第十九話 湖畔の宿
奥入瀬渓流をあとにすると、道はゆるやかな上り坂になった。
木々の間から、ときおり青い湖面が顔をのぞかせる。
「十和田湖かな。」
助手席で地図を広げた健二が顔を上げる。
「もうすぐだと思う。」
湖が見えるたび、二人は子どものように「あっ」と声を上げる。
それだけで楽しかった。
夕方になり、宿を探し始めた。
観光案内所でもらった地図を頼りに細い道へ入ると、小さな二階建ての建物が現れた。
「ここ、民宿かな。」
アパートのような造りで、派手な看板もない。
「泊まれるかな。」
「なんとかなるでしょ」
この旅で覚えた便利な言葉。
車を降りて民宿に突入。
小さな受付があり、宿の女将が出てきた。
「いらっしゃい。」
「二人です。」
「一泊お願いできますか?」
「大丈夫ですよ。」
二人は顔を見合わせ、小さくガッツポーズをした。
旅に出てから、「泊まる場所がある」というだけで、こんなにも安心することを知った。
案内された部屋は二階の一番奥だった。
畳敷きの六畳ほどの部屋。
窓を開けると、その向こうに十和田湖が広がっていた。
「おぉ……。」
駿は思わず声を漏らした。
夕日に照らされた湖は鏡のように静かで、空の色をそのまま映している。
「これは当たりだな。」
健二も窓辺へ並ぶ。
二人はしばらく何も話さず景色を眺めていた。
夕食の時間になる。
食堂へ降りると、焼き魚、煮物、味噌汁、漬物。
どこか家庭的な献立だった。
「うまい。」
健二は箸を進める。
「うん。」
駿も頷く。
味は申し分ない。
それでも食べ終わる頃、健二が笑いながら言った。
「せっかく青森まで来たんだからさ。」
「もっと青森らしいもの食べたかったな。」
「確かに。」
「りんごとか?」
「夕飯にりんごは違うだろ。」
二人で吹き出した。
「まあ、旅館のご飯って感じでいいじゃん。」
「それもそうか。」
結局、ご飯はきれいに平らげた。
部屋へ戻る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
窓を開けると、昼間とはまるで違う湖がそこにある。
月明かりが湖面へ細い道を描いている。
風が少しずつ強くなってきた。
ゴォ……
木々が鳴る。
窓ガラスが小さく震える。
「結構吹いてきたな。」
「山の天気だからかな。」
駿は窓を少しだけ閉めた。
それでも風の音は部屋まで届いてくる。
布団を敷き終え、天井を見つめる。
今日も一日、ずいぶんと移動した。
石巻から奥入瀬。
そして十和田湖。
思えば、もう神奈川を出発して何日も経っている。
「まだ半分くらいか。」
健二が呟く。
「そうだな。」
「もう結構旅した気がする。」
「毎日濃いからな。」
沈黙が流れる。
風だけが窓の外で鳴っていた。
「そういえば。」
健二がぽつりと言う。
「今日、お前また白いの見たって言ってたな。」
「ああ。」
「やっぱ見間違いかな。」
「疲れてるんだろ。」
「そうかも。」
「俺なんて運転してると木が人に見える時あるぞ。」
「それは危ないだろ。」
「冗談。」
二人は笑う。
笑い声はすぐ風に消えていった。
部屋の電気を消す。
月明かりだけが障子越しに差し込んでいる。
風がまた強くなる。
ガタッ……
ガタガタ……
窓がわずかに鳴る。
「雨戸閉めればよかったかな。」
駿が小さく呟く。
「まあ、大丈夫だろ。」
健二の返事はすぐ聞こえなくなった。
もう眠ってしまったらしい。
駿も目を閉じる。
風。
湖。
木々のざわめき。
それらが重なり、不思議な子守歌のように聞こえてくる。
その夜。
眠りの浅い時間が何度かあった。
風の音だったのか。
木が軋む音だったのか。
それとも、別の何かだったのか。
駿には分からなかった。
ただ一つだけ。
翌朝、健二が「変な夢を見た」と話し始めるのだが。
その時まで、不思議な夜を体験していたとは思いもしなかった。




