第三話 静かな道
東名高速に入るころには、朝日がすっかり高く昇っていた。
助手席の窓から流れる景色を眺めながら、俺は地図を膝に広げる。
まだカーナビなんて高級品の時代だ。
頼りになるのは道路地図と、助手席にいる人間だけだった。
「次、どっち?」
運転する健二が前を見たまま聞く。
「えーっと……たぶん右。」
「たぶん?」
「たぶん。」
「おい。」
二人で笑う。
笑っている場合ではないのだが。
首都高速は次々と分岐が現れ、標識を読んでは地図を見比べ、また標識を探す。その繰り返しだった。
「池袋ってどっちだ?」
「いや、池袋じゃない。」
「じゃあ上野?」
「違う違う!」
「お前、地図見えてる?」
「酔ってきた……。」
助手席で地図を見続けるのは、思った以上につらい。
文字を追って顔を上げると、車はもう分岐の手前に来ている。
「右だ!」
「今言うな!」
白い軽自動車は慌てて車線を変える。
後ろから来たトラックに軽くクラクションを鳴らされ、二人そろって頭を下げた。
「すみません!」
誰に聞こえるわけでもないのに。
そんなことを何度か繰り返しながら、どうにか首都高速を抜ける。
どこをどう走ったのか、今でもよく覚えていない。
ただ、二人とも必死だったことだけは覚えている。
「……着いた。」
健二がほっと息をつく。
目の前には青い案内標識。
東北自動車道
「やった。」
思わずハイタッチをする。
たったそれだけのことなのに、大冒険を一つ乗り越えたような気分だった。
東北自動車道へ入る。
少し経ってからだった。
「……あれ?」
健二がアクセルを少し緩めた。
前を見ても車がいない。
バックミラーを見る。
誰もいない。
右側の追い越し車線。
そこにも車はいない。
反対車線も。
見える限り、一台も走っていなかった。
「事故?」
「いや……。」
事故ならパトカーや渋滞があるはずだ。
何もない。
ただ真っすぐな高速道路が、夏の空へ伸びているだけだった。
「こんなこと、ある?」
「お盆だから混んでると思ってた。」
道路は貸し切りだった。
風だけが車の横を流れていく。
窓を少し開ける。
ゴォォォ――。
風が勢いよく車内へ飛び込み、健二が慌てて窓を閉めた。
「割れるかと思った!」
二人で笑う。
高速道路の風は、町で感じる風とはまるで違っていた。
夏なのに乾いていて、少し冷たい。
どこまでも澄んでいる。
空には、大きな入道雲がいくつも浮かんでいた。
ラジカセからはTUBEが流れている。
窓の外には青空。
遠くの山並み。
白い雲。
それだけだった。
なのに。
妙に静かだった。
エンジン音は聞こえる。
タイヤがアスファルトを転がる音もする。
でも、それ以外の音が何もない。
大型トラックも。
観光バスも。
家族連れのワゴン車も。
誰もいない。
「貸し切りだな。」
「日本、俺たちしかいないみたい。」
健二が笑う。
俺も笑った。
でも、その笑いは少しだけぎこちなかった。
不思議だったのだ。
昼間なのに。
お盆なのに。
日本中が眠ってしまったような静けさだった。
しばらく走っていると、道路脇の草むらで何か白いものがふわりと舞い上がった。
綿毛だろうか。
鳥の羽だろうか。
一瞬だけ、車の横を並ぶように飛び、それから後ろへ流れて消えた。
「今、何か飛んでた?」
俺が聞くと、
「虫じゃない?」
健二は前を向いたまま答える。
「かな。」
それ以上は気にしなかった。
あのときは。
高速道路は、どこまでも真っすぐ続いていた。
地図では確かに北へ向かっている。
なのに、自分たちが進んでいるのは、本当に日本なのだろうか。
そんな妙な感覚だけが、胸の奥に残っていた。
あの日の東北自動車道だけは、今でも現実だったとは思えない。
あの静けさの向こう側に別の世界が続いていたとしても、不思議ではなかった気がする。




