第二十二話 最北端の風
「あと五キロ。」
助手席で地図を見ていた駿が顔を上げた。
「もうすぐだ。」
「おう。」
健二は少しだけアクセルを緩める。
ここまで来ると、急ぐ理由はもうなかった。
旅の目的地は、すぐそこにある。
海沿いの一本道を進む。
右手には小さな漁港。
左手には、どこまでも広がる津軽海峡。
海は思っていたより青く、そして近かった。
「北海道って、もっと遠いと思ってた。」
駿が窓の外を眺めながら言う。
「俺も。」
「意外と近いな。」
健二も海の向こうへ目を細める。
空気が澄んでいるせいか、水平線の向こうにぼんやりと陸地が浮かんで見えた。
「……あれ。」
「北海道じゃない?」
「たぶん。」
二人はしばらく黙って見つめていた。
教科書やテレビでしか知らなかった北海道が、海の向こうに本当にある。
それだけで十分だった。
やがて駐車場へ車を入れる。
エンジンを切ると、急に静かになった。
聞こえるのは風と波の音だけ。
ドアを開けた瞬間、強い潮風が体を包んだ。
「うわっ。」
駿は思わず帽子を押さえる。
「風、強っ。」
「飛ばされたら北海道だぞ。」
二人は笑いながら岬へ向かった。
本州最北端の碑。
黒い石碑の前では、何組かの旅行者が写真を撮っている。
「お願いします。」
近くにいた年配の夫婦へカメラを渡す。
「はい、撮りますよ。」
二人はぎこちなく石碑の横へ並ぶ。
どちらも写真を撮られることには慣れていない。
「もう少し笑って。」
そう言われても、照れくさくて笑えない。
結局、少しだけ口元が緩んだところでシャッターが切られた。
「ありがとうございました。」
「若いうちは、いっぱい旅をしなさい。」
夫婦は笑顔で手を振ってくれた。
写真を撮り終えると、二人は海の方へ歩いていく。
石でできた幅広い階段が海の中まで続いている。
二人でその階段に座り、しばらく波を眺めた。
「北海道。」
「近いな。」
「泳げると思う?」
駿が冗談半分で言う。
健二は海流を見つめる。
「いや。」
「流される。」
「だよな。」
二人とも泳ぎは得意ではない。
「石投げしてみる?」
「いいな。」
足元から平たい石を拾う。
海面へ向かって投げる。
チョン。
チョン。
ポチャン。
「二回。」
「惜しい。」
健二も投げる。
チョン。
チョン。
チョン。
ポチャン。
「三回!」
「くそ。」
「勝った。」
たったそれだけのことで、笑えてくる。
二人はまた腰を下ろした。
潮風が心地よい。
目の前には海しかない。
ここより北には、もう海だけ。
「来ちゃったな。」
駿がぽつりと言う。
「本当に来たな。」
健二も頷く。
ただ墓参りへ行くだけだったはずの旅。
気が付けば、本州の一番北まで来ていた。
「なんか。」
駿は笑う。
「目的が終わると、ちょっと寂しいな。」
「まだ帰りがある。」
「そうだった。」
「帰りものんびり行こう。」
「うん。」
その時だった。
岬の上を、一陣の風が吹き抜ける。
潮風とは違う、柔らかい風。
駿は何気なく空を見上げた。
白いものが、ひとつ。
青空の中を、ふわりと横切っていく。
「まただ。」
思わず声が漏れる。
健二も空を見上げる。
「どれ?」
しかし風はすぐに止み、白いものは見えなくなっていた。
「見えなかった。」
「そっか。」
駿は少しだけ残念そうに笑う。
健二はその表情を見て言った。
「ほんとにいるんだろ?。」
「あぁ。」
駿はゆっくり頷いた。
「俺も見てみたいな。」
二人はもう一度、海を見る。
波は絶え間なく岸へ寄せては返す。
風も、雲も、海も。
今日だけの景色なのに、どこか昔から知っていたような気がした。
この夏は、まだ終わらない。
そんな予感だけが、潮風の中に静かに溶けていた。
白い軽自動車は再び走り出す。
次に目指すのは、恐山。
地図の上ではほんの少し先。
けれど二人はまだ知らない。
その山へ向かう途中で、「行くのをやめよう」と顔を見合わせることになるとは。




