第二話 北へ
出発の日。
朝五時半。
まだ夜が少しだけ残っている空の下、家の前に一台の白い軽自動車が止まった。
「おーい。」
車の窓から顔を出した健二が缶コーヒーを一本投げてよこす。
「おはよう。」
「ほら。」
受け取った缶は、朝露で少し冷えていた。
プルタブを開ける音が、静かな住宅街に小さく響く。
仕事へ向かう朝とは違う。
同じ時間なのに、空気がまるで違って感じられた。
玄関先には父と母が立っている。
「事故だけはするなよ。」
父はそれだけ言うと、いつものように腕を組んだ。
母は何度も「気をつけてね」を繰り返している。
まるで修学旅行へ送り出すみたいだ。
「行ってきます。」
荷物を抱え、三ドアの軽自動車の助手席を倒して後部座席へ押し込む。
着替え。
タオル。
洗面道具。
旅館で使うもの。
そして、旅行雑誌『るるぶ東北』。
行きたい場所には赤い付箋が何枚も貼られていた。
健二も笑いながら、自分の『るるぶ』を取り出す。
「俺も。」
「お前もかよ。」
付箋だらけだった。
二人で大笑いする。
「同じこと考えてたんだな。」
旅はまだ始まってもいないのに、もう楽しかった。
父から預かった十万円。
健二が持ってきた五万円。
そして俺の五万円。
合計二十万円。
ダッシュボードの上に取り付けた小さな収納箱へ入れる。
「ここから高速代。」
「ガソリン。」
「駐車場。」
「共通経費な。」
「了解。」
財布には夏のボーナス十万円。
これは自分の土産や宿代、好きなことに使う金だった。
今思えば、二十歳そこそこの若者が持つには大金だった。
けれど、不思議と不安はなかった。
なんとかなる。
二人とも、本気でそう思っていた。
車にはカーステレオが付いていない。
だから後部座席には大きなラジカセが積んである。
乾電池ではなく、シガーソケットから電源を取るタイプだった。
カセットテープも何本も持ってきた。
健二はTUBE、サザンオールスターズ、ゆず。
俺は尾崎豊、渡辺美里。
そして、旅立ちだけは譲れない一本があった。
「最初、これでいい?」
俺は一本のカセットを差し出す。
健二はラベルを見ると笑った。
「お前らしいな。」
中島みゆき――『おだやかな時代』。
再生ボタンを押す。
少しだけノイズが混じったあと、静かな歌声が流れ始める。
白い軽自動車は、ゆっくりと住宅街を走り出した。
まだ眠っている街。
新聞配達のバイクが一台。
犬を散歩させる老人。
コンビニの灯りだけがやけに明るい。
誰も知らない。
この車に乗った二人が、本州の一番北まで行こうとしていることを。
東名高速へ向かう道で、朝日が山の向こうから顔を出した。
街がオレンジ色に染まる。
「始まったな。」
「うん。」
それだけだった。
でも、その一言だけで十分だった。
アクセルを踏む。
軽自動車の小さなエンジンが、少しだけ頑張るような音を立てた。
まだ旅は始まったばかり。
このときの俺たちは知らなかった。
この夏が、三十年以上経っても色褪せない「終わらない夏」になることを。
そして。
この先の東北自動車道で、今でも説明のつかない景色を見ることになることも。
俺たちはただ、冒険に出るワクワクだけでいっぱいだった。




