第18章 前世 蒼 赦しの縫糸
北の魔法地区から戻り
まだ数日
祝祭の旗は片付けられ
拍手だけが
石壁へ残っていた
だが――
空気だけが
もう冷えている
ヴィヴィとジンの帰還の余熱が
まだ廊下へ残っている
シューも
鬼族との修行を終え
王城へ戻ってきた
「いつも通り」
そう言い張れる配置は
揃っている
黄金
蒼
銀
翠
欠けてはいない
なのに――
どこか
噛み合わない
……ピシィ
乾いた音がした
いや……
した気がした
壁じゃない
扉でもない
空気そのものが
見えない指先で
弾かれたような音
それだけで
背筋が冷えた
……知っている
その音を
私は知っている
知らないふりを
しているだけだ
あの夜
空へ残った綻び
誰も口にしない
だから
私も言わない
……ピシィ
音だけが残る
あれ以来
ヴィヴィの胸の黄金が
時々ギン……と鳴る
本人は
「気のせいだ」で片づける
王子は
そうやって
自分を支えるしかない
口には出さない
言葉にした瞬間
壊れると分かっているから
✦ ✦ ✦
妹のリンダは
王族専属の踊り子として
廊下を歩いていた
桃色の布
白い薄衣
歩くだけで
視線が揃う
本人は笑う
笑ってしまえるところが
妹の強さで
同時に怖さだった
「姉さん――遅い」
リンダが振り返る
桃の布が
ふわり……と揺れた
「遅くない
お前が早い」
軽口
普通の会話
それが
余計に胸へ刺さる
妹は
好きになってはいけない人を
好きになった
あの一夜だけ
王子の隣へ立った
それだけで十分だった
視線でなぞれば
透けて見えてしまう
あの子が閉じ込めた
指先の震えも
息を殺して這わせた
夜の残り香も
なのに
今日も綺麗な“普通”を纏っている
哀しいほどに
型が良すぎるのよ
「マリア様が呼んでる」
そう言って
礼拝堂の方へ歩く
布の揺れは美しい
だが
歩幅の端だけが
少し硬い
その背を見ながら
何も言わない
言えば
守れなくなるものがある
✦ ✦ ✦
礼拝堂は静かだった
扉を開けた瞬間
香の匂いが
薄く流れる
蒼い光が
床の石目をなぞっていた
私は
礼拝堂の柱へ寄りかかった
蒼の巫女
――マリアがいた
膝をつき
背筋を伸ばしている
顔は穏やか
声も穏やか
「お疲れさま……リンダ」
その声だけで
礼拝堂の空気が
少し柔らかくなる
「はい……
今日も務めを」
会話は普通だった
天気のこと
衣の擦れ
足首の疲れ
踊りの呼吸
ただ――
言葉の隙間だけが
異様に澄んでいる
澄みすぎて
触れたら割れそうだった
マリアは
リンダの手元を
ほんの一瞬だけ見る
それだけで
妹の指先が
わずかに固くなる
隠す気配はある
だが
隠しきれてはいない
マリアの呼吸が
少しだけ深く整う
知っていて
言わない
知っていて
赦している
あの夜
王子を繋ぎ止めた温度を
マリアは知っている
責めれば
傷になる
暴けば
戻れなくなる
だから――
マリアは
責めない代わりに
祈りを濃くする
それが
この城を保つ方法だから
「無理はしないでくださいね……」
言葉は
ただの気遣いに聞こえる
けれど
それだけじゃない
「大丈夫です……
わたしの役目なので」
リンダは
崩さない
「役目……」
マリアは
息を整えるみたいに微笑む
その微笑みには
痛みも
悔しさも
混じっていない
ただ
受け止める静けさだけがある
リンダの喉が
小さく動く
一拍だけ
息が詰まる
ここで
何か言えば終わる
何か聞けば
傷になる
でも――
二人は言わない
普通に話す
普通のまま
傷を包む
その沈黙の奥に
まだ乾ききらない熱があることを
この目はとっくに拾っている
リンダは
何か言いかけて
結局
口を閉じた
マリアは
その目を見て――
祈るみたいに
ほんの小さく頷いた
その瞬間
蒼の息が
一段だけ深くなる
礼拝堂の空気が
静かに整っていく
まるで
見えない裂け目の上へ
布を一枚
そっと被せるみたいに
✦ ✦ ✦
……ピシィ
礼拝堂の空気が鳴った
二人は瞬きをする
だが――
ふたりとも
何も言わない
言った瞬間
その音に
形が生まれる
背筋を這う
冷たい感覚
来ている
裂け目が
ここへ寄ってくる
マリアは
気づいているのに
顔色を変えない
リンダも
気づかないふりがうまい
マリアは言った
「少しだけ……待ってて」
「はい……」
リンダは黙って座る
衣の端を整える
踊り子としての所作
王族専属としての型
指先だけが
少しきつく
布をつまんでいた
誰も動かない
何かが
礼拝堂の輪郭へ近づいている
見えない
だが
確かに近い
✦ ✦ ✦
マリアは
祈りの姿勢へ戻る
両手を胸へ重ねる
指先はほどけない
震えない
吐息は浅い
けれど
乱れない
唇だけが
小さく結び直される
「蒼よ……
魂の糸を……結んで……」
声は細い
なのに
蒼が濃くなる
床の蒼紋が
スゥゥ……と浮かび上がる
石と石の間を伝い
空気の輪郭を撫でていく
……ピシィ……!
裂け目が反応した
見えない硝子が
もう一度
割れようとする
その寸前の音
礼拝堂の端で
光が
一拍だけ
四角く滲んだ
四角い
不自然な光
そこだけ
世界の切り抜きみたいだった
その奥――
破れている層の暗がりから
赤い目が
ひとつ
端に浮かぶ
見たこともない異質な文字
――REC
……視線
見ている
こちらを
祈りを
誰かじゃない
何かが
ただ
見ている
それだけなのに
背筋だけが
冷えていく
マリアの蒼が
いま
裂け目を押さえている
邪魔はできない
ここで割り込めば
たぶん
裂け目は広がる
ふっ……
嫌な綻びほど
目が離せない
あの目は
奪うために見ていない
ただ
見ている
マリアの息が
静かに深く
石床へ染み込んでいく
祈りはもう
言葉の形をしていない
魂を紡ぐ
蒼い縫い糸
『蒼よ……
結びて』
その掠れた響きだけで
世界の膜が
正しい位置へと引き戻される
蒼い糸が
裂け目の縁を撫でる
寄せる
合わせる
押し込む
割れが
割れのまま終わらず
噛み合う
縫い合わされるんじゃない
思い出すみたいに
元の位置へ戻っていく
空気が戻る
光の四角も消える
赤い目も引いた
RECの文字だけが
最後に
一拍遅れて消える
礼拝堂へ
静けさが戻った
だが――
元通りではない
確かに
一度
向こうが見えた
✦ ✦ ✦
マリアは
顔を上げない
ただ
一拍だけ
肩で息をして
小さく呟いた
「……よかった」
何が良かったのか
彼女は言わない
言わないことで
赦しが守られる
妹は何も聞かない
聞かないことで
自分を守る
私もまた
何も言わない
知っていることほど
口にしてはいけない夜がある
口を開けば
この静寂は崩れる
言葉はいらない
祈りは
祈りのままに
裂け目は
裂け目のまま
縫い目さえ見せない方が
この世界は保てる
最後にひとつだけ――
ごく小さく
修復された音が鳴った
……キュッ
それは
糸を最後まで
引き結んだ音だった




