちゃんに迷惑かけないように」
なんだこの店。
思わずハルトは言いかけたが、一旦は飲み込むことにする。
店の裏のゴミ捨て場に行く途中、出口の手前にはキルカがいた。
「ハルトだ。清掃完了した?」
上下とも黒いジャージに着替えており、大きなグレーのリュックを背負っていた。濡れた服でも入れているのかもしれない。
「クズリって人も来て手伝ってもらった」
「ありがたー! たまにはクズリさんも役に立つなぁ」
物言いが引っかるものの、彼のことはキルカも認識している様子である。
「キルカは帰るとこ?」
「うん。着替えたらまた出ようと思ってたんだけど、なんか髪匂うから帰る」
素直に帰ればいいのに。しかしそれが彼女なりの責任感なのかもしれない。ハルトは鼻から息を吐いた。
「あとさっきの。本当に怪我とかないの」
キルカはけらけらと笑った。
「ほんとにないよ。心配症か」
「痛みは」
「うーん」
キルカはジャージ姿で頭のてっぺんを撫で、「ないんじゃない?」と他人事のように笑った。
「あのー……、まあ、バイト入りたての俺が言うのもなんだけど……」
「なに?」
「色々。やばくないすか」
キルカはジャージの袖を口元にあてて、わざとらしく笑みを浮かべた。ついさっき瓶で殴られていたとは思えないような、飄々とした軽さがある。
「普段からだいたいこんな感じだけど、まあ、やばいよね」
「やばい」
「ねー。やばいんだよねー」
語彙力の無さもやばい。様々なニュアンスを込めたが、キルカにどこまで通じているかもわからない。ゴミ捨てのついでにキルカを見送り、ハルトは店に戻った。
戻るとカギリは真剣な面持ちで温かいコーヒーを淹れていた。そのコーヒーを受け取って飲んだ常連の白髪男性は、「やっぱりシメはこれ!」とえらくデカい声で唸っていた。
思わず文句の一つでもぼやきそうになりつつ、ハルトは口を閉じる。目が合った客には、当たり障りのない、にこりとした笑みを浮かべて頷いた。




