第3章 現世 蒼 祈りが再び灯る刻
――ゴウッッ!!
(……戻ったのか……?)
(いや……落ち着け……)
耳の奥で
水の底から届くような
電子音が震える
……ピ……
……ピ……
<……生きて……ヴィヴィ……>
枕元のスマホが
かすかに光っていた
送信者の名前は
読み取れない
(……ヴィヴィ……)
喉の奥が
わずかに詰まる
(……なんでだ……)
聞いたことがない
はずなのに……
ドクン……
理由はわからない
身体のほうが
先に応えていた
✦ ✦ ✦
――カタン
病室の扉が
小さく鳴った
白衣の女性が
控えめに顔を覗かせる
ここは病院だったのか……
「……あの……
目を覚まされたのですね……?」
やわらかい声だった
押しつけない
静かな蒼
いつもの確認
いつもの動作
――のはずだった
視線が合う
その瞬間
――ドクン
同時だった
世界が
ズレる
音が消える
空気が
一拍
遅れる
茉莉奈の呼吸が
止まった
手にしていたカルテが
指先から滑る
――パサッ
紙が
床へ散った
胸の奥から
何かが押し上げてくる
痛い
だけど
それだけじゃない
知らないはずのものが
懐かしい
あり得ないはずの感情が
先に来る
茉莉奈の指先が
無意識に強く握られた
白くなる
戸惑う
本能が
そう告げている
なのに……
動けない
目が離れない
(……離れたら……)
その先だけが
言葉にならない
胸の奥が
静かに告げていた
――もう
見失いたくない
ピ――――ッ
モニター音が
わずかに跳ねる
ヴィオの心拍が
乱れていた
ドクン……
ドクン……
(……なんだよ……これ……)
頭はまだ
追いつかない
だが
身体が知っている
視線の重さ
空気の止まり方
胸の脈動
どこかで
知っている
(……違う)
(初めてじゃない)
否定した瞬間
余計に深く沈む
視線が外れない
捕まっている
――茉莉奈は
一歩だけ
引こうとして止まる
苦しい……
それでも
目を逸らせない
胸の奥が
静かに揺れる
理由は
わからない
それでも
離れてはいけない気がした
喉が震える
声が出ない
代わりに
胸の奥から
こぼれそうになる
――体が覚えている
必死に
押し込める
「……お目覚めになって
本当によかったです」
声が
少しだけ崩れた
整えきれない
しゃがみ込み
散らばった紙を拾おうとして
指先が止まる
名札が
かすかに揺れた
《蒼茉莉奈 看護実習生》
その名を見た瞬間
ヴィオの内側で
何かがほどける
ドクン……
(……なんだ……)
蒼茉莉奈(21)
その名前を認識した瞬間
胸を満たしていた重さが
少しだけ軽くなる
呼吸が戻る
(……安心……?)
意味がわからない……
だが
確かにそうだった
(……なんで……)
言葉にならない
だが
目だけが離せない
「蒼と申します……
……看護実習生です……」
いつも通りの挨拶
そのはずなのに
紙を拾う指先だけが
わずかに力んでいた
ヴィオは
その震えに
気づいてしまう
その瞬間
胸の奥を
何かが掠めた
(……守る)
言葉になる前に
熱だけが残る
(……違う)
否定する
だが
感覚だけは
消えなかった
視線を外したあとも
胸の奥だけが
妙に熱かった
茉莉奈もまた
同じだった
✦ ✦ ✦
ひと月が経った
右腕はまだ
思うように動かなかった
リハビリを終えても
指先の感覚は鈍いまま
それでも
夢の中でだけは
投げていた
目が覚めると
右腕は鉛だった
《ヴィヴィ》という名前が
眠るたびに近づく
知らないはずなのに
遠ざからない
天空病院 デイルーム
テレビでは
CCロッカーズの最終戦が
流れていた
実況
歓声
乾いた音
――シュッ
――ガンッ!!!
画面の中で
打球が
頭部へ当たる
翔が崩れた
〈……当たりました……〉
実況が
わずかに遅れて届く
担架
走るスタッフ
ざわめく観客席
その瞬間
ヴィオの右腕が
熱を帯びた
胸の奥の黄金が
ドクン……ッ
と跳ねる
ガタンッ
持っていた紙コップが
床へ落ちた
画面が
一拍
遅れた
いや
遅れたように見えた
倒れた翔の周囲に
何かがいた
翠
ふわり……
羽ばたく前の影みたいに
一瞬だけ形を持ち
――折れた
(……俺にしか見えていない)
呼吸が浅くなる
胸がざわつく……
(……翔……)
視線が凍る
担架
走るスタッフ
実況の声
何も変わらない
ただの事故
ただの映像
――のはずなのに
胸だけが
それを拒んでいた
(……違う)
ドクンッ
胸の奥が
もう一度鳴る
(……見た)
見たはずなのに
説明できない
右腕の奥だけが
嫌に熱かった
✦ ✦ ✦
病棟の廊下の端で
茉莉奈は
立ち止まっていた
胸が
ざわりと揺れる
違う
今日だけじゃない
積み重なっている
少しずつ
確実に
消えずに
会うたびに
増えていく
最初は
気のせいだと思った
患者に対する同情
心配
それだけだと
思っていた
だけど
違った
視線が合うたび
胸が軋む
息が乱れる
祈りの中に
その人の影が
静かに残る
礼拝室の椅子へ
腰を下ろそうとして
動きが止まった
廊下のテレビでは
まだ最終戦の映像が流れていた
担架で運ばれる選手を見た瞬間
胸の奥が
小さく軋んだ
理由は
わからない
✦ ✦ ✦
――ヴィオは
ただの患者のはずなのに
それなのに
目で追ってしまう
気づけば
無事を確かめている
胸の奥の蒼だけが
この人を
見失わないでと
静かに告げていた
礼拝室で
祈るとき
思い浮かぶものが
――誰かの無事を
願う形に
変わっていた
生きていてくれて
ありがとうございます
無事でいてくれて
ありがとうございます
そんな言葉が
胸の底に
浮かんでしまう
白衣の袖を
ぎゅっと握る
胸の奥から
こぼれそうになる
――願い
「……どうか」
祈りを落とした瞬間だった
映像が脳裏に映る――
――空が近い
――冷たい
――誰かが落ちる
違う
――落としたくない
胸が
引き裂かれる
〈落とさない〉
――知らない声
なのに
涙だけが
先に零れた
――翼が裂ける
――巨大な翠の翼
血
抱き込む腕
――ドクンッ
その中心に
黄金の誰かがいた
なぜか
視線は黄金から
離れなかった
茉莉奈の呼吸が止まる
映像が砕ける
礼拝室へ
現実が戻った
肩が揺れる
息が浅い
なのに
胸の奥だけが
あたたかかった
まだ
名前のないもの
もっと古く
もっと深く
壊れる未来へ
手を伸ばそうとする
祈りだった
(……違う)
ただの患者じゃない
会ったことない
はずなのに
なぜか
見失いたくない
胸の奥が
冷たく震えた
嫌な予感ではない
もっと確かなもの
記憶より先に
魂が知っている予兆
この人は
きっと
また
一人で
行ってしまう
そう思った瞬間
胸の奥の蒼が
静かに揺れた
生きていてほしい
ただ
それだけだった
礼拝室の窓から
夕陽が差し込む
蒼いステンドグラスの光が
床へ落ちる
茉莉奈は
その光の中で
そっと目を閉じた
指先を重ねる
祈りの形
誰に教わるでもなく
ずっと昔から
知っていたみたいに
「……どうか」
小さな声
風に溶けるほど
静かな願い
それでも
胸の奥の蒼だけは
確かに応えていた
ドクン……
遠く
病室のヴィオもまた
理由のわからない鼓動に
胸を押さえていた
まだ思い出していない
まだ知らない
けれど
蒼の祈りだけは
運命の糸となって
黄金へ届いていた




