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第六話 海の向こう

 翌朝。


 ホテルを出ると、空は雲ひとつない青空だった。



 昨日までの疲れが嘘のように体は軽い。


「今日も暑くなりそうだな。」


 健二が伸びをする。


「絶好の墓参り日和だ。」


「そんな日和あるのか?」


 二人で笑いながら車へ乗り込む。


 白い軽自動車は再び北東へ向かって走り始めた。



 町を抜けるにつれ、景色は少しずつ変わっていく。


 高い建物が減り、田んぼが増え、やがて港町らしい景色が現れ始めた。


 信号待ちで窓を開ける。


 ふわりと潮の香りが流れ込んできた。


「海だ。」


 俺が小さくつぶやく。


「ほんとだ。」


 健二も窓の外を見る。


 それだけなのに、不思議と胸が少し熱くなった。


 子どものころの記憶は曖昧だ。


 でも、この匂いだけは覚えていた。


 潮の香り。


 漁船のエンジン音。


 港町の朝。


 記憶というのは、景色より先に匂いで戻ってくるものなのかもしれない。


「そういえばさ。」


 健二がハンドルを握ったまま言った。


「お前、小さいころ島に行ったことあるんだろ?」


「うん。」


「覚えてる?」


「猫がいっぱいいた。」


「それだけ?」



「あと……。」

 少し考える。


 頭の奥を探るように。


「朝早くサイレンが鳴って。」


「うん。」


「従兄ちゃんがウニとかアワビを潜って取ってきてくれた。」


「すげぇ。」


「でも俺、ウニ食べられなかった。」


「もったいねぇ!」


「今なら食べる。」


 二人で笑う。


「子どもって不思議だよな。」


「だな。」


 海沿いの道へ出る。


 ラジカセから流れてきたのはTUBEだった。


 夏の風が窓から吹き込み、潮の香りと混ざる。


 健二は相変わらずエアコンを消したがる。


「暑くない?」


「まだ平気。」


「今つけると、本当に暑い時に耐えられなくなる。」


「何だその理論。」


「慣れだよ。」


 結局、窓を半分開けて走ることになった。


 風が車内を勢いよく抜けていく。


 新品のプラスチックの匂いがまだ残る車内に、海の匂いが少しずつ混ざっていく。


 その香りを吸い込んだ瞬間、不思議な安心感に包まれた。


 この車なら大丈夫。


 そんな気持ちになる匂いだった。


 やがて港が見えてきた。


 大小さまざまな漁船が並び、堤防では釣りをしている人たちが糸を垂れている。


「ここか。」


 健二がゆっくり車を停めた。


「石巻。」


 俺は港を見渡した。


 初めて来る場所なのに、どこか懐かしい。


 いや。


 懐かしいというより、「帰ってきた」という感覚に近かった。


 フェリー乗り場の案内板には、「田代島」の文字がある。


 その文字を見つけた瞬間だった。


 胸の奥で、小さな記憶が動いた。


 猫。


 朝日。


 波の音。


 木造の家。


 島の坂道。


 そして、誰かが笑っている声。


 思い出せそうで思い出せない。


 夏の陽炎のように揺れていた。


「まずは墓参りだな。」


 健二が『るるぶ東北』を閉じる。


「うん。」


 俺も頷く。


 父から託された最初の目的。


 祖父の眠る墓へ行く。


 それが終わってから、本当の旅が始まる。


 港には白いカモメが何羽も飛んでいた。


 一羽だけ、妙に白い羽をした小さな鳥が、車の前を横切る。


 いや。


 鳥だったのだろうか。


 ほんの一瞬だった。


 目で追ったときには、もう何もなかった。


「どうした?」


 健二が聞く。


「……いや。」


 俺は首を振った。


「何でもない。」


 夏の空は、どこまでも青かった。


 海は静かに光り、その向こうには小さな島影が浮かんでいる。


 あの島で、この夏は少しずつ不思議な色を帯び始める。


第一部 旅立ち 完

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