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第十七話 青い道

 第三部 北へ続く道


 石巻の港を離れると、町並みは少しずつ背中へ流れていった。


 港町独特の潮の香りも、内陸へ向かうにつれて薄れていく。


 窓を半分だけ開けると、熱い風が車内を吹き抜けた。


 エアコンをつければ快適なのに、健二はいつものように窓を開けたままだ。


「なぁ、暑くないか?」


 駿が聞く。


「まだ我慢できる。」


「我慢してんのかよ。」


「本当に暑くなった時に困るだろ。」


 旅に出てから何度も聞いた理屈だった。


「これ以上暑くなる前に冬になるぞ。」


「…確かに。」


 二人は笑った。


 風が強く吹き込み、ラジカセから流れる音楽をかき消していく。


 それでも夏の匂いだけは、はっきりと車内へ入り込んできた。


 道路脇の案内板を見ながら、駿が地図を広げる。


「今日は東北道まで戻って、そのまま北上だな。」


「奥入瀬まで行けそう?」


「行けると思う。」


「十和田湖の近くで泊まれれば十分か。」


 高速道路へ入る。


 アクセルを踏むと、小さな白い相棒は軽快に速度を上げた。


 助手席で地図を眺めながら、駿はふと思う。


 この車は旅に出るためだけに生まれてきたような気がした。


 決して速くはない。


 豪華でもない。


 けれど、この小さな車だからこそ、この旅に似合っている。


 サービスエリアで一息つく。


 売店を眺め、缶コーヒーを買う。


「また写ルンです撮る?」


 健二が聞く。


「いや、まだいい。」


「景色が変わってからにしよう。」


 フィルムは限られている。


 シャッターを押すたび、残り枚数が減っていく。


 デジタルカメラなどまだない時代。


 一枚一枚が少しだけ特別だった。


 午後になると、高速道路の両側に広がる景色が少しずつ変わり始めた。


 山が近くなる。


 木々が濃くなる。


 空はどこまでも青い。


 真っ白な積乱雲だけが、ゆっくりと流れていた。


「空、広いな。」


「神奈川じゃこんなに見えない。」


 ラジカセから流れていたTUBEが終わる。


 テープがカチャンと止まった。


「裏返して。」


「はいはい。」


 助手席から身を乗り出し、ラジカセのふたを開ける。


 カチャ。


 テープを裏返す。


 また音楽が流れ始める。


 こんな何気ない作業さえ、この旅では妙に楽しかった。


 夕方近く。


 高速を降りると、山道が始まった。


 道の両側は深い森。


 木漏れ日がアスファルトにまだら模様を描いている。


「奥入瀬ってこの辺か。」


「たぶんもうすぐ。」


 窓から入る空気が変わった。


 少しだけ冷たい。


 夏なのに、森の中だけ季節が違うようだった。


 ラジカセの音量を自然と下げる。


 誰が言い出したわけでもない。


 この場所では、大きな音を出してはいけない。


 そんな気がした。


 渓流沿いの細い道へ入る。


 澄み切った水が岩を滑るように流れている。


 白いしぶき。


 苔むした岩。


 背の高い木々。


 見上げても空はほとんど見えない。


「すげぇ……。」


 健二が思わず声を漏らす。


 駿も言葉が出なかった。


 今まで見てきた景色とは何もかも違う。


 水の音だけが絶え間なく響いている。


 車を停められる場所を見つけ、二人は外へ出た。


 川のそばまで歩く。


 水は驚くほど透き通っていた。


「冷たそう。」


 駿が手を入れる。


「おぅ。」


 思わず声が漏れる。


「冷てぇ!」


 健二も笑いながら手を入れる。


「夏なのにな。」


 二人はしばらく、子どものように生き物がいないか探していた。


 その時だった。


 ふわり。


 何か白いものが視界の端を横切った。


 綿毛のような、小さな白いもの。


「あれ?」


 駿は顔を上げる。


 しかし、もう何も見えなかった。


「どうした?」


「いや……。」


「何か飛んでた。」


「トンボじゃない?」


「違う気がしたけど。」


 風が木々を揺らす。


 葉の擦れる音だけが森に響く。


「疲れてるんじゃない?」


「……かもな。」


 駿は笑ってごまかした。


 もう何度目だろう。


 あの小さな白いものを見たのは。


 しかし、それ以上考えないようにした。

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