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第四話 北へ向かう風

 東北自動車道を北へ走り始めて、どれくらい経っただろう。


 空は朝の青から、すっかり夏の色になっていた。


 大きな入道雲が山の向こうにゆっくりと育っている。


 遠くの田んぼは風に揺れ、その向こうを新幹線が音もなく滑っていった。


「やっと旅らしくなってきたな。」


 健二がハンドルを握ったまま笑う。


「さっきまで東京だったのにな。」


「東京なんて、もう昨日のことみたいだ。」


 まだ数時間しか経っていない。


 それなのに、家を出た朝がずいぶん昔のように思えた。


 最初のサービスエリアへ入る。


 アスファルトの照り返しが強い。


 白い軽自動車を降りると、足元からむっとした熱気が立ち上った。


「暑っ!」


 二人同時に声が出る。


 自動販売機の前へ行き、缶ジュースを買う。


 健二は迷わずドクターペッパーを選んだ。


「またそれか。」


「お前、飲み方知らないだろ。」


「飲み方?」


 健二は缶を開けると、真面目な顔で言った。


「ヒョロヒョロ飲み。」


「……何それ。」


「口をこうしてさ。」


 唇を少しすぼめる。


「ヒョロヒョロヒョロ……って空気を入れながら飲むんだ。」


 実演してみせる。


 何とも間の抜けた音だった。


「すると、本当のフルーティーな味になる。」


「絶対ウソだ。」


「いや、マジだから。」


 半信半疑で俺も一口もらう。


 言われた通りに飲んでみる。


 ヒョロヒョロ……


「……。」


「どう?」


「普通。」


「いや、違う違う。もっとヒョロヒョロと。」


「何だよ、その飲み方。」


 二人で笑い転げた。


 サービスエリアのベンチで、二十歳の男二人が缶ジュースを持って「ヒョロヒョロ」と言いながら笑っている。


 今思えば、周りから見たらずいぶん変な光景だっただろう。


 昼を過ぎ、運転を交代する。


「眠くなった。」


 健二は助手席に座るなり、大きく伸びをした。


「少し寝ていい?」


「どうぞ。」


 シートを倒す音がする。


 数分もしないうちに、小さな寝息が聞こえてきた。


 静かだ。


 ラジカセからは渡辺美里。


 窓の外では夏草が風に揺れている。


 俺はハンドルを握りながら、小さく歌を口ずさんだ。


 一人で運転している時間は嫌いじゃない。


 誰にも気を使わず、景色だけを見ていられる。


 遠くに山が見える。


 川を渡る。


 知らない町の名前が標識に現れては消えていく。


 日本って、こんなに広かったんだ。


 初めてそう思った。


 しばらく走ると、ガソリンスタンドへ入った。


 まだセルフサービスなんて見かけない時代だ。


 作業着姿の店員が走ってくる。


「レギュラー満タンで!」


 窓からベテランドライバーぶってお願いする。


 給油が始まる。


 店員は慣れた手つきでフロントガラスを拭き、タイヤを軽く蹴って確認している。


「灰皿、お取り替えしますか?」


「いえ、吸わないんで。」


「かしこまりました。」


 吸わないとかは言わなくていいのに…


 店員がフロントガラスを拭いている間、なぜか二人とも黙って前を向いていた。


 話しかけるわけでもなく、動くわけでもない。


 まるで「邪魔をしてはいけない」と思っているように。


 店員が離れると、健二が吹き出した。


「何で黙るんだろうな。」


「分かんない。」


「何か息止めちゃうよな。」


「止めてた。」


 二人とも大笑いした。


 午後になると、窓の外の景色が少しずつ変わり始めた。


 山が近くなる。


 空が広くなる。


 雲の影が田んぼをゆっくり横切っていく。


 ラジカセでは、健二が持ってきたTUBEが流れていた。


 海なんてまだ見えていない。


 なのに、その音楽を聴いているだけで、夏の匂いがした。


「この曲、覚えちゃったな。」


「まだ一日目なのに?」


「もうサビ歌える。」


「早ぇな。」


 そんな他愛もない話をしながら、車は北へ向かう。


 その日の夕方。


 夕日がフロントガラスを赤く染め始めたころだった。


 ふと、バックミラーの中を白いものが横切った。


 鳥……ではない。


 綿毛のような、小さな白いもの。


 一瞬だけ車の後ろを追いかけるように漂い、やがて夕焼けの光の中へ溶けるように消えていった。


「……。」


 俺は少しだけ気になった。


 でも、何も言わなかった。


 言葉にした途端、何でもないものになってしまう気がしたからだ。


 旅はまだ始まったばかり。


 不思議なことは、まだ誰にも起きていなかった。


 少なくとも、俺たちはそう思っていた。

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