第九話 雲海蜘蛛アラーネア・ヌービス
俺は言葉を失って、雲から除く巨大な眼球を見つめ合っていた。
眼球の上から下までが俺の背丈と同程度。白目にあたる部分は見えず、半球の色つきガラスのようなものがこちらを見据えている。夜闇の中ではそれ以上のことは判別できない。
聞いた話だと、白目が外から見えるのはごく少数の生き物で、普通はよほど目玉を動かさなければ露出せず、人間のように常に露出しているのはレアケースらしい。
この雲、あるいは雲に隠れた生き物もそういう目玉の作りをしているのだろう。
……あまりの事態に、余計なことを考えて現実逃避をしてしまった。
低空飛行する雲を追いかけていたら目が合いました、なんて正気度が下がりそうなことこの上ない。
「どうしたもんかな、これは……」
選択肢は四つ。
一つ、見なかったことにして立ち去る。
一つ、もう少し様子を見守る。
一つ、すぐに攻撃を加える。
一つ、この雲を六脚地竜の光学迷彩と似たような欺瞞と考えて、輝ける拘束の鎖で剥ぎ取れるか試してみる。
四つ目はなかなか面白そうだが、相手にしてみれば攻撃されたのと変わらないかもしれない。実行するなら喧嘩を売るつもりでやるべきだろう。
「……そうだ」
ふと思い立って、試練の書の適当なページを開き、数日ぶりに例の呪文を唱えてみる。今まで人間と蜥蜴族にしかつかったことがなかったが、他の生物にも有効なら何かの手掛かりになるかもしれない。
「閲覧」
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個体名:なし 性別:雌 種族名:雲海蜘蛛
生息地:エクスマキナ議会国西部 パリエース高山地帯
身体性能:C 狩猟技量:C
魔力総量:D 魔力行使:D
社会構築:E 危険区分:B
特記生態
高山に生息する超大型の蜘蛛。第二級危険生物。
糸の代わりに水属性の魔力行使で霧や雲を発生させる。
狩猟スタイルは発生させた霧や雲に潜んでの待ち伏せと、
獲物の視界を奪ったうえで襲いかかる不意打ちの二種類がある。
物資輸送の従事者や山越えの旅人が犠牲になりやすいため、
戦闘能力が低いにも関わらず第二級危険生物に指定されている。
環境が生息に適さなくなった場合、雲に隠れて浮遊し、移動する。
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蜘蛛――そうか、あれは蜘蛛の目だったのか。頭にいくつもくっついている目の一つで外を確認しているだけなのだ。
試練の書から顔を上げてみると、なんだか雲が近付いてきている気がした。
じわり、じわりと、雲と時計塔の距離が狭まっている。目の錯覚かも知れないが、そんな気がする。
――狩猟スタイルは発生させた霧や雲に潜んでの待ち伏せと――
表示された内容の一文が脳裏を掠める。奴は俺を狩る気なのだと直感的に理解した。
「マジかよッ!」
咄嗟に横へ飛びのいた直後、巨大な蜘蛛の頭が雲から突き出して、強靭な顎で時計塔の屋根を削り取った。
雲のあちらこちらが裂け、そこから現れた大型クレーンのような八本の脚が、次々に時計塔の外壁にめり込んでいく。
俺が屋根の縁ぎりぎりで身を起こしたときには、巨大蜘蛛――アラーネア・ヌービスは雲に潜んでの浮遊を止めて、時計塔にがっしりとしがみついていた。
怪獣映画じみた光景に絶句する。蜘蛛嫌いが見たら発狂モノだ。俺は別に虫が苦手というわけではなかったが、流石にこの異常さには身震いがする。
「これで二級とか、危険生物の判断基準は一体どうなってんだ」
しかも俺は、これと似たようなモノを十体も倒さなければならないことになっている。ノルンは随分とスパルタ志向のようだ。
アラーネア・ヌービスが行動を再開する。俺の現在位置は時計塔の屋根の上。奴は顎が屋根の縁に位置する体勢で、頭を上にして時計塔にしがみついている。
足先が反対側の壁まで届いていることからも、アラーネアの巨大っぷりがよく分かった。このサイズなら人間どころか牛や馬だろうと餌食にできるに違いない。
「光の……いや、駄目だ」
今、奴は明らかに俺を標的にしている。もしも俺が移動呪文で逃げたらどうなるか。きっと奴は俺を食べることを諦めて、違う獲物を探し始めるに違いない。
奴にとっては幸運にも――そして俺達にとっては不幸にも、時計塔の下には眠りこけた獲物の巣が所狭しと並んでいる。しかも夜中ということもあって、最悪の事態が起こっても気付かれるまで時間が掛かるはずだ。
だが、その躊躇いが拙かった。
アラーネア・ヌービスの胴体がぶるりと震える。それが合図であったかのように、アラーネアの全身から白い霧が噴出した。霧は瞬く間に時計塔を包み込み、俺の視界を完全に遮断してしまう。
「しまった!」
僅かばかりの光すらも奪われて、俺はもはや足元すら見ることができなくなってしまった。
そもそも人間という生き物は視界に頼って生きるようにできている。視界を奪われたら能力半減どころではない。
そして相手はというと、霧や雲の中で活動することを前提とした構造をしているはずだ。このシチュエーションでも俺の位置を確かめる手段があるに違いない。
これは拙い――もはや詰みに近い状態だった。




