霧の降る森の中
隠し通路を抜け、地下水路を通り、街の外れの森の井戸から外へ出ることが出来た。こちら側にも水路が続いているとは知らなかった。ミゲルは屋敷にいた間、様々なことを調べていたようだ。
ここまで至る水路は、もう何年も手入れがされていないようで、かなり荒れていた。人が使っていた気配は無い。これなら、後を追ってくる者がいたとしても時間稼ぎになるだろう。
森へ抜けた途端、ミゲルは姿を消した。
やり残してきた仕事があるらしい。
「旦那さま達はこの森を東へ向かっていて下さいね。街道沿いに行くといいよ。あ、でも。道の上には降りちゃダメだよ? 賞金稼ぎに見つけてくれって言っているようなものだからね」
腰のポーチから地図を取り出すとマリー・アンに渡す。
「旦那さまは、この辺りならまだ詳しいだろうから。これはマーガレットさんに渡しておくね」
「あの、ミゲルさん」
ミゲルが去ろうとするのを引き留めて、マリー・アンが迷いながら口を開く。
「驚かないで下さいね。私、マーガレットではないのです。本当の名前はマリーと言います」
逃亡者が最もやってはいけないことの一つ。
本当の名前を明かされて、思わず俺とミゲルは、俯くマリー・アンの頭の上で苦い顔を見合わせてしまう。しかし、そこはミゲル。動じない。
「そっか~。驚いたよ~。でも、他の人にその名前を言わない方がいいよ? 旦那さまと俺はマリーさんの味方だけど。他の誰が聞き耳を立てているか分からないからね!」
お姫様を怖がらせないように笑顔を浮かべて注意を促した。
しかし、目の奥はちっとも笑っていない。俯いていたおかげでそれを無逃したマリー・アンはホッとして顔を上げた。
「はい、気を付けます」
「うん。じゃあ、また後でね」
手を振りながら木陰へ消える。俺に視線で『何とかしろ!』と強く訴えながら。俺はそれを見送ってから、先に立って歩き出した。慌ててついてくるマリー・アンが俺の顔色を伺いつつ尋ねる。
「怒ってますか?」
「あぁ、なぜ本当の名前を言うんだ! 逃げていることを忘れたのか? この調子でこれから出会う奴ら皆に自己紹介を続けるなら、命の保障はできないぞ」
「ごめんなさい。でも、私が偽名で呼ばれる度に、ゾルバさんが悲しんでいるような気がして」
顔に出した覚えはないのだが。そんなことで本当の名を明かすとは、このお姫様はどこまでお人好しなのだろう。俺の呆れた顔を見て、マリー・アンは困ったように微笑んだ。
「私、宮廷入ってから人の顔色や仕草で、なんとなく気持ちを汲み取ってしまうのが癖になってしまったのです。ゾルバさんは気持ちを隠すのがお上手で、滅多に分からないのですけれど。それが分かってしまうくらいですから、余程嫌なのだろうと思ったのです。気付くと気になってしまって」
フードを枝にかけたり、スカートの裾を下生えに取られながらも必死についてくる。森を歩くには向かない格好の上、宮廷ぐらしに長い幽閉を考えれば、多少遅くなるのも大目に見るべきなのだろう。
「親しい方にマーガレットという名の方がいたのですか?」
どうしても気になるのか、迷った挙句口にする。
別に隠す必要も無いので短く答えた。
「妹だ」
「まぁ! ゾルバさんには兄妹がいたんですね! 似ていらっしゃいますか?」
俺に兄妹がいることを、なぜそんなに喜ぶのか分からないが、マリー・アンは声を明るくして話の先を聞いてくる。
「そんなことを聞いてどうする?」
「それは……興味があるからですわ。お友達のことを知っておきたいと思うのは、当たり前の事だと思うのですけれど。それに、話していると少し気が紛れますわ」
期待を込めた視線が俺の顔の横に注がれている。
「似てない。血は繋がっていないからな。俺は親の名も顔も知らずに教会で育った」
「名前も? でも……コンスタンティンと」
「養父の名だ。前任の執行人で名をジャン・コンスタンティン」
「あら、お父様もいらしたのですね」
残念ながら、お姫さまが期待をするような親子の情などは無い。形上の親だったが。言う必要は無いだろう。
「なぜそんなに嬉しそうなんだ?」
「さぁ? お独りで無いと分かったからかも知れません。ゾルバさんは時々、氷山のように遠く見えるものですから」
足場の悪い森の中。歩きなれない少女は木の根に足を取られて蹴躓く。倒れそうになるのを腕を取って支えた。
「黙って歩け、息が上がるぞ」
休ませてやりたいとは思うが今は無理だ。出来れば夜通しで歩き、街から離れたいところなのだが。そのままマリー・アンの手を引いて歩く。少女は少し恥しそうだったが、拒むことは無かった。
「一方的に聞くのは良くないですわね。私の事も聞いて下さいますか?」
「あぁ」
マリー・アンは嬉しそうに、子供の頃の話をあれこれと語り出した。小さな屋敷で母と2人で暮らしていた事。犬を飼っていたこと。優しい伯父のこと。宝物のような思い出を、遠いものを見るような目で話す。その眼差しが妙に気になった。
本来なら彼女は、今語って聞かせているような平穏な世界で暮らしているべき人だったのだろう。もう、二度と戻らない幸福な日々を諦めたような眼差しで語る少女を哀しいと思った。
出来ればこのお姫様には笑っていて欲しい。
そんな柄にもない感情が湧いた。
それからしばらく歩いたが、どうにもマリー・アンが限界になり、岩陰で夜明けまで休むことにした。夜更けの森は冷えるのか、薄らと霧が立ち込める。湿った寒さにお姫さまが震えだした。
「寒いのか?」
「はい、少し」
俺はマリー・アンを傍に招くと、自分の外套の中へ収めた。
「明かりは目印にされる。だから余り大きく火を焚くことが出来ないんだ。悪いがこれで我慢してくれ」
マリー・アンは予想外の事に身を固くしたが、暖かかったのか震えは止まった
焚き火を眺めながら、黙って身を寄せあっていることに耐えかねたのか。マリー・アンが思いだしたように先ほどの話の先を尋ねる。
「妹さんは今どこにいらっしゃるんですか?」
「死んだよ」
マリー・アンは困ったように目を泳がせ、それ以上何も聞けずに口を抑えている。まずいことを聞いてしまったと後悔しているのだろうか。
「少し眠っておけ、空が白んだらまた歩くぞ」
*
「私だけ、先に行くなんて……ごめん」
いつも明るい瞳の色が、今日は涙に濡れて曇っていた。
彼女は街でも有名な、貿易商人の養女に貰われることになった。
「船に乗るんだろう? 良かったじゃないか」
「やっぱり行けないわ。だって、ゾルバはどうするの?」
いつもそう言って、お前は風に乗れないじゃないか。背中には、自由に海風を捕まえる羽が生えているのに。
「早く行っちまえ。お前さえ居なきゃ俺はいつでもこんな所出ていけたんだ。俺の心配するなら、自分の心配をしろよ」
真新しい青いドレスを着て、背中まで伸びた髪を高価なレースのリボンで飾っていた。とても似合っていると言ってあげればよかったのに。少女は傷ついた心を表わすように手にしたハンカチをきつく握りしめた。その手に貝殻のブレスレットは無かった。今の彼女に不相応な装飾品は、捨てられてしまったのだろう。
あぁ、どうして俺はいつも素直に言えないのだろう。
君のことが大好きだから、誰よりも幸せになって欲しいんだって。俺に語ってくれたおとぎ話のような夢を叶えてほしいから、寂しさなんて平気なんだよと。
「私、あなたの事を迎えに来るわ。あなたが大人になった頃、きっと迎えに来てあげる。そうしたらゾルバ、あなた私と同じ船に乗ってくれる?」
俺は、ただ黙って頷いて、彼女の手に贈り物を押し付けた。
貝殻を連ねただけの腕輪。彼女はお気に入りが再び戻ってきたことに嬉しそうな顔をして、今の格好には似合わない粗末な装飾品を身につけた。替りに流木で作った小さな白木のお守りを俺の首へかける。
美しく設えられた四頭だての馬車に乗り込み、彼女は新しい家族の元へ旅立って行った。
海風が迎えに来たんだね。
君の夢を叶えるために。
馬車で去っていく時、教会の子供たちの間で使われる瞬きの暗号で、君は俺に真心をくれた。
それから時々、アイツから手紙が来るようになった。
それで俺は神父に文字を習うことにしたのだ。彼女に出来て俺にできないのは癪だ。手紙には、異国から運ばれてくる品々のことや、何気ない日々の暮らしのことが綴られていた。
それを読むと嬉しくなると同時に、彼女が自分とは違う世界に行ってしまったことを思い知らされた。
そうして時々寂しくなると、教会から抜け出して、彼女と魚を拾った浜辺で帆船が遠い沖へ出ていくのを眺めた。
手紙には、くり返し待っていて欲しいと書かれていた。
その日も俺はいつものように船を眺めて、教会へ戻る途中だった。細い路地を抜けようとしたところで、知らない男に道を塞がれ、嫌な予感がして引き返そうと振り返った。すると、いつの間にか忍び寄っていたもうひとりの男に布で口を塞がれる。
まともな抵抗もできないまま、意識が遠のいていった。
次に目が覚めたのは、粗末な木箱のような馬車の中だった。
座席はなく藁が敷かれている。家畜の運送用の馬車の中、天井付近に設けられた細く狭い鉄格子の窓から、薄明かりが伸びて、部屋の隅に汚れた服を着た女ばかりが身を寄せ合うようにして座っているのが見えた。
絶望したくらい目を伏せ、言葉も無く、皆罪人のように手枷をはめられている。自分の手にもはめられていることに気がつき驚いた。
俺は扉へ走りより、ドアの隙間に目をこらす。
隙間からは低く空にかかる赤い満月が見え、その前を払うように木立が通り過ぎている。俺の知らない風景が広がっていた。
「この馬車はどこへ向かってるんだ?」
「知らないね。アタシらは人攫いに売られていくんだよ。……もうお終いだ」
ガタガタと揺れる馬車の音と、湿った泣き声が雨音のように暗い車内を満たしていく。
駄目だ! あの場所で待っていないといけないのに!
俺は手枷のついた両腕で扉を殴りつけるように叩き、『開けろ』と叫び続けた。
*
ふと、目を覚ます。
辺りは霧が漂い、一瞬夢なのか現実なのか迷う。
焚き火はまだ燃えているから、そう長く眠ってはいないだろう。
マリー・アンは俺の膝にもたれて寝息を立てていた。




