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第19章 現世 赤 受け継いだ重み

アメリカ中西部


白いグラウンドへ

乾いた風が吹いていた


放課後の廊下


オーガ・クリムゾン(16)

バニー・キャロット(16)


同級生


隣の席


オーガが立ち止まる


少しだけ間を置いて

真っ直ぐ言った


「今日の練習を見に来てくれないか」


礼は崩さない


だが

目だけは逸らさない


遠回しにする気がなかった


「バニーの目は嘘をつかない」


短く息を吸う


「……俺は

それを信じる」


バニーは

小さく笑って頷いた


断る理由なんて

最初から無かったみたいに


「行くわ」


一拍


「あなたが

どれだけ戦ってるか

ちゃんと見てあげる」


その言葉だけで

オーガの背筋が

少しだけ伸びた


✦ ✦ ✦


バニーは

スタンドの端で

スコアブックの真似事をしていた


走者が動けば眉が寄る


投手が乱れれば

唇を結ぶ


見られている


その感覚が

オーガの背中を正す


――パン


乾いて

少し軽い音だった


まだ

どこか外へ向いている音


捕ることはできる


止めることもできる


だが――


まだ

場の中心までは届いていない


オーガは

その音を聞きながら


自分の中に足りないものを

まだ言葉にできずにいた


✦ ✦ ✦


数年後


オーガは

アメリカのドラフトへ指名された


拍手

フラッシュ

祝福の声


だが――


胸は妙に静かだった


心の炎だけが

奥でかすかに燃えている


ゴゴゴ……


空気が重い


夢が叶ったはずなのに


何かが

まだ始まっていない感覚だけが残る


捕手は

その違和感を放置しない


そこで出会った


ベテラン捕手

レオン


レオンは

ブルペンの隅へ立つだけで

空気を静かに締める


誰も騒がない


誰も近づきすぎない


ただ

視線だけが集まる


レオンは

ミットを鳴らしながら言う


「キャッチャーは

頭でやる」


短い


冷たい


「感じるな」


一拍


「――考えろ」


さらに短い


「……それだけだ」


励ましはない


慰めもない


だが――


迷いもなかった


レオンのノートは

角が擦り切れていた


何度も開かれた跡


何度も

負けを潰してきた跡


合理だけでは辿り着けない

重さがあった


レオンは

配球を説明しない


代わりに

質問だけ落とす


「今の投手は

何を怖がってた?」


――答えられない


「打者は

何を待ってた?」


――沈黙


「お前は

何を観察してる?」


淡々としている


だから逃げられない


オーガの喉が

小さく強張る


答えが曖昧だと

キャッチャーミットの

鈍い音が鳴る


――パン


芯を外した

逃げ場のある音


レオンは怒鳴らない


ただ

目を細める


その視線だけで

背筋が凍った


✦ ✦ ✦


夜明け前


霧が

低く漂うグラウンド


ミットはもう

革の匂いじゃない


汗と血の匂いだった


指は腫れ

爪は割れ


握るたびに

骨が軋む


――パン


軽い


逃げている


レオンが言う


「怖がるな」


一拍


「――それだけだ」


投手か

打者か


――違う


自分だ


打たれる未来を恐れている


失点の責任を避けている


オーガは

そこで初めて


自分の怖さの名前を知った


脳裏へ

負け試合の音が蘇る


崩れた投手

沈んだベンチ

俯いた背中


守れなかった


その熱だけが

胸の奥で

赤黒く燻っていた


奥歯が軋む


拳が

無意識に強く握られる


震える膝を

強引に止める


次の一球


外角低め


理由を

頭の中へ並べる


感情を切る


怖さじゃない


順番で考える


――パンッ


芯を食う音


まだ足りない


レオンが短く言う


「次」


オーガは

深く息を吸った


配球を先回りする


打者の呼吸

肩の開き

足の重心


来る


――今だ


――パンッ!!


空気が裂けた


重い音


投手の迷いが

ミットへ吸い込まれる


逃げない


責任を引き受ける


初めて


守るじゃなく

前へ出た


音が変わる


ミットの芯へ

熱が残る


もう

逃げていなかった


✦ ✦ ✦


帰宅すると


妻のバニーが

何も聞かずに

スープを置いた


湯気が

柔らかく赤く揺れる


胸の奥で

鼓動が

少しだけ早くなる


バニーは

理由を聞かない


今日うまくいったのか


失敗したのか


そんなことは

先に問わない


ただ

温度だけを置く


それが

オーガにとって

どれほど救いか


レオンの言葉を

思い返す


「捕手は

投手の明日を壊すな」


一拍


「……守り抜け」


その夜を

オーガは忘れなかった


スープの湯気と


ミットの痛みと


その言葉が


同じ夜へ重なった


✦ ✦ ✦


数年後


レオンは引退した


最後まで寡黙だった


ロッカーで

ミットを拭き


ただ一度だけ

オーガを見る


「資質はある」


一拍


「あとは自信だ――」


拍手の渦の中で

その一言だけが

異様に大きい


その翌年


レオンは

日本のプロ野球チームの

監督になった


海を越えたという事実だけが

静かに重い


監督就任の直後


電話が来る


「日本に来い」


短い


「捕手が足りない」


淡々と


「……以上だ」


行くべきだと

わかっていた


だが――


即答できなかった


電話を切ったあと


オーガは

自室でミットを叩く


――パン


今までで一番

空っぽで


なのに

重い音だった


指先が

じわりと熱を帯びる


鎧の内側で

血がゆっくり巡る


レオンの隣で戦う未来


未知の国で

笑われる未来


胸の左右で

同じだけ重く揺れていた


春が過ぎ

夏が焼き

秋が乾く


何度も

パスポートを出しては

またしまう


決めていないんじゃない


覚悟だけが

まだ足りなかった


机の引き出しが

少しだけ

きしむようになる


✦ ✦ ✦


シーズン終了


夜のリビング


バニーが声を落とす


「……まだ迷っているの」


責めない


だが――


逃がさない


「怖いならそう言って」


一拍


「逃げる顔は

あなたらしくない」


オーガは

静かに息を吐く


ミットの傷をなぞり

指先が止まった


「……迷ってるんじゃない」



「……覚悟の形を

探してた」


沈黙


一度

深く息を吸う


そして

顔を上げた


「……ありがとう」


短く落ちる


「――決めたよ」


一拍


「日本だ」


胸の奥で

熱が鳴る


「レオンさんに恩返しだ」


さらに続ける


「――失敗しても

逃げない」


部屋へ

短い静寂が落ちた


決意だけが

まだ

そこに残っていた


バニーは

それを聞き届けてから


真っ直ぐ笑う


「よし!」


迷いがない


「――すぐ行動よ!」


指を折りながら言う


「ビザも

家も

言葉も」


一拍


「全部

私が整える」


その声は

やさしいのに

妙に頼もしかった


「あなたは

前だけ見ていて」


笑う


「振り向いたら怒るわよ」


オーガは

目を瞬かせる


「……おい」


少しだけ笑う


「最初から

決まってたみたいな顔だな」


バニーは

机の隅のノートを指した


日本の主要スタジアムの気候

食事

移動導線


オーガが対峙する

打者のリスト


几帳面な文字で

書き込まれている


オーガは

しばらく何も言えなかった


バニーが

少しだけ笑う


「あなたが

自分の心に気づくのを

待っていただけ」


「準備は

もう終わってるわ」


ノートを閉じる


「あとは

あなたがそのミットを持って

飛行機へ乗るだけ」


その言葉で


オーガの中の何かが

静かに定まった


ひとりじゃない


その重さだけで

背筋が伸びた


守るものを抱えて

前へ出る


ようやく

身体が答えを返した


✦ ✦ ✦


その夜


オーガは夢を見る


夢は

爆ぜるんじゃない


裂けた


裂け目から

冷たい風が吹き込む


その向こうに

誰かの泣き声


――白


――感じる


夕焼けの谷


乾いた風


叫び


光が

割れるみたいに広がる


――ビキィ……ッ


伸ばした手の先で

何かがすり抜けた


届きかけて

届かない


喉の奥で

言葉にならない祈りが焼ける


どうか


生きてくれ


その願いだけが

谷へ落ちた


✦ ✦ ✦


目覚める


胸が熱い


痛みじゃない


炎でもない


消えない灯りが

鼓動と同じ速さで

脈を打っていた


外はまだ暗い


だが――


夜は終わりかけている


耳の奥で

ジジ……と

小さな音が残っていた


夢の裂け目が

まだ閉じ切っていないみたいに


オーガは

ゆっくり起き上がる


胸の奥で


赤が


まだ黙ったまま

息をしていた


言葉にはならない


だが

わかる


これは

消える熱じゃない


胸の奥で


赤だけが


静かに燃え続けていた


そして――


遠いどこかで

まだ助けを待つ温度へ


身体だけが


先に

応えていた

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