第十八話 水の音
車は渓流沿いの駐車スペースへ静かに滑り込んだ。
エンジンを止めると、それまで聞こえなかった音が一気に耳へ流れ込んでくる。
ザーッ……
絶え間なく続く水の音。
鳥の声。
木々を渡る風。
どれも大きな音ではないのに、不思議と辺りはその音だけで満たされていた。
「静かだな。」
健二が小さく言う。
「水の音しかしない。」
「いや、だから静かなんだよ。」
駿は笑った。
確かに水は勢いよく流れている。
なのに耳障りではなく、心の中まで洗っていくような音だった。
二人はカメラを持って遊歩道を歩き始める。
道は渓流に寄り添うように続き、木漏れ日がアスファルトに揺れている。
足元には苔むした岩。
その間を、透き通った水が白い泡を立てながら流れていく。
「こんな場所、日本にもあるんだな。」
健二が感心したように辺りを見回す。
「写真じゃ伝わらないな。」
「だから来るんだろ。」
駿が写ルンですを構える。
ファインダーを覗き込み、シャッターを切った。
カシャッ。
一枚。
たった一枚。
撮り直しはできない。
だからこそ慎重になる。
「もったいなくて撮れないな。」
「分かる。」
「あと何枚?」
「まだ半分くらい。」
「大間まで残しとけよ。」
「分かってる。」
歩いていると、小さな滝が現れた。
岩肌を白い糸のように水が滑り落ち、滝壺へ吸い込まれていく。
二人はしばらく何も言わず見上げていた。
水しぶきが風に乗って飛んでくる。
「涼しい。」
駿は両手を広げる。
汗ばんでいたシャツが、一瞬で冷えていく。
「神奈川とは別世界だな。」
「同じ日本なのにな。」
遊歩道を歩いていると、何人かの観光客とすれ違う。
カメラを首から下げた夫婦。
リュックを背負った学生らしき青年。
子どもの手を引く家族。
みんな自然と声が小さくなっていた。
この場所では、大声を出すことが似合わない。
誰もがそう感じているようだった。
道端に倒木があり、その上へ腰を下ろす。
持ってきた缶ジュースを開けた。
プシュッ。
「うまい。」
健二が一気に飲む。
「運転してると喉乾く。」
「あと少しで十和田湖だな。」
「今日は宿取れればいいけど。」
「何とかなるだろ。」
旅に出てから、二人は「何とかなる」をよく口にするようになっていた。
そして実際、何とかなっていた。
休憩を終え、再び歩き始める。
その時だった。
駿は遊歩道の先に、小さな白いものが浮かんでいるのを見た。
またいつもの……
風は吹いていない。
それなのに、その白いものだけが、ゆっくりと川の上を漂っている。
ふわり。
ふわり。
まるで何かを探しているように。
「……。」
思わず立ち止まる。
「どうした?」
健二が振り返る。
「あそこ。」
指をさす。
しかし健二が見る頃には、もう何もなかった。
「何もないぞ。」
「また、白い綿みたいなのが……。」
「また?」
「うん。」
健二は笑いながら肩をすくめた。
「疲れてるんだよ。」
「昨日歩きすぎたし。」
「そうかな。」
駿も苦笑する。
確かに疲れている。
見間違いかもしれない。
そう思うことにした。
遊歩道の終わり近く。
渓流は少しだけ流れを緩めていた。
透明な水の底には丸い石が並び、小魚が群れになって泳いでいる。
「こんな水なら飲めそうだな。」
「腹壊すぞ。」
「だよな。」
二人は笑う。
その笑い声も、すぐ水音へ溶けていった。
駐車場へ戻る途中。
駿は一度だけ振り返った。
奥入瀬の森は何事もなかったように静かだった。
ただ、水だけが流れ続けている。
そして、その木々の間を――
ほんの一瞬だけ。
白い綿毛のようなものが、陽の光を受けてふわりと舞った気がした。
今度は追いかけなかった。
追いかけても、きっと見失う。
そんな気がしたからだ。
車へ戻ると、二人は顔を見合わせた。
「腹減った。」
「そればっかりだな。」
「自然を見ると腹減る。」
「意味分かんない。」
笑いながら車へ乗り込む。
エンジンがかかる。
白い軽自動車は、ゆっくりと奥入瀬渓流を後にした。
目指すのは十和田湖。
そして、その夜。
旅が始まって初めて、「不思議なもの」を二人で見ることになる――。




