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第十一話 島の夕暮れ

 夕方になると、島は昼間とはまるで違う表情を見せ始めた。


 西の空がゆっくりと茜色に染まり、海は鏡のようにその色を映している。


 漁船が一隻、また一隻と港へ戻り、防波堤には猫たちが思い思いの場所で丸くなっていた。


 どこか時間そのものが、ゆっくり流れているようだった。


「ここ、時計いらないな。」


 健二が防波堤に腰掛けながら言う。


「何時?」


 腕時計を見る。


「五時半。」


「まだそんな時間?」


「神奈川にいたら、まだ会社終わったくらいだな。」


「今ごろライン動いてるな。」


 その一言で、二人とも少し笑った。


 ベルトコンベア。


 機械の音。


 流れてくる部品。


 毎日同じ景色。


 ここには、そのどれもなかった。


 港の脇に、小さな自動販売機が一台だけ立っていた。


 二人で缶ジュースを買う。


 プルタブを開ける音だけが静かに響き。


 夕暮れの港へ吸い込まれていく。


 そのまま海を眺める。


 水平線の向こうは金色に光っていた。


「北海道って、あっち?」


 健二が指をさす。


「たぶん。」


「遠いな。」


「でも、この旅で行けそうな気がしてきた。」


「だな。」


 まだ出発して三日。


 なのに、もう何週間も旅をしているような気分だった。


 叔母さんの家に戻る途中、小さな路地を歩く。


 家と家の間から潮風が吹き抜ける。


 魚を干す匂い。


 海藻の香り。


 磯の少し生臭い空気。


「子どもの頃、この匂い苦手だった。」


「今は?」


「懐かしい。」


「不思議だな。」


 本当にそうだった。


 嫌だった匂いが、


 大人になると安心する匂いに変わったりする。


 叔母の家では夕飯の支度が始まっていた。


「ちょうど良かった。」


 叔母が笑顔で迎える。


 食卓には刺身や煮魚、味噌汁が並び始めていた。


「いっぱい食べなさい。」


「いただきます。」


 二人とも自然と笑顔になる。


 旅館ともホテルとも違う。


 家のご飯だった。


 食事をしながら、叔母は父の子どもの頃の話をしてくれた。


「兄ちゃんはねぇ。」


 箸を動かしながら笑う。


「毎日海ばっかり見てた。」


「親父が?」


「そう。」


「泳げないくせに。」


「え?」


 思わず聞き返す。


「泳げなかったの?」


「全然。」


 健二が吹き出した。


「親子だ。」


「俺も泳げない。」


「似るもんだねぇ。」


 叔母も笑う。


 その笑顔を見ていると、


 ここへ来て良かったと思えた。


 食後、外へ出る。


 夜風が気持ちいい。


 空には無数の星が広がっていた。



 神奈川でも星は見える。


 でも、こんな数じゃない。


「すげぇ……。」


 健二が見上げたまま動かない。


「天の川じゃない?」


「本物初めて見た。」


 二人とも言葉を失う。


 波の音だけが聞こえる。


 蔵へ戻る途中だった。


 道の真ん中に、一匹の白猫が座っていた。


 昼間見た猫だった。


 月明かりを浴びた白い毛は、昼間よりも青白く輝いて見える。


 猫は逃げない。


 ただ静かにこちらを見ている。


「またいた。」


 健二が小さく言う。


「昼の猫だ。」


「そうだな。」


 俺が一歩近づく。


 白猫は立ち上がる。


 逃げるかと思った。


 だが違った。


 少しだけ前を歩き、


 こちらを振り返る。


 また数歩歩く。


 そして振り返る。


「……。」


「呼んでる?」


 健二が冗談半分に言う。


「まさか。」


 俺も笑う。


 それでも、二人とも自然と猫のあとを歩いていた。


 白猫は路地を抜け、小さな石段の前で止まる。


 石段の上には、小さな祠があった。


 苔むした石。


 古い鳥居。


 誰かが手入れを続けているのだろう。


 とても小さいが、凛とした空気が流れていた。


 白猫は石段をひとつ上ると、こちらを振り返った。


 その瞬間だった。


 遠くから叔母の声が聞こえた。


「駿ちゃーん! 健二くーん!」


「もう寝る時間だよー!」


「はーい!」


 返事をして振り返る。


 もう一度猫を見る。


 しかし――


 石段には猫はいなかった。


 気配さえも。


「早いな。」


 健二が笑う。


「猫だからな。」


 俺も笑って答えた。


 その時は、それ以上気にしなかった。


 翌日、その石段の先にある小さな神社が、この島の人たちに古くから大切にされてきた場所だと


 知ることになる。


 そして、その白猫が、再び俺の前へ姿を現すことも。

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