第6章 前世 翠 空を降りた竜
エスターニャ・コモサス星
俺が
空を見上げていた世界の名だ
飛べなくなった俺は
番号すら呼ばれなくなった
104号
その音は
いつの間にか
誰の口からも消えていた
返事をする相手すら
もういない
呼ばれない
というのは
叱責より重い
命令より冷たい
――厩舎の奥
使われなくなった区画
本来なら
誰の足音も
届かない場所
それでも――
毎日
足音が来る
最初は
幻だと思った
だが
違った
黄金
蒼
銀
三つの気配は
いつも同じ順で現れる
ヴィヴィは
いつも同じ距離で立つ
近づきすぎず
だが
遠くもない
命令はしない
励ましもしない
「調子はどうだ」
それだけを聞く
それ以上は
踏み込まない
だからこそ
逃げ場がない
哀れみじゃない
監視でもない
ただ
ここに来る
それだけが
毎日
繰り返される
マリアは
檻の前で手を組む
目を閉じる
声は出さない
けれど
空気が
スゥ……とわずかに緩む
痛みが引くわけじゃない
骨が繋がるわけでもない
だが
胸の奥が
コト……
少しだけ
静かになる
ジンは
少し離れた位置で
全体を見ている
視線は鋭い
いつでも動ける位置
だが
今は動かないと決めている位置
三つの色が
毎日
ここへ来る
理由はない
義務でもない
命じられたわけでもない
――なのに
俺は
何も返せていない
役に立たない
守れない
飛べない
誇れることがあるとすれば
ひとつだけ
あの時
訓練空域で――
ヴィヴィを守り
盾になった
それだけだ
それ以外は
何もない
その時の俺には
それしかなかった
✦ ✦ ✦
マリアは
毎日
祈っていた
自分が何をしているのか
本人は
わかっていない
ただ
胸の奥が
そうしろと囁く
祈りは
術式じゃない
魔法でもない
だが
似ていた
傷を塞ぐのではなく
時間の上を
サラ……と撫でるような感触
折れた翼の奥
断たれた感覚の
さらに奥
忘れかけていた
“空の線”が
チリ……と呼び起こされる
俺は知らない
マリアも知らない
だが
その祈りは確かに
毎日
少しずつ
俺の中の同じ場所を
コツ……
コツ……と叩いていた
治しているんじゃない
呼んでいる
失われたはずのものへ
もう一度
触れようとしている
✦ ✦ ✦
その日
空気が先に壊れた
音じゃない
揺れでもない
世界の“膜”が
外側から
ミシ……と押される感触
――ズン……
重く
嫌な沈み方だった
俺は伏したまま
反射で首を上げる
空が裂ける
裂け目の向こうは
夜でもない
星でもない
濁った黒
光を拒む層
ダーク星
近づくほど
灯りが灰色に沈んでいく
そこから
魔物が
ドロ……と流れ込んできた
裂け目から檻まで二十歩
影は十数体
まだ
増える
歩く影
定まらない輪郭
意思だけが鋭い
空間を踏み潰すように
ゴリ……
ゴリ……と数を増していく
✦ ✦ ✦
ヴィヴィが前に出た
黄金が
ギラ……と弾ける
魔物を押し返す
ジンの銀が
線を描く
ザシュ……と敵を裂く
だが
子どもの身体だ
数が違う
持久が違う
削られていく
ヴィヴィの足が止まる
膝が
ギシ……と沈む
その背後で
マリアは
動かない
逃げない
祈る
声もなく
ただ
胸の奥だけを澄ませ
祈り続ける
魔物が
飛び込んだ
(――間に合わない)
その瞬間
胸の奥で
何かが
ドクン……
とはじけた
折れた翼の根元
もう二度と
応えないはずの場所
そこが
ブル……と震えた
考える前に
身体が前へ出る
理由はない
命令もない
ただ――
ヴィヴィの前に立つ
それだけ――
――バサァッ!!
風が鳴る
ほんの一瞬
奇跡でもない
回復でもない
祈りと衝動が
ギリ……と繋がっただけ
俺は
飛んだ
黄金の前へ
魔物との境界へ
シューが
盾になる
次の瞬間
――ドォンッ!!
衝撃
世界が
ガクン……とひっくり返る
身体が吹き飛ぶ
地面を
ゴロ……と転がる
息が詰まる……
もう……
動けない……
翼は
完全に沈黙した
視界の端で
ヴィヴィが立っている
膝は震え
呼吸は荒い
それでも
立っている
「寝てろ
あとはオレが遊んでやる」
ジンは囲まれている
銀の線が
スゥ……と薄くなる
「……まだ終わらない」
「線は
繋がっている」
マリアは祈っている
声もなく
必死に
「大丈夫
私はここにいます」
誰も
次を持っていない
呼吸が
止まりかけた
✦ ✦ ✦
空が
割れた
裂け目じゃない
破断
もっと重く
もっと古い存在が
ズゥ……と落ちてくる
老いた龍神
鱗は欠け
角は摩耗し
呼吸は荒い
だが
視線だけは
揺れていない
龍神の瞳が
ゆっくり流れる
蒼をかすめ
銀の気配を掠め
そのまま
黄金へ辿り着く
龍神は
静かに笑った
「お前さんは
光だけで出来てるわけじゃあねえ」
太い声だった
乾いた山風みたいに
豪快に響く
「優しさもあれば
怒りもある」
一拍
「だから前へ出られるんだ」
ヴィヴィは
息を呑む
龍神の視線が
黄金の奥を覗き込む
光の裏にある影まで
すべて見通すように
「蒼がいる」
「銀がいる」
「翠もいる」
一拍
「……それでやっと立てる器さ」
フハハ……と笑う
威圧じゃない
全てを遊び尽くした者だけが持つ
圧倒的な温かさだった
次の瞬間
龍神の息が
フッ……と吹きかけられる
バチ……ッ
何かが走った
遅れて
背骨を伝って
熱が駆け上がる
呼吸が
一瞬止まる
痛みが引く
だが
翼は戻らない
代わりに――
形が
ギシ……と崩れる
骨が組み替わる
鱗が剥がれる
感覚が切り替わる
空の記憶だけが
指先に残っていた
俺は
地面に伏したまま
人の身体に
変わっていた
混乱はない
恐怖もない
ただ
何かを失ったことだけは
身体が先に知っていた
呼吸が浅い
重心が違う
背にあるはずの重みが
消えている
その空白だけが
スゥ……と全身へ広がった
マリアが駆け寄る
ヴィヴィが
息を呑む
✦ ✦ ✦
龍神は
もう一度
黄金を見る
「……もう長くは持たねえな」
その声に
恐れはなかった
「だから持って行け」
一拍
「わしの役目も
この命もな」
不敵に笑う
別れ際ほど
堂々としていた
「お前さんが
次を持って行け」
そう言って――
龍神の身体が
黄金の粒子になって崩れていく
風へ溶けるみたいに
静かに散って――
空だけが
やけに広かった
だが
消えない
黄金は
空中で
ゆっくり集まり始める
光が重なり
形を変える
腕を覆う
ひとつのガントレット
それが
ボロボロになった
ヴィヴィの右腕へ宿った
黄金が
脈打つ
ドクン……
ヴィヴィの右腕が
強い光を吸収していく
「――ッ!?」
反射で
腕を引く
だが
外れない
黄金は
ギシ……と音を立てながら
右腕へ噛み合うように宿った
ヴィヴィの瞳が
大きく揺れた
俺は
地に伏したまま
空を見上げた
風が
ひと筋だけ
頬を撫でる
軽い
背にあったはずの重みが
どこにもない
翼を動かそうとして
――何もない
胸の奥が
ズゥ……と沈む
それでも――
もう決めていた
黄金が立っている
蒼がいて
銀がいる
なら
前に立つ
飛べなくてもいい
それが
俺の誓約だ
空は
静かに閉じていった




