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第十話 神罰の光

 周囲を包む濃厚な霧は全く消える気配がない。


 アラーネアが位置を変える動作が時計塔全体を激しく揺さぶる。待ち伏せが駄目だったから、今度は不意打ちに切り替えたようだ。そしてこの露骨な振動、恐らく獲物を撹乱しようとしているのだろう。

 振動のせいでその場に立っているだけでも精一杯だ。しかも視界が遮られているせいで移動魔術も使えない。


 光の如く(シークト・ルークス)――俺が使える移動魔術は光のような速さで移動することができるが、欠点もある。障害物を避けられないことと、自分一人しか移動できないこと、そして移動先を視認しなければいけないことだ。

 特に最後の欠点は、四方八方を霧に塞がれたこの状況では致命的だった。


「どこか、隠れる場所は……」


 このままだと間違いなくすぐに喰われてしまう。俺は必死に周囲を見渡し、頭を働かせて、窮地を逃れる手段を探しだそうとした。

 時間的な猶予は殆どないだろう。一か八か飛び降りるか、襲いかかってきたところをタイミングよく縛り上げるか……駄目だ、ギャンブル同然の発想しか浮かんで来ない。

 そうしている間にも、時計塔はアラーネアの移動と重量でぎしぎしと軋みを上げている。


「……そうだ!」


 俺はさっき飛び退くまでいた場所に戻った。アラーネアの顎で削り取られた屋根の穴から、時計塔の内側の空間を覗き込むことができた。

 やはり内部までは霧も殆ど入ってきていない。俺は躊躇うことなく穴の中へ身を滑り込ませた。


光よ(ルーミナ)


 すぐに光球を出して周囲を照らす。どうやら最上部は機械室になっているようだ。原理もまるで分からない大きな装置が半ば宙吊りになって取り付けられている。

 下へ降りる階段はすぐに見つかった。だがまだ降りるつもりはない。階段の奥に光球を送り込み、下の様子をしっかり確認しておく。


 時計塔の内部は円筒形の中空構造になっていて、壁に沿って設けられた螺旋階段が一番下まで緩やかに続いている。部外者の立ち入りを想定していないのか、途中に行く手を遮るものは何もない。


 それにしても、我ながら短期間の間に随分と図太くなったものだ。あんな化け物蜘蛛に襲われたのだから、普通ならパニックになっていてもおかしくない。初っ端に遭遇したのが恐竜じみたドラゴンだったせいで、感覚が麻痺しているのだろうか。


二重の光よ(ドゥオ・ルーミナ)……っと」


 追加で二つの光球を生成し、一つはすぐ側に残しておいて、もう一つを穴から外に送り出す。

 おめおめと逃げるつもりはない。アラーネアを取り逃がすつもりもない。奴にはここで大人しくなってもらう。


「ほら、こっちだ。ここにいるぞ」


 アラーネアの動きまわる音と衝撃が穴の近くで停止する。

 一瞬の間を置いて、巨大な頭が穴を突き破った。その勢いのままに巨体が穴を押し広げ、胸部と数本の脚までも捩じ込んでくる。


「食いたいんだろ? もうちょっと近付いてみろよ」


 あと少し……もう少し近くに。確実に対処できる間合いまで。

 細くくびれた部位が視認できた瞬間、俺は待ち望んだ一言を口にした。


輝ける(スプレンデンス・)拘束の鎖(ウィンクルム)!」


 光の拘束帯がアラーネア・ヌービスの胴体と機械室の大型装置をまとめて縛り上げる。アラーネアが暴れるたびに装置と連動した鐘が鳴り、機械室に凄まじい轟音を響かせた。


「しばらくそこで遊んでろ」


 緩やかな螺旋階段を全無視し、塔の一番下の光球の明かりを目印に、移動呪文で最下層へ直行する。

 戦えば殺される。逃げれば他の人が狙われる。ならば動けないように縛り上げてから離脱すればいい。


 外に出たら戦える誰かを真っ先に呼ばなければ。役所にはもう誰もいないだろう。フィオナに声をかけるかゼノビオスさんを頼るか……こういうとき、土地勘と人脈の少なさが嫌になる。

 その二人にコネクションがある時点で破格なのかもしれないが、何かあるたびに二人を頼る発想しか浮かばないのは情けなさ過ぎる。


 ――ガキン。

 扉を開けようとしたが、返ってきたのはそんな音だった。

 押しても引いても、ガキンガキンと金属のぶつかり合う音しかせず、一向に扉の開く気配がしない。鍵が掛かっていると判断して内鍵を探してみるが、扉には申し訳程度の取っ手が付いているだけだった。


「まずいな……外からしか鍵を明けられないのか」


 考えてみれば不自然なことではない。時計塔に入るのは保守点検をする人間だけだろうから、鍵の閉まった扉を内側から開ける必要がないのだから。


 上層から擬音語に表しがたい轟音が響いた。まるで金属を強引にへし折ろうとしているかのような。


 時間稼ぎにも限界がある。拘束帯が破壊されなくとも、一緒に縛っている大型機械の連結部分が壊れればそれまでだ。

 それでも、外に出れば移動呪文を駆使して数秒のうちに助けを求められるので、扉が明けられないというトラブルさえなければ充分な猶予があるはずだった。


 下へ活路を求めた判断が誤りだったのか。いや、そんなことはない。屋根に空いた穴から逃げるためにアラーネアの巨体の隙間を通る必要があり、他の脱出手段を探すには時間が足りなさ過ぎる。


「くそっ、何かヒントは……」


 こんな状況でも肌身離さず持っていた試練の書に希望を抱いてみる。ノルン本人はいまいち信用しきれないが、この本の記述は何度も窮地から俺を救ってくれた。


 期待したとおり試練の書に記述が増えている。

 だが、それは現時点では役に立たないとしか思えないものだった。


「魔法陣!? そんなもんどうやって描けっていうんだよ!」


 ページに浮かび上がっていた呪文には、図示された魔法陣を地面に描くことを指示する文が添えられていた。そんなものを描く道具なんて持ち合わせていない。念のため周囲を見渡してみたが、石の床に模様を描けるようなものは一つも見当たらなかった。


 鐘が乱暴に鳴り響く音と、金属が破断する音が時計塔の内部に響き渡る。それに加えて木片が霧雨のように降り始めた。機械室の床が破壊されつつあるのだ。


「外に出る手段は、壁か扉を壊すか、屋上の穴から……呪文を唱えるには魔法陣が……けどどうやって……」


 木片のサイズがどんどん大きくなっていく。もはや時間の余裕はない。

 魔法陣を描く手段に指定はないので何を使ってもいいはずだ。そうでなければ困る。描けるものは手元にも時計塔にもない。ならば別の場所から用意するしか。


「……血! いや、何リットル使う破目になると思ってんだ。それに飛び散った血で形が変になる……塗料が無理なら物理的な形はどうだ。床を削って魔法陣の形を……駄目だ駄目だ、木の床ならまだしも石造りだぞ」


 ひときわ大きな音を立てて、上層から光の筋が差し込む。機械室の床が破られ、機械室に残してきた光球の光が漏れてきたのだろう。


「もう一度縛り上げて時間稼ぎを――」


 そのとき、強烈な発想が俺の脳裏を稲妻のように駆け抜けた。

 縛り上げる……鎖……そうだ、鎖だ。

 可能か否かを考えている暇はない。とにかく実行に移すだけだ。


輝ける(セプテム・)拘束の鎖(スプレンデンス・):七重展開(ウィンクルム)!」


 七条の光鎖が俺のイメージ通りに飛び交い、複雑な交差を描いていく。

 塗料を塗りたくるのでも足場を削るのでもない。床に張り巡らせた鎖によって文様を描く。浮かび上がるは金色の光の陣。


 吹き抜けの空間と機械室を遮る木の床が突き破られ、魔性の蜘蛛がその身を現す。

 だが、もう遅い。外側に僅かに突き出した扉の手前に身を寄せて、試練の書が指示する呪文を紡ぎ上げる。


魔力の陣よ(マギカ・フィグーラ)!」


 光鎖によって描かれた魔法陣が眩い光を放つ。


其は(エスト・)女神の憤怒なり(デアエ・イラ)其は(エスト・)女神の涙なり(デアエ・ラクリマ)我は(スム・)神罰を(デアエ・)執行する者(カルニフェクス)!」


 魔法陣の光が熱を増していく。一瞬、自分の身の心配が頭を過ぎったが、ここまで来たなら賭けるしかない。俺は呪文の最後の一節を叫ぶように読み上げた。


光輝によりて(スプレンデンス・)消え果てよ(ダムナーティオ)!」


 猛烈な光の奔流が魔法陣から噴出する。しかし永遠に続くかと思われた光の洪水は、時間にして数秒ほどで呆気なく収まった。

 耳鳴りがしそうなくらいに静かだ。何かが破壊された様子もない。眩しさに眩んだ目が機能を取り戻したとき、俺はまたも言葉を失うことになった。


 上層と下層、それぞれに浮かぶ光球によって、時計塔の内壁がガラスと化した光景がありありと照らし出されていた。

 床も、壁も、螺旋階段も。何もかもがガラスに成り果てていた。

 外壁までは変化が及んでいないのか、塔の外が透けて見えるということはない。塔の内側が丸ごとガラス張りになってしまったかのようだ。

 まさか、これがさっきの呪文の効果なのか。

 浴びたものをガラスに変える光――いつか聞いたガラスの街の神話と同じように。


 呆然とする俺の耳に、厚めのガラスが割れる音が届いたかと思うと、巨大なガラスの塊と化したアラーネア・ヌービスが真っ逆さまに落ちてきた。

 砕け散るガラスの巨体。俺は落下の衝撃とガラスの波飛沫に吹き飛ばされ、鉄製の扉にしたたかに背中を打ち付けてしまった。


「ぐうっ……!」


 辛うじて顔はガード出来たが、無傷というわけにはいかなかったらしく、身体の何箇所かに痛みが走る。


「――――んだ今の――は――」

「早――開け――」


 扉の外が騒がしい。鉄製の扉にもたれかかった背中越しに、錠前を開けようとしている気配が伝わってくる。アラーネアが暴れ回った音かさっきの光のせいで人が集まってきたようだ。

 立ち上がる気力もなく、安堵の息を長々と吐き出す。


「間に合った……」


 半分砕け散ったガラスの蜘蛛を眺めながら、俺は言葉にし難い達成感に浸っていた。

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