第七話 爺ちゃんの知人
第二部 石巻
石巻の朝は、神奈川で迎える朝とは少し違っていた。
港町特有の潮の香りが風に混じり、カモメの鳴き声が街の上をゆっくり流れていく。
車を走らせながら窓を開けると、潮風が頬をなでた。
「いい匂いだな。」
健二が深く息を吸い込む。
「海って感じだ。」
「子どもの頃も、こんな匂いだった気がする。」
そう言うと、自分でも少し驚いた。
匂いだけは覚えている。
景色よりも、人の顔よりも。
記憶は、匂いから戻ってくるものらしい。
父から渡されたメモをもう一度開く。
そこには祖父の名前と、墓地までの簡単な道順だけが書かれていた。
港から山の方へ。
小さな橋を渡る。
墓地は海の見える斜面。
今ならスマートフォンで一瞬だろう。
だが一九九二年は違う。
地図を見て、人に聞いて、探すしかない。
「まず橋を探そう。」
「了解。」
住宅街を抜けると、小さな川が現れた。
幅はそれほど広くない。
山から流れてきた澄んだ水が静かに海へ向かって流れている。
古い石橋が一本架かっていた。
「ここかな。」
車を近くへ停める。
橋を渡ると、空気が少しだけ変わった。
風が涼しい。
水の音だけが静かに聞こえている。
その先には墓地へ続く細い坂道があった。
「合ってそうだな。」
健二が頷く。
坂を上り始めた、その時だった。
道の脇で竹ぼうきを持った一人の老人が落ち葉を掃いていた。
黒い作務衣。
丸い背中。
ゆっくりと箒を動かしている。
近くに寺は見当たらない。
それでも、どこか和尚さんのような雰囲気だった。
「おはようございます。」
二人で頭を下げる。
老人は箒を止め、こちらを見た。
そして、穏やかに笑った。
「おぉ。」
一歩近づき、俺の顔をじっと見つめる。
初めて会うはずなのに。
なぜか懐かしそうな顔だった。
「……佐藤さんとこの子か。」
思わず足が止まる。
「え?」
老人は何でもないことのように続けた。
「大きくなったのぉ。」
俺は返事ができなかった。
父が連絡してくれたのだろうか。
でも、今日来ることを誰かに話した覚えはない。
そもそも、この人は誰なんだ。
「おじいちゃんには世話になった。」
老人は遠くを見るように笑う。
「酒が好きでなぁ。」
くつくつと笑う。
「困った人じゃった。」
その笑い方まで、昔話をしている祖父の友人そのものだった。
「……祖父をご存じなんですか?」
そう尋ねると、
老人は少しだけ首を傾げた。
「知っとるも何も。」
そして、小さく笑う。
「毎年来るからの。」
毎年。
その言葉が胸に引っかかった。
祖父はもう何年も前に亡くなっている。
誰が毎年来るというのだろう。
「まぁ、掃除してやると喜ぶわ。」
老人はそう言って箒を持ち直した。
「海風で汚れやすいからの。」
「ありがとうございます。」
二人で頭を下げる。
老人も軽く会釈を返し、また静かに落ち葉を掃き始めた。
少し歩いてから健二が小声で聞く。
「知り合い?」
「いや。」
「親戚?」
「違うと思う。」
「お前のこと知ってたぞ。」
「……うん。」
俺もそれが不思議だった。
父が電話したのかもしれない。
そう思うことにした。
その方が説明がつく。
でも、胸のどこかで、小さな違和感だけが残っていた。
坂道を登りきると、目の前がぱっと開けた。
海だった。
青く静かな海が、墓地の向こういっぱいに広がっている。
潮風が吹き抜け、墓石の間を白い花びらのようなものがふわりと横切った。
タンポポの綿毛だろうか。
季節は少し違う。
俺は目で追った。
けれど、それは風に溶けるように消えてしまった。
「広いな。」
健二が静かに言う。
「ああ。」
二人とも自然と声が小さくなっていた。
この場所だけは、旅の途中ではなく、
父や祖父が生きていた時間の中へ入ってきたような気がした。




