十二話 神社の朝
翌朝。
目を覚ますと、窓の外から波の音が聞こえていた。
時計を見ると、まだ六時を少し過ぎたところだった。
健二は布団の上で大の字になって眠っている。
「……静かだな。」
昨夜は波の音が少し怖く感じた。
けれど、不思議なもので、朝になるとその音は心地よいBGMのように聞こえる。
窓を開ける。
東の海から昇った朝日が、港を黄金色に照らしていた。
潮の香りを含んだ風が部屋を通り抜ける。
夏なのに、少しだけひんやりしている。
「いい朝だ……。」
思わず声が漏れた。
朝食まで少し時間があったので、一人で外へ出ることにした。
港には漁師たちの姿が見える。
船のエンジン音。
ロープを巻く音。
カモメの鳴き声。
子どもの頃、この景色を見たはずなのに、細かな記憶はほとんど残っていない。
それでも、身体のどこかが覚えているような気がした。
ふと、昨夜白猫が消えた石段のことを思い出す。
「ちょっとだけ行ってみるか。」
誰に言うでもなく呟き、細い路地へ足を向けた。
朝の路地は静かだった。
洗濯物を干す音だけが聞こえる。
猫たちは、まだ眠そうに軒先で丸くなっていた。
石段は昨夜と変わらずそこにあった。
一段一段が少し高く、急な坂になっている。
ゆっくり登る。
途中で振り返ると、港が少しずつ小さくなっていく。
海が近い。
島全体を見渡せる高さだった。
最後の石段を登り切ると、小さな神社が姿を現した。
鳥居は木製で、長い年月を経た色をしている。
境内には大きな木が何本も立ち、木漏れ日が地面に揺れていた。
人の気配はない。
けれど、荒れている様子もない。
誰かが毎日掃除をしているのだろう。
空気がとても澄んでいた。
「おはようございます。」
誰もいない神社へ、小さく挨拶をする。
子どもの頃からの癖だった。
母の実家が神社だったこともあり、神社へ入ると自然に頭を下げてしまう。
鈴はなかった。
小さく手を合わせる。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる気がした。
「駿?」
後ろから声がした。
振り返ると、健二が息を切らせて立っていた。
「起きたらいなかったから探したぞ。」
「ごめん。」
「散歩。」
「いい場所だな。」
健二は境内を見回す。
「ここだけ空気が違う。」
「分かる?」
「うん。」
二人とも理由は説明できない。
でも、確かに何かが違った。
風の音まで静かだった。
その時だった。
ザッ。
木々の奥で、小さな音がした。
二人同時に振り向く。
白いものが見えた気がした。
「猫?」
「かな。」
近寄ってみる。
しかし誰もいない。
風が葉を揺らしているだけだった。
「見間違いか。」
「たぶんな。」
そう言って笑う。
神社の裏手へ回ると、小さな崖になっていた。
そこから見える景色に、二人とも思わず声を失う。
島。
港。
海。
遠くに浮かぶ島影。
夏空。
雲がゆっくり流れていく。
「……すげぇ。」
健二が呟く。
「秘密基地みたいだ。」
「子どもの頃、こんな場所知ってたら毎日来てたな。」
「絶対来る。」
しばらく何も話さなかった。
風だけが吹いている。
その沈黙を破ったのは健二だった。
「駿。」
「ん?」
「もしさ。」
「俺たち、就職しないで大学とか行ってたら、今頃何してたんだろうな。」
少し考える。
「俺は……。」
答えが出ない。
「分からない。」
「だよな。」
「でも。」
景色を見たまま言う。
「こうしてここへ来ることはなかった気がする。」
健二も静かに頷いた。
「それは俺も思う。」
人生には遠回りもある。
だけど、遠回りをしたから見える景色もある。
その頃の俺たちは、まだそんな言葉を知らなかった。
帰ろうと石段へ向かう。
その途中だった。
鳥居の向こうに、一匹の白猫が座っていた。
朝日を浴びて、毛が金色に光っている。
じっとこちらを見つめている。
今度こそ近づこうとした。
しかし、
「駿~! 健二く~んー!」
下の方から叔母の声が聞こえた。
「朝ご飯できたよー!」
「あ、行かなきゃ。」
目を離して返事をする。
もう一度鳥居を見る。
そこには、もう猫はいなかった。
「また逃げられた。」
健二が笑う。
「縁がないのかな。」
俺も笑って石段を降り始める。
その後ろ姿を、大きな杉の陰から静かに見送る白い影があったことを、二人は気づかなかった。




