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第十六話 島を出る朝

 翌朝、目を覚ますと、蔵の小さな窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。


 波の音は昨夜と変わらない。


 もう怖いとは思わなかった。


 むしろ、この音で目を覚ます朝が心地よかった。


「起きるか。」


 布団の上で伸びをすると、健二も目をこすりながら起き上がる。


「よく寝たなぁ。」


「久しぶりにぐっすりだった。」


 旅に出てから初めて、疲れがすっと抜けた気がした。


 階段を下りると、叔母が朝食の支度をしていた。


「おはよう。」


「よく眠れた?」


「はい。」


「波の音も慣れました。」


「最初はみんなそう言うんだよ。」


 叔母は笑いながら焼き魚を皿にのせる。


 湯気の立つ味噌汁。


 炊きたてのご飯。


 海苔と漬物。


 豪華ではない。


 でも、旅館の朝食とは違う温かさがあった。


「いただきます。」


 二人は箸を取った。


 食事のあと、帰り支度を始める。


 着替えをバッグへしまい、写ルンですを確認する。


 まだ何枚か残っていた。


「あと一個くらい使い切れそうだな。」


 健二が笑う。


「大間まで残そう。」


「そうしよう。」


 蔵を出る前、駿は部屋をもう一度見回した。


 窓の向こうには朝の海。


 夜通し聞こえていた波の音。


 木の床。


 少しきしむ階段。


 たった二泊だったのに、もう何日も過ごしたような気がした。


「また来よう。」


 思わず口にすると、


「うん。」


 健二も迷わず頷いた。


 叔母が港まで見送りに来てくれた。


「今度はもっとゆっくりおいで。」


「はい。」


「今度は父にも来るように伝えます。」


 叔母は少し照れたように笑った。


「お墓、来てくれてありがとうね。」


「お爺ちゃんお祖母ちゃんも喜だと思うよ。」


 駿は静かに頭を下げた。


 父に頼まれて来た墓参りだった。


 でも、今では来て良かったと思っていた。


 フェリーが港へ近づく。


 ゴォォ……


 ゆっくりと汽笛が鳴る。


 船が岸壁へ横付けされ、人々が乗り込んでいく。


「じゃあ。」


「また。」


 叔母は最後まで手を振っていた。


 二人もずっと手を振った。


 船が岸を離れる。


 港が少しずつ遠ざかる。


 甲板へ出る。


 潮風が頬をなでる。


 島がゆっくり小さくなっていく。


「いい島だったな。」


 健二が呟く。


「うん。」


「また来たい。」


「俺も。」


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。


 その時だった。


「……あ。」


 健二が港の方を指さす。


「駿。」


「あれ。」


 防波堤の先。


 小さな白い影が見えた。


 一匹の白猫だった。


 港の一番端に座り、船をじっと見つめている。


「見送りかな。」


 健二が笑う。


「猫が?」


「島の猫だから。」


 駿も目を細める。


 船が少しずつ離れていく。


 白猫は動かない。


 ただ静かに座ったまま。


 その姿は、朝日に照らされて白く輝いていた。


 やがて距離が離れ、小さな白い点になり、


 ついには島の景色へ溶け込むように見えなくなった。


 石巻港へ着く。


 車は出発した時のまま駐車場で待っていた。


 ドアを開けた瞬間、


 ムワッとした夏の熱気と、新しい車の匂いが二人を包む。


「ああ。」


 健二が笑う。


「帰ってきた。」


「なんか安心するな。」


 新しいプラスチックの匂い。


 少し熱を持ったシート。


 旅の続きを待っていてくれた相棒のようだった。


「次は青森だ。」


「奥入瀬。」


「十和田湖。」


「そして……。」


 二人は顔を見合わせる。


「本州最北端。大間崎。」


 エンジンが静かに目を覚ます。


 ラジカセのカセットを入れ替える。


 スピーカーから流れ始めたのは、夏らしい軽快なメロディだった。


 港を出ると、バックミラーに海が映る。


 その向こうには、田代島が浮かんでいるだろう。


 駿は心の中で、小さく呟く。


(また来るよ。)


 もちろん、その声は誰にも届かない。


 それでも潮風は、どこか優しく吹いていた。


 旅は、まだ終わらない。


 むしろ、ここからが本当の北への旅だった。


第二部 石巻 完。

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