第一話 旅立ち
1992年。
バブル景気の熱気がまだ街のどこかに残っていた頃。
俺は神奈川県の片田舎で暮らしていた。
山を見上げれば、昔から天狗が住むと言われる山並みがある。
子どもの頃は本気で信じていたが、大人になるにつれて「昔話」として聞き流すようになっていた。
高校を卒業し、そのまま近所の工場へ就職した。
特別勉強ができたわけでもない。
家が裕福だったわけでもない。
将来の夢なんて考えたこともなかった。
働いて、給料をもらって、それで十分だと思っていた。
いや、思うことにしていた。
社会人二年目の夏。
お盆休みが二週間あると聞いたときも、「長い休みだな」くらいにしか思っていなかった。
そんなある日の夕食後、父が茶封筒を一つ差し出した。
「これは、お前にやる。」
中を見ると、十万円入っていた。
「バイト代だ。」
父は休日になると、知り合いの仕事を手伝っていた。
「宮城の墓、ずいぶん行ってないだろ。田代島のおばさんにも顔を出してこい。」
父にとっては故郷だった。
俺にとっては、子どもの頃に一度だけ行った遠い島。
猫がたくさんいて、海が青くて、朝早く漁に出る島。
それくらいしか覚えていない。
翌日、その話を友達の健二にすると、健二は笑った。
「墓参りだけで帰ってくるの、もったいなくね?」
「じゃあ、どうする。」
「本州最北端まで行こうぜ。」
それだけだった。
地図も開いていない。
距離も知らない。
でも、その一言でこの夏の行き先が決まった。
あっさりと。
あまりにも自然に。
それが、俺たちらしかった。




